幽明境(後編)
「嫌だわ、慶琳!一体どうしたの?」
「った!ちょっ、姫様、触らないで!つーか心配したようなこと言って、本当は半分面白がってるでしょ!」
「あら、ばれちゃった?ええそうよ。こーんなにしっかり心配しているわ、半分だけ。」
ぺろり、と無邪気に舌を出すシャムナラ姫は、慶琳の赤黒く腫れた頬を最後にもうひとつつきして手を引っ込めた。もう言い返す気力が失せた慶琳は眉を渋く寄せる。
あの後、王国・張家の連合軍はあっという間に敵の制圧に成功。正蓋は国王に報告と引き揚げの挨拶をするため、城に入った。
本来ならば慶琳も国王にお目通りをする予定だったが、あまりにも痛々しい顔を御前に晒すことは控える方がよいという正蓋の判断により、正蓋と褒琳のみが国王の元へ向かい、慶琳は賓客用の応接間で待機していたのである。そこに、シャムナラ姫がひょっこり顔を出したという次第だ。
「初陣での戦勝をお祝いしようと思ったのに、その顔にお祝いを伝えたら嫌味になっちゃうわね。」
「……そうですね。」
慶琳は相槌だけ打ち、押し黙った。戦には勝った。圧勝だった。出陣する前までは、戦勝とはさぞや心地の良いものであるに違いないと信じていた。しかし、現実はそうではなかった。
(勝利とは何だろう?)
少年との一件以来、慶琳はずっと自問している。自答はまだできていない。
「……った!」
俯く慶琳の頬を、再度むにっとつつく細い指。不意打ちに思わず上擦った声を漏らして振り向けば、今度は本当に心配した様子でこちらを見つめてくるシャムナラ姫がいた。
「あのねえ姫様、表情と行動のちぐはぐっぷりは何なんです?」
「だって、せっかくの慶琳の可愛い顔が曇ってるんだもの。」
「だって、の意味がよく分かりません。」
わざとらしく大きな溜息を吐き、慶琳は横目でちらりと彼女の様子を窺う。視線の先で影が動いたと思った次の瞬間、シャムナラ姫の顔が視界を満たす。動揺の余り咄嗟に立ち上がろうとした慶琳の双肩を華奢な両手が押さえつけ、額同士がこつんとぶつかる。
「姫様、何……」
「顔が赤いから、熱でもあるのかと思って。頬の腫れから発熱することもあるでしょう?」
「いや、何ともないから……」
「何ともなくないわ、ますます赤くなったもの。」
「いやいやいや、ていうか姫様がこんなことするもんじゃないでしょ!離れなって!」
「私たちの関係だもの、別にこれくらいいいじゃない。それに、そのうちきっと――。」
今度はシャムナラ姫がほんのりと頬を色づかせ、恥じらい気味に語尾を濁して視線を伏せた。
彼女が言うところの”私たちの関係”というのは、同い年の従兄妹であり幼馴染であることを指しているのだろう。加えて反乱がしばしば勃発する昨今の情勢も後押しして、王家と張家はまた婚姻関係を結ぶだろうと噂されている。ましてや丁度適齢期の姫と令息がいるのだから、信憑性が高い話として広まっていた。
シャムナラ姫の途切れた声に続く言葉は、恐らく婚姻のことだ。慶琳の脳裏に、確信めいた想像が過り、固く目を瞑って首を左右に振る。その行為のせいで発生した小さな風がシャムナラ姫の髪を揺らして、西域特有の香料による匂いが立ち上る。鼻先を擽る芳香に、慶琳はめまいがしそうだった。
シャムナラ姫が少しずつ体を寄せてくる。響いてくるのは、彼女の心音か、はたまた己のそれなのか。抱きとめるように両手を伸ばしてもいいのだろうか。互いの立場を考慮したうえで、十やそこらの子どもの戯れとして許されるのはどこまでだろう。
「ね、慶琳。私――……。」
「姫様。私は、貴女を――……。」
雰囲気に流されて口をつきそうになる言葉。それを止めたのは、扉の開閉音だった。
(――見られた!)
