密告(後編)
それから二人は、密かに顔を合わせるようになった。
「最近、皇太子殿下の訪れが増えた。」
「ご寵愛を受けていらっしゃるようで何よりにございます。」
「いや、違うな。」
「……どういうことでしょう?」
「皇太子妃が男児をお産みになったので、皇太子殿下は側室たちとも閨を共にしやすくなったのだろう。」
「なんと……それではこれまでは蔑ろにされていらっしゃったのですか?」
「そうではない。無論劉司徒への配慮もあったろうが、わたくしたちを守るためでもあったろうよ。」
「守る……。」
「うむ。皇太子妃よりも先に男児を出産しようものなら、その側室や御子は劉司徒に疎まれよう。故に皇太子殿下は側室との閨は控えめになさっていたのだろうが、もうその必要はなくなったのでわたくしたちとの関係を深めてくださるおつもりなのだ。多分な。」
「皇太子殿下も不自由なお立場なのですね。」
「そうよな。言ってみれば妻妾もすべて押し付けられたようなもの。内心では好悪の情もお持ちだろうにそれを覗かせることもなく、誰に対してもいつも穏やかでお優しく接してくださる。……あのご性格なら、誰をも寵愛なさることもあるまい。全ての妻妾の境遇や生家の立場、派閥というものを考慮して行動なさる御方と見た。」
「……折角後宮にお入りになったのに愛されないなど、お寂しくはございませんか?」
「いや、まったく。所詮政治的な関係故に男女間の愛情など期待しておらなんだが、丁重に扱ってくださるので身に余る程よ。寧ろ、あの皇太子殿下が分別をかなぐり捨ててでも愛さずにはいられない女性が現れたら、是非お目に掛かりたいものだ。心から応援して差し上げたくなる。」
「滅多なことを仰せられますな。他の女性を寵愛されてもよいだなんて……もっと御身を大切になさってください。」
「ほほ、そなたが怒ることでもあるまいて。……だが、そなたがわたくしを大切に想ってくれることが嬉しい。そなたにはついつい何でも話してしまう。三人目の母ができたようだ。」
「畏れ多いことにございます。」
絹逸は小さく微笑んだ。言葉にはしなかったが、絹逸もまた彼女のことを娘のように慈しんでいたのだ。
身分を超えた交流の時間はいつも楽しく、絹逸にとっての生きがいになった。
皇太子の女性関係などは耳にするのも畏れ多いことではあったが、生々しさよりも政治的背景がちらついて、下級貴族の生活も大変ではあったが皇族や上級貴族もまた種類の異なる苦労を抱えていることを知る。
権力闘争や派閥争いといった、いわば男性の表舞台に属する政治的な世界について絹逸はこれまで全くの無知にして無関心であったが、こうした雑談の中から断片的に知識を得るようになった。
そんなある日、珍しく感情の薄い表情で側室が言葉を零した。
「……子ができた。」
「それはそれは、おめでとうございます。」
「……めでたくはない、かもしれぬな。」
「また滅多なことを……。」
「しかし事実なのだから仕方あるまいて。――父は劉司徒と距離を置いている。側室の中で最も序列が高いわたくしがもしも男児を産んだなら、劉司徒は面白くはなかろう。」
「……そういうものなのですか。」
「そうだ。故に子など欲しくはなかった。……だが不思議なもので、まだ生まれてもいないのに日が経つにつれて愛おしくて堪らなくなってくる。皇太子殿下も何かにつけて労わってくださり、元気な子を産むようにと励ましてくださる。皇太子殿下こそ、わたくしが産む子が男児であれば最もご苦労されるお立場でいらっしゃるというのに。」
「……お優しい御方ですね。」
