できそこないの女官
「誰もいない……。」
執務室に向かう道中もずっと締切厳守の方法について考え込んでいた霞琳だったが、がらんとした室内を目にするや否や頭から悩みが吹っ飛んで目を瞠った。
責任者との面談が長時間に及んだせいか、いつの間にか業務終了の時刻を過ぎていたようだ。残業ゼロ、素晴らしい。人手が余っているというのも納得である。
――しかし、だ。
(……まさか、皆が定刻で帰るから報告書の提出が大幅に遅れてるってわけじゃないよね?報告書作成っていう大仕事が終わって余裕ができただけ、だよね?そうだよね?)
各部署の資料提出自体が遅いのだから、内侍省への報告書提出の遅延理由が出納部署だけにあるわけではないことは理解している。だがこの光景を目にしてしまうと、霞琳のなかに疑心が生まれてしまうのも仕方がないことであった。
頭上に疑問符をたくさん浮かべつつ、霞琳は踵を返す。もしかしたら外にまだ誰かいるかもしれない。そう考えて急ぎ建物の外に出ると、丁度女官の宿舎に向かっている二人組を発見した。
「――こんにちは。お帰りですか?」
「まあ、女官長様、これはご機嫌麗しく。今日の仕事が終わりましたので帰るところでしたの。」
「そうですか、それはお疲れ様です。」
恭しく頭を下げる二人に、霞琳は微笑んで応じる。早足で来たせいで息が上がってしまっているのを悟られまいとして、口許を袖で隠しながら深呼吸を数度繰り返し、再び口を開いた。
「つい先程執務室を覗いたところだったのですが、どなたもいらっしゃらなかったので驚きました。皆さん仕事が速いんですね。」
「そうですね、ほとんどの者は時間内に業務を終えております。でも絹逸さんだけはいつも残業しているのですが……今日は帰れたのかしら。」
女官が首を捻る。
どうやら普段から残業ゼロの職場らしい。――絹逸以外は、だが。
先程絹逸が執務室にいなかったのは、霞琳の方が先に応接室を出たからだろう。もしかしたら今頃は彼女も執務室に戻っているのかもしれない。
そのあたりは定かではないが、こちらから切り出すまでもなく絹逸の名が登場したことを受け、これ幸いと話をそちらに持って行くことにする。
「あら、絹逸さんは業務量が多いのでしょうか。……そういえば、内侍省に提出する支出報告書は彼女の担当だと聞きました。全ての宮と部署から集めた出納資料の確認や訂正はとても大変だと思うのですが、お一人で担当されているのですか?」
「あー……そういうわけではないんですが、実質的には絹逸さんが全部やっているはずです。あの難しくて量の多い資料を一人でやれるなんて、絹逸さんは本当に優秀なんですよねえ。」
「そうなんです!しかも優しいんですよ、絹逸さん。大変な仕事は全部引き取ってくれるんです。」
二人が絹逸を絶賛する様子は、責任者の女官のそれとよく似ていた。
そしてそれ故に、霞琳は胸の中に生じたもやもやが更に大きくなるのを感じる。それを努めて顔に出さぬようにしながら微笑みを崩さずに相槌を打つ。
「お二人とも絹逸さんをとても慕ってらっしゃるのですね。ところで絹逸さんはどのくらい残っているのでしょう?体を壊さないか心配です。」
「さあ、わかりません。皆も最初の頃は手伝おうとしたんですが、毎回断られてしまって……いつしか手伝いを申し出ることもなくなりましたね。そもそも絹逸さんが残業しているのは、私たちのために大変な業務を引き取ってくれているからですし。」
「そうそう、いつも皆のためを考えてくれているんです。それに、出納担当歴が一番長くて仕事を全て理解している絹逸さんからしたら、私たちが一緒に残ってもかえって余計なお世話なのでしょう。私たち、あんな難しい仕事は教えてもらわないとできないから足手纏いになるだけですもの。」
(……また、“皆のため”かあ。)
霞琳は心の中で溜息を吐いた。
他の者の負担を減らそうという絹逸の心掛け自体は悪いことではない。しかし、それは飽くまで絹逸に余裕がある場合に限った話である。彼女一人だけに業務が集中している現状は明らかに問題だ。同時に、彼女だけが難易度の高い業務を抱えて続けている状況は、後進の育成がなされていないことを意味している。
そして他の者も、最初こそ絹逸の負担が大きいことを気にしていても、それが当たり前になるにつれて感覚が麻痺してしまうのだろう。二人とも、自分の業務が比較的簡易な内容且つ量が少ない事実に最早疑問を感じず、学びや挑戦の機会が奪われていることにも気づいていない。謂わば簡単な仕事だけして定時で帰れる楽な職場なのだから、残留希望者が多いのも得心がいった。だがそのような考えの宮女たちは、霞琳が求める人材ではない。
どうしたものかと考えたところで、不意に霞琳の頭の中に先程の二人の発言が蘇った。
