炎益の依頼
「霞琳様にちょーっとお願いがあるんですけど。」
「炎益様がお願いなんて珍しいですね。どうなさったのですか?」
ある日の昼下がり。何の前触れもなく女官長の執務室にやって来た炎益を迎えて、仕事中の霞琳は顔を上げた。読みかけの資料を机の脇に押しやり、話を促すように視線を送る。
すると炎益は手にしていた書類を机上に広げた。霞琳はそれに目を落とし、つい昨日に決裁したばかりの後宮の支出に関する報告書であることを把握する。毎月、後宮の出納担当が前月分の支出をまとめ、女官長の決裁を経て内侍省に提出しているものだ。
内侍省は宦官が属する部署で、皇帝の私生活や後宮に関する事項を管轄している。炎益も無論そこの所属である。元々春雷付きだった彼は引き続き皇帝の側仕えを職務としているのだが、それ故に権力に頼ろうとする同僚からは色々な頼み事をされることも少なくない。
今回はどうやら内侍省の出納担当者である宦官からの話を受けて、霞琳のところに相談に来たらしかった。
「毎月提出していただいてるこの報告書なんですけどね、もう少し早く出してもらえないかなーと思って。」
「期日を変更したいということですか?」
「いーえ。そうじゃなくて、期日を守ってほしいって話です。」
「え?期日は毎月二十日頃ではないのですか?」
霞琳は困惑した。今日は二十一日だ。決裁後にすぐ提出したので期日には間に合っているはずである。
だが言われてみれば、提出期限について前女官長から明確に聞いたことはない気がする。ただ、毎月二十日頃に後宮の出納担当者が報告書を持ってきたら、すぐ押印して内侍省に提出するようにという引き継ぎを受けていたので、てっきりその頃が期限なのだと思っていたのだ。
霞琳の表情からおおよその事情を察したようで、炎益はこれ見よがしに盛大な溜息を吐いてがしがしと後頭部を掻く。
「あー、やっぱ霞琳様は知らなかったかー。ですよねー、そうだろうとは予測してました。真面目な貴方が理由もなく締切を破るとは思えませんから。」
「それで、本当の期日はいつなのですか?」
「十日です。」
「十日!?」
十日も違うではないか。霞琳が女官長となってから随分経つが、よくぞ今まで内侍省から急かされも叱られもしなかったものだ。
そんな頭の中身が表情に出ていたのか、炎益が続ける。
「内侍省の担当者も、以前は後宮の出納を担当してる女官に直接催促してたみたいなんですけど、全く効果がないんで諦めてたらしいんです。でも僕が霞琳様と親しいから期日厳守の話を通せるんじゃないかって勝手な期待をしたみたいで、頼まれちゃったんですよねー。」
「そうだったのですか……私が期日を知らなかったせいで長らくご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ございません。」
「嫌だなあ、霞琳様は悪くないんだから謝らないでくださいよ。ま、僕としては頼んできた奴への義理は果たしたし、ぶっちゃけると後の事はどうでもいいんですよね。期日が守られようが破られようが、僕には関係ないし。」
炎益の無責任すぎる言葉は到底感心できる代物ではないが、片目を瞑ってぺろりと舌を見せる仕草がどうも憎めない雰囲気を醸し出しており、霞琳は苦笑する。
取り敢えず、担当の女官には期日を守るよう伝えることとして、ふと霞琳は炎益のことが気になった。それなりに長い付き合いになってきたが、彼について知っていることといえばほんの僅かだ。
春雷の側近であること。
医学や薬草の知識があること。
……自身で局部を切断して手当てまでしたとか言っていたような。改めて考えると凄まじい精神力と技量の持ち主である。霞琳だったら自分でそんなことは到底できそうにない。想像するだけであの激痛が蘇ってくる気がして、そこで考えるのを止めた。
兎にも角にも、霞琳が持っている炎益の情報はその程度だ。宦官仲間との交遊関係や家族のことなどは一切聞いたことがない。
折角の機会なので聞いてみようという好奇心から、霞琳は報告書を返却すべく差し出しながら笑顔で一言添えてみた。
「後宮の出納担当者には私から声を掛けておきますので、炎益様を頼ってこられたという方によしなにお伝えください。どうでもいいなんて言いながらも、こうして態々義理を果たすためにこちらにいらっしゃるくらいなのです、それなりに親しいお方なのでしょう?」
炎益は書類を受け取りながら軽く眉を潜め、考え込むように天井へと視線を向けた。
まさかこれは本当にどうでもいい相手だからこそ説明するのも面倒臭いということだろうか――霞琳の表情がぎこちないものに変化した頃、炎益がぽつりと溢した。
「……まあ。他の連中と比較すればまだ親しい方だったかもしれない、というのが正しい表現ですかね。」
過去形にして曖昧過ぎる表現だ。
もしや嫌な思い出でも掘り返してしまったのではないかと不安になったが、炎益は気にするなというように書類をばっさばっさと左右に振る。人から預かった、しかも公文書だというのに、随分と雑な扱いである。
「霞琳様、すぐに悪い想像するの止めましょうねー。――今回僕に頼ってきたのは、内侍省の後輩なんですよ。僕も昔は出納を担当してたもんで、そいつの指導係だったんです。でも僕が春雷様付きになった後は全然関わりがなくなってたのに、最近また寄ってくるようになってきたんです。」
「そうですか。ご縁が復活して、また親しくなれたようで何よりです。」
霞琳がほっとして相槌を打つや、炎益は突如笑い出した。
「あははは!霞琳様、僕の話ちゃんと聞いてました?親しいだなんて、冗談じゃないですよ。」