「ああ、どのようなご苦労もお一人で胸の内にしまい込んでしまい、それを周囲には気付かせないように振る舞おうとなさる御方よ。そのような御方の煩いになりたくはないし、わたくしもこの子を守りたい。故に今はただ、女児であることをひたすらに願っている。……そして出産の後は、皇太子妃のお情けに縋ろうと思う。皇太子妃や劉司徒に対して敵意がないことを示し、わたくしもこの子も命を全うできるように、幾らでも媚び諂ってみせようぞ。」
「お父上はお許しになるでしょうか?」
「許すまい。劉司徒を快く思わない父からすれば、この子が男児である方が望ましかろう。この子を皇太子殿下の後継者に据えることができれば、劉司徒を失脚させられるのだからな。――だがわたくしは、父とは違う道を行く。皇太子殿下のためにも、わたくし自身のためにも、この子のためにも。たとえ自ら誇りを踏み躙ることになったとしても、命を落としてしまっては何にもなるまい。生き延びることこそ肝要よ。」
凛とした表情ではっきりと述べる姿に、絹逸は感銘を受けた。娘のように思い、庇護すべき対象であった彼女は、政治的な思惑や男女の情の坩堝である熾烈な女の園に身を置くうちに逞しさを身に着けていた。
生きるためなら自身の尊厳など二の次だと笑う彼女ではあるが、それはきっと悲壮な決断だったはずだ。気高く聡明な彼女にとって、皇太子妃に追従するこの先の人生は屈辱と忍耐の連続になるだろう。それでも我が子のために強くあろうとする彼女が、少しでも幸せに生きられるように願うしか出来なかった。
――が、絹逸の願いは間もなく無残に散った。
皇太子妃所生の男児が夭折するや、間を置かずして彼女が呪詛の主犯として自害に追い込まれた。父親である高官や妻子も処断されたという。
その報を耳にした絹逸は衝撃の余り言葉を失った。娘のように可愛がっていた彼女も、腹の中ですくすくと育っていた命も、自分の人生に初めて光をくれた義妹も、突然全員同時にこの世から去ってしまったのだ。
「皇太子妃は警戒をだいぶ解いてくれたようでな、妊娠中のわたくしを気遣い見舞いの品を贈ってくれたのだ。そなたにも分けてやろう。」
あれから皇太子妃への擦り寄りを始めた側室は、つい先日顔を合わせた時にそう言って絹逸に菓子をくれた。劉司徒が懇意にしている張萬宝なる商人に命じ、西域から取り寄せた貴重なものなのだという。
恐縮しながら初めて口にしたそれは絹逸の好みには合わず、この国では食したことのない独特な味だったので、皇太子妃が見舞いに託けて側室を害そうと毒でも盛ったのではないかと疑ってしまったが、当の本人は毒見はしているから問題ないと笑って美味しそうに食べていた。
そんな朗らかなあの子に、もう二度と会えない。
生きるために皇太子妃に跪く覚悟を決めていた彼女が、呪詛などするわけがない。無実の罪に決まっている。劉司徒に陥れられたのだ。
大切な存在を喪った悲しみは、すぐに劉司徒への憎悪に変わった。やがて憎悪にとどまらず、その身を破滅させてやりたいという呪いに変わった。
悪事に手を染めた者は滅びるべきだ。それが正しい。その正義を、彼女が冤罪であることを誰よりもよく理解している自分がなさねばならない。そんな使命感に駆り立てられた。
ちょうどその頃、絹逸は同僚女官の不審な行為に気付き始めていた。
当時、支出報告書は絹逸とその女官が二人で作成を担当していた。だが、どうも彼女が作成した部分がおかしいのである。記載された金額が過剰であったり、そもそも本当にこんなものを購入したのだろうかと疑問に感じるような品が明細に載っていたりする。
最初は単なる書き間違いだろうと思い、気付き次第絹逸が直してやっていた。しかし全く改善される気配がなく、意図的にやっているとしか思えなくなって来た時、あることに気付いた。
