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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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振りかざすもの

 つい先日新年を迎えたばかりのような気がするというのに、暦はあっという間に進んでいて、早くも三月の二十日になっていた。

 窓から差し込む穏やかな陽光が、過ごしやすい季節の到来を告げているようだ。

 しかしそんな穏やかな陽気とは対照的に、女官長の執務室には息が詰まるような空気が漂っている。

 真剣な顔で書類を読み込む霞琳の机の前には、絹逸が立っていた。そう、彼女は支出報告書の決裁を求めに来ていたのである。


 先月、霞琳はラシシュに頼んで自部署の一月分の支出資料を二月五日に出納部署へ提出させた。しかし結局支出報告書の決裁をしたのは、例の如く二十日であった。

 とはいえ、そもそも炎益から指摘を受けたのが一月二十一日であったから、なにぶん急すぎるということもあって、もし他部署にも資料の提出時期を早めるよう通達したところで実現は困難であっただろう。それは仕方がないと納得している。


 だが、二月分の報告書――つまり三月の締切遵守については、適切かつ迅速な対処をしていれば達成可能だっただろう。

 それが叶わなかった最大の原因は、出納部署責任者の絹逸任せの態度、そして絹逸の頑なさにあると霞琳は考えている。

 霞琳は一月下旬からずっと、彼女たちと顔を合わせる度に期日の遵守を依頼しつづけてきた。それが不可能であるなら自分から内侍省に掛け合うことも検討するので、その理由をちゃんと説明してほしいと頼んだこともあったのだが、彼女たちが非協力的なのである。

 絹逸の反応は初対面の時から全く変わらず、暖簾に腕押しである。責任者の女官は「絹逸に伝えておきます」と答えるばかりで、面倒事に関わりたくない雰囲気が滲み出ていた。


 女官長の権限は決して弱くはない。本来なら、期日遵守を命令という形で強引に押し通すこともできる。命令に従わない配下に処罰を与えることも容易い。

 しかしそれは霞琳の理想とする後宮の在り方にはそぐわないのだ。もしも霞琳が権力という名の見えない力を常に宮女に対してちらつかせ、いつそれを振り回すともしれないような人間だと彼女たちに認識されてしまったら、単なる恐怖による支配になりかねない。

 甘い考えなのは百も承知であるが、霞琳が望むのは宮女たちが誇りを持って活き活きと働き、充実した日々を送ることができる後宮である。故に、権力を振りかざすのは最終手段にしておきたかった。

因みにそんな話を徴夏にしたことがあったが、


「理想を高く持つのはいいことだと思うぜ。どうしたって現実は理想に及ばねえけど、だからこそ敢えて理想を高く設定しておかないと現実は益々碌でもないもんに成り下がっちまうからな。ま、頑張れよ。」


 と、珍しく素直に褒めてもらえて嬉しくなったのだが、直後に


「それに権力だって振り回しまくってたら効果が薄れるってもんだ。恐怖支配を敷いたところで、誰でも慣れりゃ感覚が麻痺しちまうだろうし。権力も恐怖も最大限活用しようと思ったら、ここぞって時にガツンと食らわすのが一番だぜ。見せしめ効果も追加できるとなおよし。これ、覚えとけよ?」


 などという“徴夏流権力の効果的なぶん回し方”レクチャーまでくっついてきたので、思わず真顔になってしまったものである。


 そんなこんなで、最終手段を採りたくはない霞琳は、異なる方法で絹逸を揺さぶることを試みている。

 それが正に現在進行形で進んでいる、絹逸をひたすらに待たせて心理的な負荷をかけることだ。

 いつもなら信用方式で支出報告書を軽くぱらぱらと捲り、せいぜい合計額を見て前月や前年同月と比べ、その場ですぐに押印して絹逸に報告書を返す霞琳だったが、今日は違う。各宮や各部署の支出内訳までじっくりと目を通している。

 ただ、支出報告書には各宮や部署が出納部署に提出した支出資料は添付されていない。故に照合するものがないため内容の正誤を確認することまでは不可能なのだが、それでも霞琳は真面目に帳面と睨めっこをしていた。

