月貴妃幽霊騒動
「霞琳様、ご存知ですか?月貴妃様の宮に幽霊が出るとか……。」
「幽霊?」
執務の合間の休憩時間。いかにも深刻そうな強張った表情で話し掛けて来るラシシュとは対照的に、のんびり寛いでいた霞琳は茶菓子を頬張りながらきょとんと双眸を瞬かせた。
幽霊が出るなどとは初耳だったが、ラシシュの話では近頃宮女たちの間で専らの噂らしい。
「それって姫様の霊なの?」
「噂ではそう言われております。ただ、幽霊が出るのは夜なので姿がはっきり見えたわけではないようですし、数日しか後宮にいらっしゃらなかった月貴妃様のお姿は余り知れ渡っていませんから、誰も断言はできないのでしょう。ですがあの宮に現れる幽霊なら、月貴妃様しか有り得ないということのようです。」
「会いたい!姫様になら、たとえ幽霊だとしても会いたいよ!」
菓子を食べきった霞琳は勢い込んで立ち上がる。腰を上げる際、ばんっと卓を叩いたものだから、ラシシュが思わず身を引く有様だった。
幽霊と聞いた時、霞琳はシャムナラ姫の宮で春雷とこっそり過ごしているのを誰かに見られたのかもしれないと思って気持ちがざわついた。しかし幽霊の活動時間が夜間であるなら、昼間にしか会っていない自分たちではないと悟って胸を撫で下ろす。
誰かに見られたところで疚しいことがあるわけではないが、春雷と密かに時間を共有していることを広く知られるのは、なんとなく抵抗があった。ふと、逢い引きをする男女もこんな気持ちなのだろうかと考えて、次の瞬間にはその想像を頭の中から追いやる。そんなわけがあって堪るか。いや、堪らない。
何はともあれ、後宮内で怪奇現象のような噂が流れているのは望ましくない。
怯えるあまり夜に眠れなくなっている宮女もいるというから、彼女たちの心身の健康が気がかりだ。
それになにより、他人に悪しき心を向けたり脅かしたりするような人間ではなかったシャムナラ姫について、恨みを抱いて死んだせいで幽霊になっただの、誰かを呪っているから化けて出ているのだの、彼女が薄気味悪い存在のように語られるのも許しがたい。
そういうわけで、霞琳は幽霊騒動を解決することにした。本当に幽霊だったなら成仏させる手立てを考えるべきであろうし、誰かの悪戯だったなら犯人を突き止めて相応の対処をしなくてはなるまい。後宮の平和とシャムナラ姫の名誉のためなら、女官長として、そして一個人としても奮わねばならない。
霞琳一人を夜の無人の宮に行かせるわけにはいかないとのことで、ラシシュは顔を引き攣らせながらも泣く泣く付き合ってくれることになった。普段はしっかり者の彼女だが、この手の話は全く以て駄目らしい。可愛い。
一言で夜といってもかなり長い。況してや年の瀬が迫ってきたこの時季、日が暮れるのは早く昇るのは遅い。
そして気温は低いので、外で幽霊を待ち伏せするのは論外だ。そのように自ら進んで風邪を引きにいくも同然の行為をしたら、また徴夏に体調管理がどうのこうのと揶揄されてしまう。
相談の結果、二人は夕方からシャムナラ姫の宮に忍び込んで一晩を過ごすことにした。
幽霊に気付かれてはいけないから、室内の灯りは最小限に留めるため、床に直接油皿を置いて火を点けた。
そして防寒のために厚手の衣類を重ね、持ち運んできた小振りの火鉢を設置し、その傍に座り込んで頭から寝具を被った。
数ヵ月前に短期間だけ過ごしたこの場所は変わっていない。調度品や日用品がなくなり生活感は薄れたが、春雷と待ち合わせる際に軽く掃除をしていたこともあって、汚れもない。
こうしてラシシュとここにいると、奥の部屋からシャムナラ姫がひょっこり顔を出して「二人でずるいわ!私も混ぜて?」などと言いながらに潜り込んで来そうな気すらする。
そんな想像を膨らませながらお泊まり会のようでわくわくしている霞琳に対し、ラシシュは既にかくかくと身を震わせていた。果たして一晩耐えられるだろうかと心配になるが、帰って良いと言っても彼女は引かないだろうから、早々に幽霊が現れて解決に向かうことを心の中で祈ることしかできない。
――がさっ!