不審な記載はすべて西域から入って来た文物であり、取引先の大半は張萬宝であった。
そこで絹逸は確信した。劉司徒が公金を詐取している、と。女官に虚偽の支出報告をさせ、張萬宝をはじめとする商人たちに支払われた過剰な金が、劉司徒に流れているのだ。そうに違いない。
劉司徒を破滅させる絶好の機会がやって来たのだ。これであの子の復讐ができる。――そう勢い込んで、絹逸は徴夏に不正を密告した。
徴夏もかつて劉司徒の娘婿であったため、訴えることに多少の躊躇いはあった。しかし彼以外に訴え出る先もない。それに徴夏の妻は既に亡く、劉司徒やその派閥の面々とは付き合いを避けている様子だったので、一か八か信じてみることにしたのだ。
賭けは概ね成功だった。徴夏は絹逸の話に真摯に耳を傾けて、あとは自分に任せるようにと言ってくれた。
調査や処分の結果は機密事項だとして教えてもらえなかったが、女官の姿が消え、後宮と張萬宝との取引が激減したことから、ある程度の内容は推測できた。
しかし、最も強く訴えた劉司徒の罪については不問に処されたようで、いまだにのうのうと政界にのさばっている。それが絹逸には許し難かった。
どうにかして劉司徒を追い詰めたい。ただその一心で、絹逸は帳簿や支出報告書に手を加えるようになった。こちらから訴えても駄目であるなら、劉司徒が尻尾を出すよう仕向ければいいと考えたのだ。
例の女官以外にも劉司徒の手先になっている宮女がいるかもしれない。張萬宝と後宮の取引もなくなったわけではない。他にも疑わしい商人もいる。西域の品を購入する妃嬪や部署もある。これら全てが絹逸には全て怪しく感じられ、劉司徒の公金詐取が続いていると信じていた。
だからそれらに対する支払額を過少にしてやれば、不当に入手する金が減り、詐取の発覚を察した劉司徒の方から何らかの動きを見せるだろう。そこに不正の証を掴むチャンスが生まれるに違いない――そう信じて、絹逸は公文書の改竄を続けた。客観的にはその行為こそ不正であるという簡単な事実すら見落とし、これこそ劉司徒の罪を暴くための正義の行いだと自らを誇りながら。
異動してきた祐君に辛く当たったのも、絹逸が正義を貫く邪魔になったからだ。
当初の祐君は、絹逸に熱心に指導を請う可愛い存在であった。そんな祐君のために、まずは初歩的な業務から教え、難易度の高いものは親切にも自身が引き取ってやった。己の負担は増えたが、後輩のためを思う指導係として当然の、称賛されるべき行いだという信念に基づいた行為である。
祐君は順調に仕事を覚えていった。それ自体は問題なかったのだが、勉強家の祐君は絹逸の教えの範疇を超えて自主的に学んでいく。時間があれば過去の資料にまで目を通し、絹逸が教えた内容と辻褄が合わない点について質問をしてくる。
そのなかには公金詐取の実行犯であった女官が作成した資料に対する疑問や、絹逸が敢えて改竄した書類も含まれており、絹逸の指導と噛み合わないことは当然であったが、真相を祐君に伝えるわけにはいかないのでのらりくらりと回答を避けた。
祐君が事実を知ってしまったら、もし絹逸の行いが劉司徒に知られた時、彼女も巻き添えで害されてしまうかもしれない。だから何も知らせない方がいい。それが祐君のためなのだと信じて。
だが徐々に絹逸は祐君が煩わしくなってきた。普通は答えをもらえなければ諦めるだろうに、真面目な祐君は頻度は下がったものの質問を続けて来る。当然絹逸は有耶無耶にして答えない。絹逸が祐君のためにそうしてあげているのに、それを知らないから仕方がない点を差し引いても、絹逸の苦渋に満ちた配慮を全く察しない祐君が厄介になってくる。
