密告(前編)
絹逸は怒りに身体を震わせながら早足で後宮内を進んでいた。
ここ数日、支出報告書をまとめるために日付が変わる頃まで残業を続けていた。ようやく完成した書類を手にして急ぎ決裁を求めに行ったというのに、女官長のあの態度は一体何であろうか。
前回までは軽く目を通してすぐに決裁印を捺してくれたものを、今日ばかりは態とだとしか思えないほどに長々しく時間を掛けて報告書を眺め、時折おかしそうに笑いを覗かせるなど、真面目に仕事をしているとはとても思えない振る舞いであった。
しかもその間ずっと絹逸を目の前に立たせていたのだ。私的な時間、体力や気力を犠牲にして職務を全うしている女官に対する仕打ちがこれなのだから、女官長の性格の悪さが滲み出ている。
一度戻れだとか、座って待てだとか、一応絹逸を気遣うような素振りもあったが、そのような提案を目下の者が受け入れられるわけがないことくらいは想定の範囲内であろう。たとえ絹逸が女官長の非道を誰かに訴えたとしても“配下への配慮はしたのに本人が聞き入れないのです”という釈明の余地まで最初から織り込み済みというわけだ。全く以て質が悪い女である。
所詮は下級女官に過ぎない立場であるから、絹逸もその理不尽な扱いについての不満をぐっと堪えた。せめてもの抗議として、立たされている間は“早く見ろ、早く決裁をしろ”と無言の圧を女官長に送るのが精一杯であった。普通ならそんな空気を読み取って、少しは遠慮して早く確認を終えようとするものだろうに、あの女官長はそんな気配が欠片もない。
名家の生まれで何の不自由もなく、さぞかし甘やかされて育ったのだろう。人の気持ちを慮ることも場の雰囲気を読み取ることも何もできない、本当に愚鈍な女である。
そもそも支出報告書の内容を確認するという行為自体、絹逸の自尊心を踏み躙るものだ。
長年出納業務に携わって来た絹逸には、仕事に対する知識も理解も誰にも負けないという自負がある。自分が作成した報告書なら絶対的に正しいという自信もある。
だというのに、後宮に入って僅か数ヶ月の少女が女官長という立場と権威を笠に着て、出納業務に関する知識も理解もほとんどないくせに支出報告書を検めるなど、まるで絹逸を疑っているかのようではないか。配下のプライドを傷つけるなど、上長としてあるまじき行為だ。
第一、これまで女官長が執着している支出報告書の締切の件も、実務のことを何も理解していないからこそ言えることだ。
絹逸とて、最初から期日を破ることを是としていたわけではない。
各部署から月初に資料を提出してもらっていたこともあった。しかし、そのためには前月末から資料をまとめる作業に取り掛かる必要があるせいで、月末に購入したものが漏れたり、購入を控えるのは不便だと文句を言われたりすることが茶飯事だったのである。だから皆のために、正確さや作業時間の確保を優先するべく、期日を遅らせることを受容したのだ。
内侍省の宦官から苦情や嫌味を言われるのも、慣れてしまえばどうということもない。自分一人がそれを受け止めることで皆が喜んでくれるなら、素晴らしいことではないか。自らを尊い犠牲として捧げる絹逸は皆から感謝されこそすれ、非難されるいわれはない。
そもそもこれだけ実務に不都合が出ているというのに、頑なに期日を変えない内侍省もどうかしているのだ。期日の変更を提案したのも数回ではない。それにも関わらず取り上げない内侍省が悪いのであって、絹逸がしていることは正当な抗議活動である。
だいたい、家柄以外に能力も実績もなにもない霞琳が女官長に抜擢されたこと自体、不自然なことだったのだ。
そんなことが罷り通る裏には、政界を牛耳る劉司徒の意向があったに違いないと絹逸は推察している。劉司徒の娘は張家の嫡男と婚約を結んでいるから、月貴妃の侍女だった張家の娘をそのまま後宮に留め置き手駒として利用するのに都合が良かったのだろう。
女官長は皇帝からの信頼が厚いという話も聞くが、皇帝自身も元は“可も不可もない”凡庸な皇子であり、彼とて劉司徒の顔を立てなくてはいつまで玉座に着いていられるか分かったものではなく、内心では戦々恐々としているはずだ。そうであれば、謂わば劉司徒の名代として後宮に君臨するも同然である女官長には相当気を遣うのも当然の流れである。女官長が皇帝のお気に入りという噂の根源はそれだろう。
そんな風に皇帝からも配慮され、一部の宮女からもちやほやされているせいで、女官長は自らの能力を過信して驕り高ぶっているのだ。そんな少女を上官に持ってしまった絹逸は、己の不運を嘆かずにはいられない。
思い返せば、絹逸の人生は全体的に不幸であった。
絹逸は、出世の途が閉ざされていた下級官吏の娘として、どうにか生活できる程度の収入しかない家に生まれた。
父親は周囲の人々から見下されていた情けない男で、その余波を受けた絹逸もまた貴族の子どもたちから嘲笑され仲間外れにされるような幼少期を過ごした。
ただ、父親は決して悪い人間ではなく、お人好しでのほほんとした性格の、家庭を大切にするタイプだったが、絹逸は彼を冷たい目で見ていた。
家族を本当に思いやるなら、仕事をきちんとこなして相応の経済力を持ち、妻子が恥ずかしい思いをせずに済むように生きるべきなのだ。良いように使われてもへらへらと笑っているような、誇りの欠片もないような父親の人間性が信じられなかった。
