才媛の選択
一夜が明けた。
まんじりともせず朝を迎えた霞琳は、ぼんやりとした頭で机に向かっている。
昨日、捨て台詞を吐いて出ていった絹逸は、あの後戻ってこなかった。
支出報告書は女官長の決裁なくして内侍省に提出することはできないので、絹逸がどんなに納得できずとも霞琳の指示通り修正した上でもう一度やってくると予測していたのだが、甘い考えだったのだろうか。
(いやいや、もしかしたら訂正に手間取っているだけかもしれないし……それならきっと今日中には来るはず!……来る、よね?)
そう自分に言い聞かせてみるが、これもまた予測というより願望に過ぎないのではないだろうかという不安が消えない。
悶々と考え込むうち、嫌な思考が浮かんではっとする。
(頑なな絹逸さんが私の言うことを素直に聞いてくれるなんて、ある……?もしかしたら手直しをせず、あのまま押し通す気つもりかもしれない。)
決裁をしなければ困るのは絹逸だと考えていたが、最終的に窮地に陥るのは寧ろ後宮を統括する立場にある霞琳自身だ。
内侍省からしたら、報告書の提出が遅い原因が実務担当者にあろうが何だろうが関係ない。“後宮”の業務が適切に遂行されていない責は、女官長である霞琳にあると見做される。
それを狙って、絹逸は自らの逆境を逆手に取り、霞琳が折れるまで敢えて放置を決め込む可能性もある。
霞琳は頭を抱えた。あー、うー、どうしよう、などとぼやいて懊悩しているところに、扉の向こうから声が掛かった。
「失礼いたします。決裁をいただきに参りましたが、入っても宜しいでしょうか。」
「あ、はい、どうぞ!……って、祐君さん?」
静かに開いた戸から姿を見せたのは祐君であった。霞琳は意外な人物の登場に目を瞠る。
これまで祐君がこの執務室を祐君が訪れたことはない。仕事を奪われていた彼女が女官長に用事などあろうはずもなかったからだ。では今日は突然どうしたというのだろう。
怪訝に思いながらも表向きは笑みを浮かべ、霞琳は祐君から書類を受け取る。そしてまたもや驚きに襲われ、表紙を二度見どころか三度見、いや、五度見くらいした。
「これは……支出報告書?」
「はい、仰せの通りにございます。」
「あの、支出報告書は昨日絹逸さんが決裁に来て、私が訂正をお願いしたのですが……今日改めて祐君さんが来たというのは、何かあったのですか?」
「それが……昨日絹逸さんが決裁を求めてこちらに向かった後、出納部署の執務室に戻ってこなかったのです。皆で心配していたところに、急病で昏倒していたという報せが入りまして。」
「急病!?」
「はい。女官長様はご存じなかったのですね。」
「は、はい。初めて聞きました……容体はどうなのですか?」
「かなり悪いようで、隔離されて面会も許されない状況だと伺っております。偶々通りかかった司隷大夫様が助けてくださらなかったら、疾うに事切れていたかもしれないと。」
「……え。司隷大夫――徴夏様が?」
「はい、そのように聞いております。」
書類改竄疑惑のある出納担当女官。病気。そして徴夏。――一年前の事件を想起させる組み合わせである。
怪しい。これは明らかに胡散臭い。
「あの、女官長様。何か?」
「あ、ああ、いえ、ごめんなさい。――それで、支出報告書は祐君さんが引き継いだ、ということですね。」
「はい、名ばかりとはいえ私も一応担当ですので。ただ、絹逸さんが作成したはずのものが見つからず、急遽作成いたしました。」
「作成……たった一晩でですか?」
「はい。……ただ、恐れながら、先程女官長様が仰っていた訂正については聞き及んでおりませんでした。訂正が必要でしたらすぐに直して参りますので、申し訳ないのですが急ぎお目通しくださいますでしょうか?」
霞琳は舌を巻いた。絹逸が数日かけて作成していた支出報告書を、喫緊の事情があったとはいえ祐君は一晩で仕上げたのだ。やはり彼女は優秀で、責任感もある。
言われてみれば、祐君の目の下には色濃い隈もできていた。いつも身嗜みにきちんと気を配っているはずなのに、今日は心なしか髪や衣類も乱れているように見える。きっと徹夜で業務に臨んでいたのだろう。