「……あの、先程、支出報告書の担当は絹逸さんだけではないと仰ってましたね。他の担当はどなたなんでしょう?」
「ええと、それは……」
「……ちょっと、あそこ。」
言い淀む女官その一の袖を、女官その二が引いて注意を促す。彼女の視線の先には、たくさんの資料を重たげに抱えて歩いて来る一人の女性がいた。
「……彼女は?」
「杜祐君と申しまして、支出報告書のもう一人の担当者です。……いえ、担当だった、という方が正しいかもしれません。結局絹逸さんが一人でやってますから。」
「女官長様に告げ口するわけではありませんが、彼女、仕事ができないんですよ。一年位前に異動してきて、絹逸さんが指導係を務めてるんですが……全然理解できないみたいです。支出報告書だけじゃなく、彼女が担当する他の仕事も全部絹逸さんが引き取ってるんです。本当に困った人で――」
「ちょっと、そこまでにしときなさいよ。――で、では女官長様、私たちはこれで失礼いたします!」
潜めた声で祐君について悪しざまに語り始める女官その二の口を女官その一が塞ぐ。そして強制的に話を終了させ、女官その一は一礼すると女官その二を引き摺りながらばつが悪そうにして急ぎ宿舎に向かっていった。
霞琳はそんな二人を見送ることしかできなかったが、もう少し祐君なる女官の評価を聞いておきたかったと残念に思う。それは出納部署の現状を把握するためであり、決して噂話に興じたいとう野次馬精神ではない。断じて違う。
「――祐君さん。」
「……にょ、女官長様?」
二人組の女官が去ってしまったので、霞琳は祐君に声を掛けてみることにした。絹逸に指導を受けているという話だったから、彼女から絹逸について新しい情報を聞けるかもしれない。
突如呼び止められた祐君は、その声の主が霞琳だと気付いて少なからず動揺したようだった。一瞬固まった後に上擦った声を上げ、取り落としそうになった資料を慌てて抱え直している。
霞琳はその半分をひょいと奪い取り、にこりと笑みを浮かべて問いかけた。
「重そうですね、一緒に運びましょう。執務室までで宜しいですか?」
「あ、あの、私、自分で運びますから……」
「いいから、いいから。お手伝いする代わりといってはなんですが、仕事ぶりを横で見させてもらえませんか?」
「仕事……ではない、のです。これは。」
「え?」
霞琳は手にした資料に目を落とす。表紙を見る限りでは出納関係の資料に間違いはなさそうだが、仕事で使うのではないなら一体何だというのだろう。
不思議そうに首を捻る霞琳の意を汲み取ったのか、祐君は気まずそうに視線を逸らして躊躇いがちに口を開く。
「これは、その……仕事ではなく、勉強といいますか。」
「勉強?」
「……仕事がわからないので、過去の資料を見て勉強しているんです。」
「まあ、それは素晴らしいですね。では勉強ぶりを見させてください、にお願いごとを変更しましょう。」
「は、はあ……女官長様がご覧になって、得られるものがあるかはわかりませんが。」
「ふふ。いいから、いいから。」
言われてみれば、資料は古いもののようで紙が若干変色している。霞琳としては、祐君がすることが仕事でも自習でも何でも構わない。取り敢えず話を聞きたいだけなのだ。
祐君は押しに弱い性格らしく、本心では困惑しているようだが拒絶はしないのをよいことに、霞琳は半ば強引に押し切ってついていくことにした。
そうして執務室に向かいながら、祐君に尋ねてみる。
「いつもこうして、お仕事の後にお一人で勉強されているんですか?」
「はい。飽くまで自主的な勉強ですから、業務時間内にするものではないと思いまして。」
「そういえば、絹逸さんもいつも残っているそうですね。折角なら教えてもらってはいかがでしょう?」
「…………絹逸さんは仕事が終わらなくて残っているのです。邪魔はできませんから。」
祐君が返答を紡ぐまで、明らかに不自然な間があった。祐君と絹逸の関係は良好とはいえないのかもしれない。信憑性については確認が必要だとはいえ、先の二人組の話が霞琳の脳裏を過る。
その後は当たり障りのない雑談――といっても霞琳が一方的に話しかけ、祐君は相槌を打つばかりであったが――をしているうちに執務室に到着した。
先程は空っぽだったそこにはやはり絹逸が戻っており、業務に勤しんでいるようだ。霞琳たちが入室しても全く反応を示さず、一心不乱に筆を動かし続けている。
祐君はそんな絹逸から離れた席に資料を置き、霞琳に深々と頭を下げた。
「お手を煩わせて申し訳ございません。ありがとうございました。」
「いいえ、とんでもない。では暫くこちらにいさせてもらいますね。」
「……はい。」
霞琳も資料を机に乗せると、念押しのように言葉を添えながら隣に腰を下ろす。