やがて外で音がして、霞琳とラシシュは息を詰めた。
「来たのかな?」
「ゆ、ゆゆゆ、幽霊って、あああ、あんなに音を立ててく、来る、ものですか……?」
「うーん、会ったことがないから分からないけど……ていうか時間的に結構早くない?まだ日は落ちきってませんよね。」
「ととと、とりあえず様子を窺ってみましょう、か……!」
小声で話し合い、二人は顔を見合わせて頷く。
寝具から這い出て、四つん這いでじりじりと窓に近づく。差し込む夕日の眩しさに目を細めながら窓枠に手を掛け、そっと外を覗き込んだ。
相手がこちらを向いていたら目が合ってしまうかもしれないことを危惧していたが、幸いにも幽霊被疑者は建物に背を向けて、庭にある木の根本に屈み込んでいる。
男性の装束を纏ったその後姿は、シャムナラ姫どころか女性と見間違えようはずがない。外れのようだ。
そもそもそれ以前に、この背中には見覚えがある。
「……炎益様、そんな所で何をしているんですか?」
「えっ、うわ、霞琳様!?……いやー、吃驚したなー、もう。霞琳様こそ、こんな所で何してるんですか?」
外に出た霞琳が背後から声を掛けると、いつも飄々としている炎益が珍しく動揺を露わにした上擦った声を上げる。しかしそれも最初だけで、状況を素早く把握すると直ぐに落ち着いたらしく、最後の方は完全にいつものトーンに戻っている。発せられる言葉と棒読みのようなテンションの嚙み合わなさっぷりに何となく悔しくなるのは何故だろう。
「炎益様が私たちの気配に気付かないなんて珍しいですね。何かに集中なさっていたようですが。」
「あー……まあ、うん、そうですね。見つかっちゃったから仕方ないんで正直に話しますけど、先に約束してください。僕がここでやってること、これからも続けて良いって。」
「許可を出せるかどうかは内容を伺ってからでないと判断いたしかねます。」
「え、じゃあ言いたくないなー。」
「いけません!……まあ、変なことでなければ構いませんよ。炎益様なら大丈夫だと信じてますから。」
「あはは!流石は霞琳様、話が分かる!」
炎益は明朗な声を立てつつ腰を上げ、地面についていた両膝を払う。へへへ、と笑って鼻を指先でぐいっと擦った。指先は土で汚れており、その状態で触れた鼻先も同様になってしまっている。
「実は僕、ここで薬草を育ててるんです。宦官っていう立場で、しかも私的に使う薬草を商人に注文するのも難しいんで、後宮の人気がない場所でこっそり栽培してるんですよ。この場所は後宮でも一番片隅なうえ、月貴妃様の不幸が記憶に新しいからか近寄る人も少なくて、薬草を植えるには都合が良かったもんで。」
「そうだったのですね。……夜にこちらに来ることもありますか?」
「まさか、夜には来ませんよ。灯りを持参してまで草弄りするなんて非効率的ですからね。微妙な色味の違いで薬草か毒草か判断するようなものもあるのに、暗い時間に来たら間違えかねないじゃないですか。」
「じゃあここに来るのは日中だけ、と。」
「そうですね。休憩時間とか、仕事を終えてから日が暮れるまでの間です。ここ以外にも後宮のあちこちに勝手に薬草を植えてるんですけど、ばれたら不味いんでこそこそしながら短時間で作業を終えるようにしてます。毎日この広い敷地内を走り回って世話をするの、結構大変なんですよねー。」
「うーん、取り敢えず幽霊の正体は炎益様じゃないようですね。」
「幽霊?……ああ、噂になってるあれですか。」