ずっと取り上げられていた仕事を突然割り振られ、しかも大至急とあっては、普通なら強い不満を覚えてもおかしくなかろうに、祐君からそのような雰囲気は一切感じられなかった。疲労は窺えたが、どこかすっきりとした、満足そうな表情を浮かべていた。
祐君の言葉に頷いて、霞琳は直ちに頁を捲り確認を開始する。各部署が提出した資料はやはり添付されていないので、細部の正確さについては分かりかねるが、昨日絹逸が持参した報告書と金額は合致しているようだった。――寧江の宮の支出を除いては。
祐君は例のお茶会の購入品をきちんと記載していた。これなら訂正を指示する必要はない。
絹逸に改竄疑惑を持つような祐君のことなので、他の部分でも不審な手の加え方はしていないだろう。絹逸には申し訳ないが、仕事ぶりに特段の疑問がない宮女に対しては、霞琳はこれまで通り信用方式を原則とするつもりである。前女官長の教えにもあったように、部下を信頼することは重要なのだ。疑わしき点がなければ信じる、そう決めていた。
霞琳は表紙を閉じ、決裁印を捺す。
昨日一回決裁を渋ったこともあってか、いつもよりも決裁という行為が重いもののように感じられた。その重さはつまり、自身が女官長として背負っている責任に等しく、また自分が振り回すことのできる見えない力を制御するための重石のようでもあった。
「――訂正は不要です。このまま急ぎ内侍省に提出してください。今月も遅くなって申し訳ないと伝えておいてもらえますか?」
「畏まりました。直ちに参ります。」
「それからもう一つ――四月分の報告書、つまり五月からは締切を守ります、と。」
「それは……確定事項としてお伝えして差し支えございませんか?」
「はい。ですがそのためには祐君さんの働きが不可欠です。……何かを変えるというのは大変な仕事です。期日までに滞りなく完了させるための工程を組み立て、全部署や宮に的確かつ迅速に変更内容を周知し、担当者が適切に資料を作成するための指導や補佐をしなければなりません。変化に対して抵抗を感じる人は多いでしょうから、他部署は勿論、出納部署内部からも不満や不安の声が多数上がるはず……その対応も含めて、お願いしたいのです。ただでさえ慌ただしいうえに、精神的な負荷も大きい仕事ですが、引き受けていただけますか?」
「……あの、それは私が担当してよいものなのでしょうか?絹逸さんのいない間に進めるということですよね。」
「私から出納部署の責任者には話を通しておきますから、その辺りの懸念は無用です。――儀礼担当だった頃、祐君さんは人々を取りまとめて準備を取り仕切り、皆さんに信頼されていたんですよね。それを知って、この仕事は祐君さんにしか頼めないと思っていたんです。」
「女官長様……はい、承知いたしました!」
「ありがとうございます。ですが無理はせず、何かあればいつでも相談してください。」
祐君の瞳が輝きを宿す。碌に寝ていないとは思えぬほどに活き活きとしたその表情から、彼女はやはり仕事が好きなのだと霞琳は思った。
意欲的な宮女の少ない出納部署では貴重な人材である。
(後宮に残ってくれたらいいのになあ……。)
恭しく一礼して立ち去る祐君の背を眺めながら、詮無き願望を胸にしまい込んだ霞琳は小さく溜息を漏らした。
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女官長の執務室を後にして内侍省へ向かっていた祐君は、前方に人影を見つけて足を止めた。
こちらへ進んでくる人影は二つ――皇帝と司隷大夫だ。
出納部署に引きこもってばかりで彼らと顔を合わせる機会などない祐君は緊張に息を詰めながら、道を開けるために回廊の端に跪いて頭を下げた。
すぐに通り過ぎると思っていた気配は、何故か祐君の前で立ち止まる。疑問に思っても顔を上げることなど許される立場ではないので、ずっと礼をしたまま待機することしかできない。
しかし何となく落ち着かない心地になるのは、二人がひそひそと何やら話している様子があるものの内容を聞き取れない所為だ。その話題が自分に無関係であるのなら、二人に対して無礼ではあるが、早々に通過してほしいと願ってしまう。祐君としてはすぐさま内侍省に支出報告書を提出し、先程女官長から賜った新たな仕事に一刻も早く着手したくてうずうずしている。