やはり気乗りはしないようであったが、祐君は諦めたように返事をして自分も席に座った。そして表紙を捲り、真剣な眼差しで中身を読み始める。メモ帳代わりの反故の裏に筆を走らせ、学んだことを書き留めているようだ。
その姿はどこまでも真摯で、頁を捲るのも速い。どう見ても“仕事が理解できない人”とは懸け離れた印象を受ける。
疑問を覚えつつ、霞琳は視線を資料に向けてみた。すると、それは昨年の支出報告書の控えであった。
「――祐君さん、邪魔をするようで申し訳ないのですが、少し教えていただいても?私、報告書の決裁をする立場でありながらきちんと内容を理解しきれていないのです。」
「え、……あの、私ではお役に立てないと思います。私はこの仕事をしていなくて……ええと、名目上担当ではあるのですが、実際にはやっていなくて――」
「祐君さんが分かる範囲で構いませんから。例えばここですが――」
「……ああ、そこでしたら――」
またもや困惑を露わにする祐君だったが、霞琳は畳みかけるように問いを投げる。彼女の押しの弱さにつけ込むようで良心が痛まないでもなかったが、霞琳とて出納業務を理解したい気持ちは本物なのだ。応接間で絹逸に訊こうとして全く取り合ってもらえなかったのだから、もう一人の担当者である祐君に縋るしかない。
仕事ができず、支出報告書も担当でありながら実際は携わっていない――そう評価されていた祐君であったが、霞琳が尋ねたことには意外にもすいすいと回答をくれた。
霞琳は報告書の理解が深まる喜びに煽られるよう、次々に質問を投げ掛ける。祐君はそれに淀みなく答えをくれた。時折霞琳の理解が追い付かずに首を傾げると、祐君は専門的な用語を言い換えたり、具体例を挙げてくれたりする。初心者にもわかりやすい丁寧な説明だ。これが業務を理解できていない人間にできる対応だろうか。
もし本当に理解していないのだとしたら、誤った知識をさも正しい内容であるかのように話しているということになるが、理路整然とした解説が全部嘘だとは思いがたい。
ただ、祐君は説明の途中で絹逸の方を気にしてちらちらと視線を送ったり、声のトーンを異様に落としたり、落ち着かない様子が見受けられた。些か気になったものの、まさか絹逸がいる場所でその理由を聞き出すわけにもいかないので、霞琳はぐっと堪える。
そして、霞琳も小声になって一番気になっていたことを質問した。
「祐君さん、……ところでこの報告書の内侍省への提出期限、ご存知ですか?」
「……十日です。」
祐君は一瞬目を丸くした後、またも絹逸の方を窺い見る。そして、霞琳が耳を懸命に澄まして漸く聞き取れる程にか細過ぎる声で、返答を絞り出す。
「……では、各部署がこちらに資料を提出する期限は?」
「それは明確に決まっていません。……いえ、もしかしたら昔は決まっていたのかもしれませんが、今はもう形骸化してしまったのだと思います。……ただ、十日に内侍省に提出するためには、遅くとも五日には資料をいただく必要があるかと。」
「そうですか……実は私も、そう考えていました。」
霞琳は心から微笑んだ。
祐君は恐らく出納業務を理解している。少なくとも、責任者ですら把握していなかった支出報告書の提出期日についてさえ、正確な認識を有しているではないか。
炎益の依頼を達成するにあたりぶち当たった絹逸という巨大な障壁の攻略方法を見出せずにいた霞琳にとって、祐君との出会いは正に僥倖であった。祐君が名実ともに支出報告書担当者の座に着けば、締切の問題は解決できるに違いない。霞琳の気持ちは明るくなった。
とはいえ、それは一朝一夕にはいくまい。対策を練るべく、霞琳は一先ずこの場を辞すことにした。
「邪魔をしてしまってごめんなさい。ですがお蔭様でとても充実した時間になりました。とても熱心に仕事に臨んでくださっているようで、女官長として喜ばしい限りです。」
「いえ、人に説明をすることで自分の理解を確認できるので、こちらこそ良い機会を頂けました。……ここでの仕事もあと少し。名目だけとはいえ担当として引き継ぎをきちんとしなくてはいけないと考えているのです。自分が分からないまま他人に押し付けていなくなるのは無責任な気がして……。」
「え?いなくなる?」
「はい。この度、宮女に進退の希望をお尋ねになりましたよね。それで私、お暇を頂戴することにしたのです。」
「そうだったのですか……。」
祐君が後宮を出る。それも自分の意思で。だがその割に、彼女の表情にはどこか影が差しているような気がした。
折角掴んだと思った一筋の光明は、残酷にも指先を擦り抜けていく。釈然としない思いを抱えたまま、霞琳は自身の執務室へとぼとぼ戻っていくのだった。