 そうすることにより、今更ではあるが、支出用途の傾向が分かってなかなか面白く感じられてくる。特に顕著なのは、妃嬪の経費の使い方の違いであった。嬌麗は高級なお茶やお菓子といった自身の欲求を満たすための買い物が多く、昭光は侍女や宮女たちに下賜すると思しき程々の品を複数求める傾向があり、栄節はほとんど支出がない。三人の性格が露骨に反映されていて、思わず笑ってしまう。


 霞琳がじっくりと報告書を検めている間、絹逸はずっと向かい側に立ち尽くしていた。だがこれは、霞琳が意地悪をしているわけではない。


「すみませんが時間をかけて支出報告書の内容を見たいので、決裁したら出納部署へ届けに行きます。だから絹逸さんは戻っていただいて構いませんよ。」

「女官長様やその直属の配下である高位の女官の方に届けていただくなんて、畏れ多うございます。」

「私やラシシュは気にしな――」

「畏れ多うございます。」

「……ええと、では絹逸さんが後程取りに来てください。」

「お言葉ですが、この後も仕事が立て込んでおりましてその余裕はございません。この場で待たせていただいても宜しいでしょうか?」

「……では座ってお待ちください。」

「いえ、女官長様の前でそのようなことはいたしかねます。」

「……そうですか。ではご自由に。」


 といった具合で、何を言っても反論が返って来る。確かに後宮は上下関係に厳しく、女官長の執務室と出納部署は離れていることも事実なので、まあ納得することにした。

 霞琳としては目の前に立たせているようで申し訳ない気持ちになりながらも、今日ばかりは心を鬼にして譲らないことに決めた。いつも絹逸自身がそうなのだから、こちらとて相手の心中などお構いなしに我を貫かなければまた押し負けてしまうだろう。霞琳なりに絹逸対策を熟慮した結論である。

 そうして絹逸に対する焦らしをかねて支出報告書にじっくり目を通し終えた後、霞琳は彼女に声を掛けた。


「――すみません、一つ宜しいですか?」

「なんでしょうか。」

「寧江公主様の宮の支出が少ないと思うのですが。」

「はい?」


 霞琳は該当箇所を開いた状態で報告書を絹逸に向け、明細部分を指し示す。


「寧江公主様は先頃お茶会を開催されました。戎月国のお茶やお菓子をご所望になって購入したのですが、その記載がありません。」

「……ご提出いただいた支出資料に載っていなかったのでは?」

「いいえ、それは有り得ません。私が確認してから提出させましたので。」

「……え?」

「ああ、広く知らせることはしていませんでしたが、寧江公主様のお世話は私が陛下より仰せつかっております。ですから、寧江公主様の宮の支出資料もここで作成しているのです。」


 絹逸の表情が僅かに、よくよく見ていないと気付かないくらいほんの僅かにではあるが、確かに強張った。あの鉄面皮が動いたのだ。

 これはいけるのでは?――霞琳は期待に逸る気持ちを戒めるようにきゅっと口元を引き結びつつ、絹逸をじっと見上げて返答を待つ。


「……そういえば、資料には載っていたかもしれません。寧江公主様が戎月国の品をお求めになる理由が分かりかねましたので、報告書に転記するのを保留にしたような気がします。」

「保留?」

「はい。内容に疑義がある場合、一旦保留にしてその月の支出報告書には計上していません。」

「では商人に対する支払いはどうなるのですか?」

「疑義が解決したら、その後に作成する支出報告書に載せます。支払いもその時に。」

「……そうですか。――ところで寧江公主様の支出に疑義があったなら、照会はしていただいたのでしょうか?私のところには何も報告が上がって来ていないのですが。」

「まだ何もしておりませんでした。」

「それはどういった事情があったのですか?」

「時間がなかったので。」

「時間……。」


 霞琳は軽く眉根を寄せた。

 既に散々締切を超過しているにもかかわらず、問い合わせてくれれば一瞬で解決するような疑義を後回しにする理由を理解しかねる。


 ただ一つ、確信したことがあった。――絹逸は意図的に載せなかったのだろう、と。


 あの夜、祐君が涙ながらに吐露した絹逸の改竄疑惑については、過去の出納文書を秘密裏に調査した結果、全て西方からの輸入品に関する項目が対象であったことを確認している。それらの発注先である商人はまちまちだったが、張萬宝も含まれていた。

