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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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皆のために

 炎益が去ったのと入れ違いに、ラシシュが執務室に戻って来た。現在、彼女は後宮の人員整理を担当しているため非常に多忙を極めている。

 本来ならルェイホマがその補佐に入る予定だったのだが、今のところ難しい状況になってしまっていた。ルェイホマが講師を務める宮女教育が今年から開講しており、予想よりも多くの宮女が受講を希望したので、同内容の講義を複数回開いて出席者を分散させたり、テキストの増産を進めたりと、嬉しい悲鳴を上げているのだ。そういうわけでルェイホマもまたてんてこまいになっており、ラシシュの繁忙が際立ってしまっていた。

 そこで霞琳はラシシュの負担を少しでも軽くすべく、これまで彼女にも担当してもらっていた書類仕事をほぼ全て引き取り自分でこなすようになっていた。仕事時間は増えたが、裏を返せばそれだけ自分が仕事を理解して一人でできるようになったという成長の証でもある。大変になったとはいえ、嫌な気は全くせず、寧ろ喜ばしいこととして受け止めている。

 こうして三人で役割分担を調整しながら、協力して後宮改革を進めているのだった。


 それでも最も忙しいことに変わりはないのがラシシュだ。一仕事終えて戻って来たばかりのところに声を掛けるのは躊躇われたが、霞琳は彼女を側に呼んだ。


「何か御用でしょうか?」

「毎月この部署の支出をまとめた報告書を作ってくれていますよね。あれ、後宮の出納担当に提出する期限はいつなんでしょう?」


 先程炎益が持って来た報告書は、各部署や妃嬪の宮ごとに作成した支出報告書が後宮の出納部門に提出され、それを出納部署の担当者が取りまとめたものを女官長が決裁し、内侍省に提出したものである。

 内侍省への提出期限を守れていない原因は、もしかしたら各部署や宮からの報告が遅いせいかもしれない――そう考えての、霞琳の問いであった。

 霞琳は書類仕事を極力引き取ったが、女官長の部署の支出報告はラシシュの担当にままになっている。これは最終的に女官長が決裁するものなので、霞琳自身が作成するわけにいかないからだ。


 どんなに忙しくとも愚痴一つ零さず、「霞琳様のお役に立てるなら嬉しゅうございます」と笑顔で口にするような出来過ぎた女官であるラシシュは、今も疲れているだろうに全くそのような気配を見せず、常の通りに落ち着きのある柔らかな表情で応じる。


「そういえば、明確な期限を聞いたことはございませんね。……前女官長様のもとでこの業務を担当されていた方から、毎月十五日頃に提出していると伺っておりましたので、そのようにしております。」

「十五日……。」


 完全にアウトである。内侍省への提出期日である十日を既に超過しているではないか。


「霞琳様、何か問題がありましたでしょうか?」

「……実は、支出報告書の内侍省への提出期日が十日なんだって。」

「ええ!?では私のせいで間に合っていないということに……申し訳ございません!」

「ううん、私も知らなかったから……これは貴女の上官である私の責任です。正しい指示を出せずに申し訳なく思います。――ところで、報告書の提出について出納担当から急かされたことはありますか?」

「いいえ、一度もございません。私が提出に行った時に他部署の方も報告書を持っていらっしゃるのを見たことがありますが、……もしや後宮全体の問題なのでしょうか?」

「そうかもしれません。だとすると、後宮全体に期日厳守の徹底を促さないといけませんが……。」


 そもそも出納担当への提出期日がわからない。他部署も同様なのかもしれない。

 しかし期日を破っているなら、出納担当者から催促があってもよさそうなものなのに、それがないというのも解せない。

 取り敢えず、提出日をどの程度なら早められるか考える必要がありそうだ。


「ねえ、ラシシュ。もしもっと早く――例えば五日までに提出してほしいって言ったら、できますか?それとも厳しい?」

「そうですね……可能だとは思います。支出の記録自体は都度つけておりますから、集計する日を早めればいいだけです。ただ、そのためには前月のうちから作業に取り掛かりたいので、月末に支出を発生させることは控えていただくことになりそうですが。」

「成程、わかりました。ありがとう、ラシシュ。」


 十日も提出時期を早めるのは困難だろうに、少し悩みながらもすぐに対案を出してくるあたりは流石である。月末に支出を抑えればいいだけならば、霞琳にとっては問題がない。

 ただし、月末だからといって支出を止められない部署もあるだろう。例えば、厨に対し月末は食材を調達するなというのは無理な話だ。そういった一部の部署だけは、月末の支出を予め把握できるよう発注を早めに行うなり、納品された品への支払いを一ヶ月遅れにしてもらうよう交渉するなり、何らかの対策が必要そうだ。