怪訝そうな表情をしていた炎益だったが、霞琳の発した“幽霊”という単語を耳にして全てを理解したようだ。霞琳がここにいる訳も、自分が尋問された理由も、何もかも繋がったといった様子で頷いている。
そして霞琳の背後に控えたまま、一言も発していないラシシュに視線を向けて緩く首を傾いだ。
「……で、藍朱さんは幽霊とか苦手ってことですか。顔がすっかり青褪めてますけど、大丈夫ですか?」
「ええっ!ラシシュ、具合が悪かったの?」
いつも一緒にいるというのに、霞琳はラシシュの不調に全く気づいていなかった。怖がっているのは伝わって来ていたが、まさか顔色まで変わっていたとは。
霞琳はラシシュを振り返り、まじまじ見詰める。言われてみれば顔色が悪いような気もするが、もともと肌の色が濃いために微妙な違いまでは分からない。
しかし流石は炎益というべきか、即座にラシシュの具合を言い当てた彼には素直に驚嘆するしかない。
ラシシュは苦手な幽霊と対峙する恐怖で胸がいっぱいだったのだろうが、やって来たのが炎益であったという事実に今更ながら安堵で緊張が解けたらしく、ほろほろと溢れる涙を指先で拭いながら首を左右に振った。
「いいえ、もう良くなりました。霞琳様のお心を煩わせてしまい申し訳ございません。」
「謝る必要なんてありません。それよりも、無理せずに戻った方が……」
「霞琳様を残して戻るなんてありえません。それにここからは炎益様もいらっしゃいますから、とても勇気付けられます!」
「え。それってまさか僕も一緒に幽霊を待つ流れってことですか……?」
炎益を強制的に巻き込んで、霞琳たちは建物の中に戻った。
薬草の世話をしに訪れただけの炎益は防寒対策などしているはずもなく、やがて日が落ち、完全に夜になると火鉢のの傍で頻りに自身の体を摩って温めようとしている。
それを見かねたラシシュは、自分が彼を巻き添えにしたという罪悪感もあってか、寝具の端を持ち上げて炎益を招き入れようとした。
「いやいや、それは無理ですって。藍朱さん、いくらちょん切れてるからって、宦官と一つ布団で寄り添おうなんて考えちゃいけませんよ。宦官だって元は男です。質の悪い奴なら、最後まで致せなくても喜んで襲って来ますからね。」
「そ、そんなこと考えておりません!……私は、その、……炎益様だから……」
「そうですよ、ラシシュはちゃんと相手を見極めて対応できる人です。――とはいえ炎益様、寒いでしょう。私となら一つ布団でも良いのではありませんか?ほら、どうぞ!」
「……いやいやいや、霞琳様と一つ布団で寄り添うのは藍朱さんのそれとは違う意味で無理です、無理過ぎますって。全力で遠慮します。」
「ちょっと、何ですかそれ!失礼です!」
「あ、良いですね、これ。もっと扇いでください。」
「もう!」
霞琳がラシシュに倣い炎益に向けて持ち上げていた寝具をばさばさと上下させて遺憾の意を表明すると、発生した空気の流れは火鉢の炭を焚きつけ、温度が上がったそれが暗がりの中で幻想的な赤を浮かび上がらせ、ぱちぱちと爆ぜていた。
霞琳の憤りなどどこ吹く風といった炎益は、暖を増した火鉢に両手を翳しながら図々しい要求を口にする。そして霞琳も霞琳で、なおも不平の声を上げながら素直に寝具をはためかせ炭を燃やし続けるという状況が暫し続いた後、
――かさり。
ほんの小さな物音を聞き取ったのはラシシュであった。びくりと体を震わせた彼女は、霞琳が上下させている寝具の端をそっと掴んで床に下ろさせ、涙が滲む瞳で目配せをしてくる。
霞琳と炎益は視線を交わし合い、そろそろと窓際に寄り外を見遣った。
(――女性だ!)