「ええ?」
「僕が皇位継承とは無縁な第二皇子の側近だった間は無関係だったんです。でも皇帝の側近になった途端、近付いてきた。――その意味、霞琳様でも解るでしょう?つまりそれが奴にとっての僕の価値ってことですよ。人間関係なんてそんなもんです。」
炎益の表情はいつものように笑みを携えているが、瞳は完全な無感情だった。
霞琳は流石に自虐が過ぎるのではないかと感じたが、炎益が本気でそう考えているのならそう口にしたところで無駄だろう。ただ、自分たちとの関係まで後輩の宦官のそれと同じ括りにされたくはなくて、気持ちを伝えようと試みる。
「そういうお考えの方もいらっしゃるのもしれませんね。……でも、私は損得で炎益様との関係を築いているわけではありません。ラシシュだってそうです。勿論、陛下も徴夏様も、ただ純粋に炎益様を好ましく感じていらっしゃるからこそ、親しくされているのだと思います。」
「分かってますよ、貴方たちは例外だって。前言を改めましょう――“宦官の人間関係なんてそんなもんです”、って。……宦官って、権力欲しさで自ら、もしくは親が志願してなった奴が圧倒的に多いんです。それでもだいたいはぱっとしない中央貴族か、中央進出の野望を秘めた地方貴族や豪族みたいに、それなりの家の出身者がほとんどなんですけどね。僕は地方の小役人に過ぎないちっぽけな男の息子なんで、宦官の中でも出自は最下層。だから親しくする利点が本当にないんですよ、陛下の側近って立場を除いてはね。」
炎益は遠くを見るような目をしている。珍しく感情の見えない顔つきで、物言いも淡々として他人事のようだ。しかし書類を握る手には力が籠められているようで、がさり、と紙の束が歪む乾いた音が響いた。
普段は何があっても堪えた様子がなく、おちゃらけているような態度の炎益にも、色々と思うところがあるようだ。悪いことを聞いてしまったと反省し、霞琳は話題を逸らすために口を開いた。
「炎益様は地方のお生まれだったのですか。では私と同じですね!」
唐突な話題の転換に一瞬呆気に取られたようだったが、炎益の頬から徐々に強張りが消えて和らいでいく。
「……そうですね。僕は南部――征南将軍の管轄地域の出身です。父は現地採用の小役人なんですけど、能力も実績も碌にないくせに自意識過剰で、分不相応な出世願望のために僕を宦官にしたんですよ。僕を皇帝の側近にして、その口添えで取り立ててもらおうと目論んだんです。」
「そういえば、その、以前に自分で処置したと仰ってましたよね。医術の心得はどちらで?」
「医者のなりそこないみたいな男と一緒に暮らしてたんで、そいつに習いました。なりそこないから教わった程度ですから、僕の知識も怪しいですよ。だから余り信じないでくださいね、霞琳様。」
炎益がいつもの調子で軽口を挟むと、霞琳は口許を袖で押さえて可笑しげに笑った。
「ふふ、炎益の知識が信頼に値するものであることは身を以てよくよく知ってますよ。――それにしても医術を教えてくれるご家族がいらっしゃったなんて凄いですね。」
「あー、いや、そいつは家族じゃありません。僕の両親は昔一時的に関係があったってだけで、とっくに他人になってたんです。僕は母親に育てられたんですが、医術を教えてくれた奴とはその時に同居してました。……多分、父親は妻妾の子を宦官にするのは躊躇われたんで、どうでもいい息子である僕の存在を思い出して引き取ったんでしょうね。でも吝嗇なもんで、医者に処置してもらうと高くつくから、自分で切れって言うんですよ。胡散臭いとはいえ医術の知識がなかったら、僕は出血多量で死んでたかもしれません。麻酔や止血の効果がある薬草を用意できたからどうにかなりましたけど。」
「なんて酷い……。」
「まあそんなわけで、情も何もないあんな男を父親だとはいまだに思ってません。それにそいつ、僕が第二皇子付きになった時、責め立てるような手紙を寄越したんですよ。出世の途が絶たれたと思ったみたいで。……なのに陛下が即位してからというもの、掌を返したような手紙が届くんです。どこまでも調子がよくて図々しい男ですよ、全く。」
「本当ですよ!」
炎益の話を聞きながら青褪めたり悲しそうに眉を下げたりと百面相状態だった霞琳の顔は、いつしか真っ赤になっていた。
その憤りの激しさに、炎益の方が毒気を抜かれてぽかんとする。
「炎益様がそう思うのも当然です!我が子の命を軽んじて道具にしようとするような方、陛下が取り立てるわけがありません!自分の行いを省みるべきです!」
拳を振り上げんばかりに本気で怒る霞琳を前にして炎益は暫し唖然としていたが、次第に我に返ると屈託のない笑みを浮かべた。
「あははっ、そうですよねー。霞琳様が代わりに怒ってくれたから、もう僕が言うことはありませんね。――ああ、すっかり長居してしまってすみません。そろそろ戻ります。」
「こちらこそ引き留めてしまってすみません。……あの、あんなお話の後でこんなことを申し上げるのもどうかと思われるかもしれませんが、私、炎益様が自分のことを話してくださって嬉しかったです。」
「どういたしまして。僕も霞琳様が聞いてくれて嬉しかったですよ。――では、また。」
炎益はへらりと笑って執務室を後にした。
そして内侍省への帰り道、ふと空を仰いで独り言ちる。
「……本当のことなんて言えないよなあ。」
嘘を言ったわけではない。が、真実を話したとも言い難い。中途半端に話した事実と話さなかった事実が絡まりあって、虚実混交の体を成してしまっただけだ。
ほんの少しの罪悪感を覚えながら、それも已む無しと小さく嗤い、炎益は歩みを速めたのだった。