 だが疑問が残った。処断された女官のように公金の詐取が目的ならば、架空の支出ないしは実際にかかった費用以上の額を計上する必要がある。

 しかし絹逸のしていたことは正反対で、支出資料で計上されているものを報告書には載せていないのだ。先程彼女が説明したように、翌月以降の報告書に載せて商人に支払いを行ったと推察されるものも多いが、一部の支出は完全に“なかったこと”になっていた。これでは詐取ではなく、商人に対する支払いをしていないということになり、それはそれで後宮の信用が失墜しかねない大問題だ。

 そんなことをする利点が絹逸にあるとは到底考え難い。しかし絹逸に問い詰めたところで、素直に白状しないだろう。それどころか祐君が霞琳に告げ口をしたと思われて、絹逸の彼女に対する当たりがますますきつくなってもいけない。

 そこで一計を案じ、元々霞琳が負担する予定だった寧江のお茶会費用について、春雷の指示のもと敢えて寧江の宮での公的な支出として扱うことにしたのである。これなら霞琳が絹逸を問い質す状況を自然と用意することができる。

 その筋書きに従い、霞琳は絹逸に苦言を呈した。


「この支出についてお問い合わせいただいていればすぐに解決し、支出報告書に記載した状態で私のところに回ってきたことでしょう。そうすれば即座に決裁できましたのに、残念です。」

「畏れながら女官長様のお言葉だけで解決するものではありません。よく確認したうえで正当であれば翌月の報告書に載せますので、問題ありません。」

「……私の言葉だけでは信用ならないと?」

「恐縮ですが、根拠もなく信じることはできません。」

「では、他の支出は信用できてこの支出だけ信用ならない理由を教えていただけますか?その判断基準が分かれば、今後同様のことが起こらないよう予め根拠を添えて資料を提出することができますから。」

「それは私の方で判断しますので、女官長様はお気になさらず。」

「……ですが、疑問があれば結局根拠を求められるのですよね?それなら先に対応できた方が、こちらとしても心安いのですけれど。」

「いえ、そのようなことはいたしません。私の方で調べますので。」

「調査方法があるのですか。それはどのようなものなのでしょう?」

「私の方で行うものなので、女官長様がお知りになる必要はありません。それよりも早く決裁をいただけますか?」


 流石の霞琳も内心でむっとする。

 上官に対する媚びが一切垣間見えない態度は嫌いではないが、調査も職務の一環であるのなら、たとえ必要性がなくとも女官長がそれを知っても問題ないはずだ。だというのに、頑なに説明を回避しようとする。

 あまつさえ早く決裁をしろと言わんばかりの不遜な物言いは、いくらなんでも不愉快だ。


 だが同時に、霞琳は絹逸もまた苛立ちを募らせていることを見て取っていた。

 いつもに比べて、少しではあるが会話が成立している。会話が成立しないほどに頑固に突っぱねるばかりの普段とは異なり、多少は霞琳の問いに答えているということは、多分に冷静さを欠いているのではあるまいか。そして恐らくは答えたくない部分に触れられた時、強引に話を終わらせようとしている。

 だが絹逸の目的が決裁である以上、霞琳が押印しない状態では引き下がれないに違いない。彼女は明らかに決裁を急かしており、これ以上の追及を逃れるためか、この場を一刻も早く立ち去りたいものと見える。

 霞琳の散々待たせた挙句に質問攻めにするという行為により、絹逸の鉄壁ぶりに罅が入り始めたのだ。


「すみませんが、納得のできない内容を決裁するわけにいきません。」

「……は?」


 霞琳は表紙を閉じて報告書を突き返した。

 絹逸は予想外の展開に声を上擦らせ、微かに表情を顰める。


「今までと同じように作成しているのに、突然決裁できないと言われても困ります。」

「今までは私が至らず、今回のような事態に気付けていませんでした。その点についてはお詫びします。……ただ、気付くためには各部署が提出した支出資料との突き合わせをしないとなかなか難しいですよね。次回からはそれもお持ちいただけますか?今回は偶々寧江公主様のところの支出だったので気付けただけです。今後は他部署の内容も見てみなくては。」