一方で、もし自分に関係のある話題であるなら、とは考えるだけでも恐ろしかった。女官長は自分を買ってくれているが、一般的な祐君の評判は地に落ちきっている。高貴な立場の二人に、これが噂の駄目な女官だとせせら笑われていたら居た堪れない。
「そなた――杜祐君、と申したか。面を上げよ。」
「は、はい。」
鼓膜に響いたのは涼やかな柔らかい声。皇帝のそれだ、と反射的に身をすくませながら、祐君はおずおずと顔を上げて彼を仰いだ。
すると皇帝は至近距離でしゃがみ込み目線を合わせて来たので、驚きの余り祐君は呆然として固まってしまう。
過去に遠目に見かけただけでも美しい男性だと思っていたが、初めて間近で目にする玉顔は神仏がこの世の美という美を掻き集めて造作したのではないかと想像してしまうくらい非の打ち所がない器量の良さで、柔らかな笑みを目許に携えた表情が温和な人柄を思わせる。これまで男性に然して関心のなかった祐君でさえも思わず見惚れて息を飲むのは止むを得ないことといえよう。
それと同時に、徹夜で職務に励んだせいでよれよれになっている自身の身なりを思い出し、羞恥のあまり顔から火が出そうになる。まさか皇帝の御前で髪や襟元を整える訳にもいかず、自分を見ないでほしい、早く解放してほしいと念じることしかできない。
「霞琳殿から話は聞いている。優秀な女官だが暇乞いをされていると、嘆いていたぞ。」
「も、勿体なきお言葉にございます。」
「朕としても才ある者が去るのは惜しい。再考してもらいたいが、それがそなたにとって最善の結論であるならば受け容れよう。……ただ、後宮の内でも外でも、霞琳殿の力になってくれたら嬉しく思う。」
「は、……畏れ多いことにございます。」
時間を取らせて済まなかった、と謙虚な言葉を添えて皇帝は腰を上げて歩みを再開する。どうやら目的地は女官長の執務室のようだ。
漸く緊張が解けた祐君は、胸一杯に呼吸を繰り返して生き返ったような心地を味わう。
女官長が皇帝に己のことを伝えてくれていただけでも身に余る誉であるというのに、更には皇帝自ら自分ごときのしがない女官に直接声を掛けてくるとは予想外で、感動の余り涙が滲んできた。後宮務めの最後にいい思い出ができたようだ。
(最後、……そう、最後。最後にしてしまって本当にいいのかしら。)
身に余る言葉を頂戴したためか、祐君の心が揺らぐ。しかしその後、皇帝が添えた言葉が引っ掛かった。後宮の内はさておき、外で女官長の力になるとは、一体どういうことなのか。
「……おい、祐君。おーい?」
「きゃっ!?」
「おいおい、陛下に心奪われ過ぎて俺は無視ってか?……確かに陛下とは傾向が違うけど、俺も割といい男だって自信はあるんだけどな。」
「申し訳ございません!」
すっかり思案に没頭してしまっていた祐君の目の前に、今度は司隷大夫がしゃがみ込んでいた。皇帝よりは大分気さくな態度で、抱えた膝に頬杖を突き悪戯っぽく笑みを浮かべている。
祐君は司隷大夫とこれほど近くで相対し言葉を交わすのもまた初めてであったが、宮女の間で彼の人気が高い事実に納得した。皇帝は人間離れした美貌が近寄り難さを醸し出し、また皇子時代の評判が良くないので、遠巻きにして外見だけ観賞しようという女性が多い。
一方の司隷大夫は、血筋よし、才能よし、見た目よしの三点揃った将来有望な貴公子だが、この砕けた感じが妙に親しみを持たせ、頑張って手を伸ばせば届きそうな距離感が女心を擽るのだろう。
そんな冷静な分析をするくらいには落ち着きを取り戻した祐君の顎に片手を添えて上を向かせると、司隷大夫がまじまじと見詰めてくる。そしてゆっくりと顔を近づけてくるものだから、幾ら男性に関心が薄い祐君とはいえ流石に焦って下を向こうとするが、彼の手がそれを許さない。
思わずぎゅっと眼を閉じたところで、温かな吐息を伴う心地よい低音が耳に流れ込んできた。
「……上手くやったもんだな。霞琳に近づき、絹逸がいない隙に仕事を取り返して、春雷の覚えも悪くない。俺、そういう女も嫌いじゃないぜ?」