心臓が止まりそうな心地で、慶琳は蒼白の顔で勢いよく扉を振り返る。目撃された相手によっては大問題になりかねない。――が。
「あら、あらあら、あらららららあ?」
「お母様!」
「叔母――…いえ、王妃様、お久し振りです。」
そこにいたのはよく見知った人物。当初はジュゲツナルム国王の側室として嫁いだ叔母は、数年前に王妃が没したことにより、正妃の地位に昇格していた。今や押しも押されもせぬ王族内の有力者である。
目撃者が叔母だったことに安堵した余り脱力した慶琳は、椅子からずり落ちそうになる体を正し、シャムナラ姫の陰から頭を下げた。
「嫌だわ、そんな他人行儀に呼び直されたら寂しいじゃない。公式の場ではないのだから、昔のように叔母上って呼んでちょうだい?」
「いえ、そういうわけには……。」
「呼・ん・で・ちょ・う・だ・い?」
きらきらきらきら、と擬態語が聞こえてきそうな双眸で見つめてくる。慶琳の話は聞いていない、もしくは完全に黙殺されたようだ。
「……お、叔母、上。」
「うふふ。可愛いわあ、慶琳!いずれは義母上って呼んでちょうだいね!」
きゃっきゃっきゃっ、と擬態語が聞こえてきそうな笑顔ではしゃいでいる。常に落ち着き払った正蓋とこの王妃は本当に血が繋がった兄妹なのだろうかと疑問を感じざるを得ない。
(”義母上”か、……叔母上も私と姫様のことをそのようにお考えなら。)
つい緩みそうになる表情を必死に堪える慶琳の耳元で、
「ずるいわ、お母様!公式の場ではないというなら、私のことだってシャムナラって呼んで――」
「呼びませんから!」
「うっふふー。シャムナラちゃんったら、ざーんねん!ね?」
「お母様!」
……ああ、この二人は母娘だ。紛うことなき、完全なる母娘だ。血が濃すぎる。国王も沈着な方なのに、一体いつどこでどんな血が混ざったらこうなるのだろうか。いや、混ざったのは紛うことなく張家の血なのだが、それを張家の血だと認めたくない何かがある。
頬の痛みはどこかへ飛んでいき、今度は頭が痛くなりそうな気がしてぐったりする慶琳をよそに、よく似た母娘が謎の戦いを繰り広げ続ける。
やがて謁見を終え慶琳を迎えに来た正蓋は、室内の状況を目にするなり苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。その隣で褒琳が忍び笑いを漏らしながら制止をかけるまで続いた賑やかな光景は、今も慶琳の愛おしい記憶として色鮮やかに残っている。
******************
帰国後、正蓋は戦後処理による多忙の合間を縫ってしばしば慶琳のもとを訪れた。理由は分からない。雑談を少し交わしていくだけのこともあれば、まとまった時間が取れたからと碁や将棋に誘うこともあった。
忠に篤く使命に邁進する正蓋は、必要以上に子どもと関わることがなかった。物心ついてからこのかた、慶琳の記憶にいるのはいつも”征西将軍 張正蓋”であり、”父親”はほとんどいないも同然だった。
突然人が変わったような正蓋の態度に当初は戸惑ったものの、幼い頃に母を亡くした慶琳は、実の”親”と触れ合う貴重な時間を嬉しく思うようになっていた。勝手な推測ではあるが、父のこの行動は初陣で残酷な現実を突きつけられた己を気遣ってのことではないか――そう考えるとこそばゆい心地になるのを禁じえなかった。
だが、それも長くは続かなかった。
ある日、碁を打った時のことである。正蓋と慶琳が碁や将棋に興じると、いつも正蓋が勝った。そしてその後、正蓋は慶琳の悪手を指摘し、時に妙手を淡々と褒め、有意義な時間を過ごすのが常であった。
しかしこの日ばかりは、途中で正蓋が対局を中断したのである。
「――なんだ、この手は。」
「ちょっとした思い付きだったのですが……うまくいきませんでした。やはり父上が相手では無茶な手でした。」
「先を見通さず、思い付きだけでこの陣地に飛び込んできたのか?」
「あ、はい……。申し訳ありません。」
「飛び込んで無理矢理陣を荒らし、結局全滅するなど、愚かにもほどがある。」
「……申し訳ありません。」
「俺がただの暇潰しでここに来ているとでも思っているのか?」
「いえ、そんなことは!」
「これが戦なら、お前は後先考えず敵地に一軍を投じ、全滅させたも同然だ。その重さは子どもの頭一つ分どころの話ではないと理解しているのか?」
慶琳ははっとする。正蓋は”息子”と碁を楽しみに来ていたのではなく、”張家の男児”に戦を教えに来ていたのだ。思い返せば、雑談の内容も張家に仕える者がどうとか、ジュゲツナルム王国での戦がどうだとか、そんな話題ばかりだった。
(私が愚かだった……。)
少し考えれば察せられようことに、まったく気づかない。それどころか、正蓋が”親子”としての時間を取ってくれているなどと己惚れた勘違いをして、正蓋の厚意を無にしていたのである。
「お前には将たる者としての器もない。政もできぬ、戦もできぬ。情けない。」
「……申し訳ございません。」
謝罪以外の言葉を持たない慶琳は、ぼんやりと考えていた。
(そうだな、父上の仰る通りなんだ。私には何も出来ない。何の力もない。)
無力感も極まれば悲しみすら湧かなくなるらしい。ただただ心が死んでいくかのような感覚に陥った時、慶琳の意識を引き上げてくれる澄んだ声が不意に響いた。
「そんなことないわ。慶琳、あなたは私のラシシュ達を守ってくれたじゃない。ね?」
慶琳は咄嗟に振り返る。そこにシャムナラ姫が、いた。恋しくて愛しくて堪らない彼女が、笑みを浮かべて立っていた。
瞬時に心が揺さぶられた慶琳の双眸に涙が溢れて、ふっと意識が途切れたのだった。