「……それは出納部署で行う作業であり、女官長様のお手を煩わせるようなものではありません。それに決裁で時間が掛かり過ぎては、内侍省への提出が遅くなります。」

「もう既に遅くなってますから、今更でしょう。……絹逸さんの理論では、皆のためならば遅くなっても構わないのではありませんでしたか?その“皆”には私も含まれていたと認識していましたが、違ったでしょうか。」


 霞琳は絹逸の口癖を逆手に取り、にこりと笑顔を見せる。

 途端、絹逸の顔は無表情を通り過ぎ、憤りの色が瞬時に広がっていった。やがて彼女はわなわなと震え出し、深い憎悪を滲ませた険しい眼つきで霞琳を睨みつけるや声を荒げる。

 

「この、っ……劉司徒の犬が!」

「!?」

「本当はこんな支出なかったのではないですか?なのに報告書に無理矢理載せさせようとしているのは、公金を詐取して劉司徒に流すつもりなんでしょう?しかもご自身の支出としてではなく、公主の支出という扱いにするなんて、やり口が汚いにも程があります!こんなことばかりする奴らがいるから、私が正しているのに!」

「……絹逸さん、何を言って……?」

「私は正しいことをしています!貴女と違って!劉司徒と繋がりのある張家の娘が突然女官長になるなんておかしいと思ったんです!どうせ劉司徒のごり押しなんでしょう?」

「…………」

「女官経験もなく実務のことも何も知らないくせに、偉そうに口出しばかりして……改革だのなんだの言って、人員削減も宮女教育も、後宮を全部自分の意のままになる人間で固めようって魂胆なんじゃないですか?劉司徒のために。」

「そんなつもりは……!」

「先程も公主のお茶会とかいう話でしたけど、もしそれが事実だったとしても本当にこんなに費用が掛かるものでしょうか?だとしたら、資料に載せていなかったものまで買ったのではありませんか?……例えば、毒とか。」

「毒だなんて……!」

「劉司徒にとっては劉昭容に真っ先に皇子を産んでもらわないといけないですものね。だから今度は鄧昭儀かその御子を殺すおつもりでもおかしくありません。この前は呪詛をでっち上げて、あの子を追い詰めたように……!」

「それはどういう――」

「どいつもこいつも碌でもない人間ばかり!正しいことをしている私をこうして責めていられるのも今のうちですからね!」


 困惑する霞琳が差し挟もうとする言葉は悉く無視され、絹逸は一方的に捲し立てる。その振る舞いに圧倒された霞琳の手から報告書を奪い取ると、彼女は勢いよく部屋から駆け出して行った。

 その後姿を眺めることしかできずにいた霞琳は、ぽかんとしながら今の出来事を振り返る。どうやら絹逸は、霞琳が劉司徒によって女官長に据え得られた存在であり、彼の手先として行動していると思い込んでいるようだ。それだけも胸糞悪いというのに、毒殺を目論んでいるなどという言い掛かりは極めて心外である。暗殺という行為自体が嫌悪すべき対象だが、とりわけシャムナラ姫の死因である毒に対する霞琳の憎悪といったら尋常ではないのだから。


 霞琳からすると絹逸の発言はほぼ全て誤解なのだが、事実はどうあれ一部の宮女からは自分がそのように見えているのかもしれないと思うと正直ショックであった。

 絹逸は、最早妄想といって差し支えない域に達している思い込みの内容が真実だと信じて疑っていないようである。そして自身の行動が絶対的な正義だと確信していた。一種の狂信といえよう。あの分では誤解を解くことは不可能に近い。

 だが、それよりなにより霞琳が引っ掛かったのは彼女の言う“あの子”であった。劉司徒による呪詛のでっち上げという言葉から思い当たるのは一人しかいない。もしその一件に、現在の絹逸の言動が起因しているとしたら――。


 霞琳は椅子の背凭れに身を預け、天井を見上げる。重苦しい感情ごと深く息を吐き出すと、どうしたものかと考え込むように瞼を閉じた。


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