また、折に触れて祐君が内侍省からの指摘を伝えて来るのも不快であった。内侍省の指示を聞くということは、絹逸にとっては自身の教えを疑っているということに等しい。絹逸の指導内容を信じていたら、宦官の言葉など取るに足りないもののはずだからだ。
決裂の決定打となったのは、絹逸が作成した書類に対して祐君が疑義を呈したことだった。とはいえ彼女は自信なさげにしており、あくまで疑問点の質問という体を取ってはいたのだが、絹逸にはその態度さえも自身を馬鹿にしているように感じられた。
絹逸はその書類には一切手を加えておらず、正しく作成したというのに、祐君はそれを誤りだというのだ。絹逸は長年蓄えた己の知識や理解が正しいと信じている。自分が間違えるはずはない。だから祐君の理屈など聞く価値もなかった。そもそも祐君の指摘は、絹逸がまだ教えてもいない内容であった。いつ誰に教わったのかは知らないが、祐君は絹逸とは異なる考え方を身に着けていたらしい。教わる立場の人間が、教える立場の者に疑念を持つなど、敬意の欠片も感じられない不遜なことである。
立場を弁えない祐君に対し、絹逸は激しい憤りを感じた。そしてふと思い至る。祐君も劉司徒の息が掛かった者で、前任の女官に代わり公金詐取の新たな実行役として送り込まれてきたのではないか、と。
そう考えると何もかも納得がいった。
数多くの質問も、宦官の苦言の伝達も、正当な内容の書類に言い掛かりをつけて来たのも、全ては己が身を盾にして劉司徒の不正を妨害している絹逸を貶め業務から外すことが目的であるに違いない。絹逸は祐君の身を案じてやっていたというのに、何ということか。
「もう貴女には、今後一切、仕事を教えません。もう二度とやらなくていいから。」
絹逸は祐君にそう宣言した。悪に加担する祐君に正義の鉄槌を下してやったのだ。胸がすく思いがした。
このことは祐君の後ろにいる劉司徒にも伝わることだろう。公金詐取が捗らず、彼は苛立つに違いない。そこで襤褸を出してくれればいい。
暫くは何の動きもなく絹逸が焦れる程だったが、漸く事態が進展を見せた。女官長が突然出納部署に首を突っ込み始めたのだ。彼女が祐君を気に掛けるのは、同じ劉司徒の手先としてつるんでいる証拠だ。
そして今日、とうとう女官長が浅はかにも不正を事実上強要する命を出した。張萬宝に不当な金額が支払われぬよう絹逸が敢えて記載しなかったにもかかわらず、それでは決裁しないという女官長は公金詐取に加担していると明言しているも同然だ。己に対する扱いの酷さに堪らず感情的な反応を見せてしまったことは絹逸の失態であったが、女官長のこの対応をきっかけとして芋蔓式に劉司徒の不正を白日の下に晒し罰することができる。
長く歩き回っている内に冷静さを取り戻した絹逸の胸は、やっと実現寸前までこぎつけた復讐への期待に膨らみ始めた。そして目的の人物を発見し、感情が一気に昂ぶりを見せる。
「――司隷大夫様!僭越ながらお耳に入れたきことがございます。」
振り返る徴夏に駆け寄り、絹逸は膝を着いて深々と頭を垂れた。
「ああ、絹逸殿。いかがした?……また有益な情報でもあるのだろうか。一年前のように。」
「左様にございます。畏れながら、女官長、そしてその裏にいる劉司徒の不正についてご報告したく――」
絹逸は積年の思いの丈を詰め込んだ訴えを懸命に口にする。
徴夏はそんな彼女に寄り添いながら真剣に耳を傾け、何度も頷きを繰り返し話を促す。絹逸はそれを自身の思いが届いた証と解釈し、歓喜に打ち震える唇の動きは止まることなく言葉を吐き出し続けた。
夢中で劉司徒の悪事を訴え続ける絹逸は、徴夏がこの情報に満足してくれていると信じて疑わなかった。彼が時折見せる笑みが全く異なる思いから浮かべられたものだなどとは、微塵も思いもせずに――。