そしてその愚かさ故に、父親は絹逸の婿探しでも大きな失敗をやらかした。
所詮人々から馬鹿にされている父親が見つけて来る嫁入り先に端から期待などしていなかったが、それにしても酷すぎた。絹逸が嫁いだ男は、ろくでなしを極めたような人物だったのだ。
なまじ顔は良い方だったのでいかにも尻軽そうな女たちが寄って来て、夫は彼女らに良い格好をしようとして見栄を張って散財する。しかし元々財力があるわけでもないため女に貢ぐ資金源は借金であり、その清算のためと銘打って博打に手を出して更に負債を増やし、自棄を起こして酒に溺れ益々女に依存することの繰り返し。恐らく女たちと金貸し、賭博場の胴元は最初から繋がっていたのだろう。
夫の悪評はあっという間に広がり、貴族の生まれでありながら官吏に登用されることもなく、かといって真面目に働くことのできる性分でもない。
舅と姑は嫁を迎えることで息子の放蕩が治まることを願っていたようだが、現実はまったく改善が見られないことについて「期待外れの嫁だったせいだ」と絹逸に責任を転嫁した。
そんな針の筵のような婚家であっても、女性は夫やその家族に慎ましく仕えることが美徳とされる世の中である。絹逸は自身の不遇を呪いながらもどうすることもできず、生家から持って来た私物を処分しながら家計をやりくりしていたが、とうとう婚家が破産するに伴い離縁して実家に戻った。
何処からともなく次々に湧いて来る女たちに夢中で妻に関心を示さなかった夫に未練などなく、ただただ苦労させられるばかりの結婚生活に嫌気が差していた絹逸は、新しい嫁ぎ先を探そうとする父親を止めた。もう他人に自分の人生を決められ縛られるのはうんざりだったのだ。だから自分の力で生活できるようになりたかった。
とはいえ貴族の女の働く場所などそうそうない。そこで宮女になることを強く希望し、今に至っている。
思い出すのも不快極まりない結婚生活であったが、一つだけ絹逸の心に安息をもたらしてくれる薫風のような存在がいた。夫の妹である。
彼女は夫と顔立ちこそ似て見目は良かったが、性格は大違いの気立ての良いしっかり者で、いつも絹逸を気に掛けてくれていた。怠惰な生活をする夫を絹逸と一緒になって苦言を呈し、苦労を掛けていることを夫の代わりに絹逸に詫び、自分の私物も家計の足しにしてほしいと差し出してくるような少女だった。
夫やその両親には侮蔑の情以外も感じなかった絹逸が、それでも婚家のために尽力していたのは、ひとえにこの義妹のためであったかもしれない。それくらい、絹逸もまた彼女のことを大切に想っていた。
破産後、夫の家族は離散して義妹の行方も知れなくなった。ずっと心の片隅に彼女の存在が引っ掛かっていたのだが、ある日思わぬ形で再び繋がることになる。
数年前、当時皇太子であった春嵐のもとにある側室が上がった。
元来絹逸とは無縁な上流階級の世界のことなので関心はなく、噂話や権力争いの類にも興味がない。なので特に意識もしていなかったのだが、その側室の侍女だという女性が突然出納部署を訪ねて来た。曰く、主人が絹逸に密かに会いたがっている、と。
お召しを受ける心当たりなど全くなかったが、高貴な立場の女性からのお願いは命令に等しい。断れるわけもなく、側室に上がったばかりの女性に人目を忍んで目通りをした。
途端、絹逸の脳裏に義妹との思い出が蘇ったのだ。それくらい、目の前の高貴な女性には義妹の面影が感じられた。
しかしそんなはずはない。この女性は高官とその正妻の娘だと聞いている。零落した下級貴族に過ぎない義妹が高官に嫁げるわけがない。
絹逸が混乱の余り呆けた表情をしていると、彼女は笑みを浮かべて自らの顔を指で示した。
「この顔に見覚えがあるようよな。ということは、そなたはやはり私の母が捜していた絹逸なる女官に相違あるまい。――ああ、母というのは育ての母ではなく、私とよく似た生みの母なのだが。」
聞けば、義妹は借金返済のために身売りを余儀なくされ、買い取られた貴族の屋敷で下働きをしていたらしい。顔立ちも整っており気働きのある義妹は、その家の嫡男の目に留まってお手付きになり、娘を産んだ。その娘こそ皇太子の側室となった女性であり、生まれて間もなく正妻に引き取られて上流階級の教育を施され今日に至ったのだという。
現在、彼女の父は無事に家を継ぎ高官に昇っている。義妹はその妾となって大切にされており、正妻との関係も良好で、幸せな日々を送っているらしい。正妻の子になってからも実の母娘の交流は途絶えることなく、円満な関係であるそうだ。
「母はよくそなたの話をしておった。“兄のせいで苦労をしながらも、自分にはとても良くしてくれた嫂がいた”と。そして“嫂は宮女になったと風の噂で聞いたが、今は少しでも幸せに暮らしているかどうか気になっている”と、な。――どうだ。そなたは今、幸せか?」
絹逸は咄嗟に頷いた。
幸せだ。無能な父親のせいで嘲られて過ごした幼少期より、ろくでなしの夫に無視されながらも尽くさざるを得なかった結婚生活より、ずっと。
仕事こそ単調な作業で量も多く面白みはないものの、真面目に働いてきた結果、周囲から一目置かれるようになり己が価値ある存在だと誇れるようになった後宮での生活は、人生で一番幸せな時間だと言えるだろう。
絹逸の反応を目にし、側室は笑みを満面に広げた。薫風がさっと舞い上がったかのような、優しく清らかな姿だった。