「っ!?」
祐君は瞬時に双眸を見開くと、礼を失するのは承知の上で司隷大夫の手を勢いよく払い除け、向き合うように首を回す。
耳元に顔を寄せたままだった司隷大夫と唇同士がぶつかりそうになり、咄嗟に身を引いて距離を取った。しかし彼は素早く祐君の細い手首を掴み、逃がしてはくれない。
祐君は司隷大夫の言を一瞬解しかねた。身に覚えがない。が、祐君はもとより聡い女である。己の不遇を女官長の目に留めさせ、自身の処遇を上げてもらえるよう、全て予め狙って動いていたのだろう――司隷大夫はそう言いたいのだと理解するまで、時間は掛からなかった。
酷い言い掛かりに、祐君は下唇をきつく噛み締めた。後宮の生活に耐えられず、自身の能力に失望し、本気でひっそりと去ろうとしていた祐君にとって、女官長との出会いも何もかも全部偶然の賜物であった。だが傍から見れば突然吹いた順風に疑問を覚える者がいてもおかしくはなく、司隷大夫のように祐君自身が仕組んだと邪推されても仕方がないのかもしれない。
だが、祐君の自尊心はそんな評価を受け入れられなかった。やっと再び芽吹き始めた自信を、いわれのない悪意によりまた枯らしてしまいたくはない。況してや自分を認めてくれた女官長と親しいと言われている司隷大夫に誤解されるのは悲しい。
祐君は彼の手に己の手を重ねて腕から退かす。案外力は込められていなかったようで、思いの外すんなりと離れてくれた。そして軽く眉を寄せ、不敬ではあるが睨むように双眸を厳しく細める。
「一体何のお話か理解いたしかねます。……確かに最近の私は恵まれすぎていて、周囲の方に疑われても止むを得ないかもしれません。ですが誓って申し上げます、私はこの状況を望んで作り上げたのではございません。」
「……ぷっ。」
「……何かおかしなことを申しましたか?」
「いや、何も?……つーか、悪かったな。あんたを試させてもらった。結果、やっぱりいい女官だって改めて再確認できたよ。陛下の繰り返しになるが、これからも霞琳の力になってやってくれ。」
「畏れながら、私はお暇を願い出ております。再考をと、陛下は仰せられましたが……」
「ああ、そうだったな。なら訂正する。良い女官、じゃなくていい人材、ってな。もし外に出ても、あんたならきっと良い働きができる。それが回り回って霞琳の力になることもあるだろうよ。」
「そんなことがあるのでしょうか。」
「さあな。でもあんたなら考えつくんじゃねえのか?」
「……随分と無茶を仰いますね。」
ふふ、と祐君は笑った。いつの間にか緊張も遺憾も解け、すっかり司隷大夫のペースに飲まれているような気がしたが、それはそれで悪くなかった。
根拠もない提案であろうと彼が口にすると不思議な説得力があり、回答を丸投げにされても自分を認めてくれているからこそではないかという自信をくれる。不思議な男だ。人を惹きつける天性の才があるのかもしれない。
もう一度考えてみよう、と祐君は思った。後宮に残るか、出るか。出るとしたら自分に何ができ、女官長の役に立てることは何か。
そんな風に生真面目さと期待に思考を巡らせ始めた祐君を見下ろしながら司隷大夫は小さく笑みを浮かべた。
「今のあんた、凄え良い顔してる。その気持ち、忘れんなよ?」
「……はい!」
「それから……――試すためとはいえ嫌な気持ちにさせちまった詫びに、俺と一晩、どうだ?」
不意に距離を詰め、再び耳元で囁き掛ける。彼としてはどうせ断られることを見越して、軽い戯れのつもりが――。
「はい、是非お願いいたします!」
「!?……え。あ、いや、本気でいいのか?あんたがその気なら、俺、遠慮しねえけど。」
「ええ、私も遠慮はいたしません。……いけない、そろそろ行かなくては。日程調整はまた改めて、宜しくお願いいたします。」
「お、おう、宜しくな……?」
意外にもきらきらした双眸で快諾すると、まるで業務スケジュールの調整の如き事務的な言葉を残して、祐君が腰を上げる。
「……据え膳。」
にやける口許を片手で覆う男が零した言葉など、足取り軽やかに内侍省へ向かう祐君の耳に入ることはなかった。