 対策さえ取れれば、全ての部署において提出日の早期化は可能だろう――そう見込んだ霞琳は、腰を上げた。


「これから出納部署に行ってきます。元々人員整理の関係で責任者の方と面談をする予定だったから、丁度よかった。この件も併せて話してきます。」

「畏まりました。因みに、報告書のとりまとめを担当されているのは韓絹逸という女官です。」

「韓絹逸さん、ですね。わかりました。」


 人員整理も山場を迎えており、宮女たちから進退の希望が出揃いつつある。そこで、各部署の要員調整や残留希望者の勤務態度について、霞琳は各部署の責任者と順次面談を行っていた。

 出納部署は他部署に比較し、残留希望者の割合が非常に高い。この事実について、宮女たちがさぞかし業務にやりがいを感じており、また職場環境も良いのだろうと受け止めていた霞琳だったが、今回の締切破り常習問題が発覚したからには多少なり疑念を持ってしまったことは否めない。


「まあ、女官長様、お待ち申し上げました。さあさ、中へどうぞ。」


 愛想よく迎えてくれる出納責任者の女官に促され、表情は至って柔らかな笑みを崩さずに応接間に足を踏み入れる。

 責任者の女官は人員削減に大変協力的であった。曰く、先帝の御代に比較して妃嬪の人数が激減したことで、各宮の予算・支出管理にかかる業務量が減ったため、人手に余裕があるというのだ。

 そして残留希望者が多いことは上官として喜ばしく思いながらも、要員削減に伴い他部署へ異動する者が多く出ることになるだろうことには心を痛めていた。

 残留希望を出している宮女たちの履歴や人となりについて、霞琳はラシシュから既に報告を受けていたが、改めて上官から聞き取りを行って認識を固めつつ、更に出納部署にとって必要な人材か否かを見極めていく。


「……では、韓絹逸という女官は非常に優秀で、面倒見がよく他の女官たちからも慕われており、こちらの部署にとってなくてはならない人物ということですね。」

「ええ、それはもう!彼女が残留を希望していると聞いてほっとしました。もう三十年以上も出納を担当しているので、彼女の知らぬことはないといった様子でして……私も皆も頼りにしているのです。」

「そうですか。……一つ、宜しいでしょうか?」

「はい、何でしょう!」

「内侍省に提出する支出報告書、毎月提出期日を過ぎてしまっていたようですね。」

「……は?」

「決裁者かつ後宮の責任者として、その事実に気付けなかったこと、心から反省しております。そして藍朱に確認したところ、私のところから報告を上げるのがそもそも遅かったようで……内侍省への提出期限までに報告書をまとめられずにいたのは、きっと私どもが原因でしょう。だから貴女と実務担当者である絹逸さんに謝りたかったのです。ご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳なく思います。」

「は、はあ……?」

「恐らく、貴女や絹逸さんは上長である私に督促をするのを躊躇われていたんですよね。でも今後はどうかそのような遠慮はなさらず、急かすべきものは急かしてください。……そうそう。先程のお話で人手が余っているとのことでしたから、絹逸さんが少しでも早く報告書のとりまとめを終えられるよう、担当者を増やして手分けしてみてはどうでしょう?」

「…………。」

 

 責任者の表情に困惑の色が広がっていく。どうやら彼女は締切破りの事実を認識していなかったようだ。出納部署の責任者ですら締切を知らなかったというのは、由々しき事態である。

 霞琳の三文芝居は続く。反省の意を込めた溜息を吐き、さも困っているといわんばかりに片手を頬に添えた。


「本当に申し訳ないんですが、藍朱も出納部署に報告を上げる締切を知らないそうなのです。他の部署はいつ頃提出しているのでしょう?私のところもそれに合わせれば間に合いますよね。」


 霞琳はここぞとばかりにずいっと身を乗り出した。さあ早く教えてくれ、と全身で訴えるように。


「か、確認して後程ご回答差し上げます。女官長様はご多忙でいらっしゃいますから、次のご予定もおありでしょう?ここであまりお引き留めするわけには――」

「お気遣いありがとうございます。でも今日はこちらの面談が最後の業務ですので、時間ならお気になさらず。――そうだ、折角なので絹逸さんを呼びましょう。そうしたらすぐに確認ができますし、私も貴女が絶賛する優秀な女官の顔を見ていきたいですから。」

「は、はい……。」


 にこにこと無邪気な笑みを浮かべる霞琳に観念したらしく、責任者が絹逸を呼ぶ。

 間もなく姿を現した絹逸は、年の頃は五十を過ぎたくらいだろうか。化粧っ気もなく、帯の結び方が非対称にずれており、身嗜みには頓着していなさそうな印象の、どこか陰気さを帯びた顔つきの女官だった。

 責任者が彼女の耳元でひそひそと何やら囁いている。その後、絹逸は表情を変えることなく霞琳の前に進み出て頭を下げた。


「――女官長様、お待たせいたしました。韓絹逸と申します。」

「急に呼び出してごめんなさい。出納業務にはあまり通じていなくて、貴女がとても優秀だというので教えてもらいたいと思ったんです。」

「それは恐れ多うございます。仰せの通り出納関係は細かい決まりも多く煩雑なので、どの部署の方もなかなか理解しづらいようです。支出報告書についても、各部署から提出いただいたものを私の方で修正したうえでまとめておりますから、不安な点があっても気にせずお出しいただいて構いません。」

「そうは言っても、修正が多いと貴女の負担が大きいでしょう?それはいけません。」

「お気遣い痛み入りますが、皆様が本来の職務に注力できるようお役に立てるなら、そのくらい大したことではございません。」


 女官長に対してもにこりともせず愛想のない女性だが、生真面目そうな表情ではっきりと信念を口にする振る舞いには彼女の真心が表れているようだ。他の宮女たちにも慕われている理由が察せられる。

 他の者のためにという絹逸の気遣いは確かにありがたい。ありがたくはあるのだが、霞琳としては後宮の責任者として出納業務の内容を理解したいのである。それなのに教えてくれと言いにくくなるこの雰囲気は何なのだろう。釈然としないもやもやが胸の奥に閊える気がした。


「で、ではせめて、支出報告をこちらに提出する正しい締切を――」

「今のままで結構です。」

「え?」


 霞琳は面食らう。先程まで自分が責任者の女官を押していた側だったというのに、絹逸の登場により完全に逆転してしまっていた。内侍省への提出期限を守るつもりがないというも同然の絹逸の反応は、あまりに想定外に過ぎる。

 本心が駄々洩れになりぽかんと間の抜けた表情を浮かべる霞琳とは対照的に、一方の絹逸は涼しい顔を崩さない。


「皆様もお忙しいなか、出納資料をまとめて提出してくださっているのです。無理をして早めていただくわけにはまいりません。締切は私の方で内侍省に掛け合っておりますから、お気になさらないでください。」

「まあ、絹逸は頼もしいわね。助かるわ。」

「皆様のためですから。」


 頑なに主張を変えない絹逸にも、そんな彼女を褒める責任者にも、霞琳は唖然とした。

 本当に絹逸が内侍省に掛け合い、期日延長の合意形成に至っているのだとしたら、炎益が霞琳のところに話を持ち込むことなどなかったろう。つまり、内侍省側は期日延長に否定的であるに違いない。

 実際、絹逸は「掛け合って」いると言っただけで、同意を得られたとまでは口にしていない。ただ、誤解を誘発するような物言いをしているだけだ。それが故意かどうかはわからないが。


「……絹逸さんがそこまで言うのしたら、分かりました。ただ、絹逸さんの負担が大きすぎるのは胸が痛みますので、次回からは無理のない範囲で早めに報告書を提出しますね。」


 已む無く霞琳は一旦引き下がることにした。

 正しい期日を知ることはできなかったが、あまり話を蒸し返して妙に固執していると疑われては今後の対応に支障を来すかもしれない。

 また、内侍省から締切厳守の依頼を受けたということは、最後の切り札として取っておきたかった。そもそも本来ならば、内侍省の出納担当者から後宮の出納部署に対して直接申し入れをするべき案件だ。それが、出納部署の責任者である女官を飛び越して女官長に、しかも皇帝の側近から話が来たというのは、交渉の正規ルートではない上に責任者の面子を潰す行為に他ならない。できるだけ伏せておくのが懸命だろう。


 努めてにこやかに挨拶をして応接間を後にした霞琳は、折角出納部署に来たからには宮女たちの働きぶりを労おうと、出納部門の執務室に向かうことにしたのだった。


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