朧月の柔らかく弱々しい月明かりの下、風に靡く衣の影――それは女物の衣類と思しく、霞琳はいよいよ幽霊の登場かと息を飲んだ。
直ちに出て行っては逃げられてしまいかねないので、いつでも立ち上がれるように片膝を立ててしゃがんだ姿勢を取り、隙を捉えるべく視線を人影から離さない。
幽霊の影はまたもや衣を舞わせながら、こちらに背を向けて庭の一角に屈み込む。後姿からは何をしているのか察することができず、もどかしさが募る。その影はしゃがんだまま微動だにしないので、そろそろ突撃するべきかと腰を上げた刹那、
「――やはりそなただったか、徴夏。」
「……春雷。」
庭木の蔭から不意に現れたもう一つの人影から発せられた透明感のある声は、よく聞き知ったものだった。
そして彼の声に反応して、幽霊の影が身じろぐ。丸い頭部がばさりと捲れ、薄ぼんやりとだが徴夏の顔立ちが見て取れたような気がした。先程女物の衣類だと誤認したのは、彼が纏う外套の裾が軽やかにはためいたものであったらしい。
想定外の二人の登場に、霞琳は驚きの余り呆然として突っ立ったまま窓の外を見つめることしかできない。
「……お前、なんでここに?」
「幽霊騒動で後宮に不穏な空気が流れていると聞いて、放置はできぬと思ったのだ。日中のうちに手がかりを求めてここに来てみたら、それを見付けてな。」
「……成程な。目立たねえようにしたつもりだったが、お前には解っちまったか。」
それ、と口にしながら春雷が指で示したのは徴夏が屈んでいた場所である。
霞琳の位置からは見て取れないが、バランスよく数段に積み上げられた石の塔が立っていた。それはとても小さいうえに茂みに埋もれるように隠れているため、よくよく観察しないと気付かない程度のものだ。
「月貴妃の供養塔のつもりだろう。……背負え、という私の言葉をちゃんと覚えてくれているのだな。」
「別に、そんなんじゃ――」
「姫様――月貴妃様の供養塔!?そんなものがあるだなんて、私、聞いてません!」
「霞琳!?なんでそんな所に……!」
春雷の柔らかな声と徴夏のばつの悪そうな声が交錯するなかに割り込む形で、窓を勢いよく開け放った霞琳の切迫した声が響き渡る。
徴夏は唐突な闖入者に驚いた様子で振り返ったが、春雷はふっと笑みを溢して霞琳を手招いた。
「中に誰かいる気配は感じていたが、やはり霞琳殿だったのか。――こちらに来ると良い。折角だから私たちも共に月貴妃の安らかな成仏を祈ろう。」
「はい!」
嬉々として建物から出て来る霞琳に、炎益とラシシュが続く。三人も隠れていたとは流石に想定外だったようで春雷が双眸を丸くしたが、すぐおかしげに笑みを溢した。
そして皆で石塔の前に並び、静かに眼を瞑って手を合わせる。
シャムナラ姫の葬儀は、毒殺であったことを隠蔽する意図もあって死後間もなく速やかに行われてしまった。霞琳は意識を失い寝込んでいたので参列が叶わず、また後宮を出ることが許されない身であるために墓参りすらもできずにいたのだ。
それがずっと心残りであったために、譬えその辺の石を積み上げただけの子ども騙しのような代物であったとしても、シャムナラ姫のために祈りを捧げられる供養塔が後宮内にあるという事実は霞琳の心を大いに慰めてくれるものであった。
何故徴夏がシャムナラ姫の供養をしてくれていたのか不思議だったが、問うてみればぽつぽつとその理由を話してくれた。後宮の平穏を守る職務に就きながらシャムナラ姫の毒殺を許してしまったこと、そして暴室での尋問にあたり罪のない侍女を自害に至らしめてしまったことを悔やんでおり、この供養塔は二人のために作ったのだという。
珍しくしおらしい雰囲気で語る徴夏の横顔を眺めながら、霞琳は柔らかく微笑んだ。普段は後悔とは無縁そうに見えるほど果断で前進していくタイプの彼が、霞琳にとって大切な人たちに関する過去を心に留めておいてくれたことが嬉しく、距離が更に縮まったような気がした。
「徴夏様、ありがとうございます。これからも姫様たちを想って拝ませてもらいますね。」
「……勝手にしろ。」
「はい、勝手にします。」
気まずそうに顔を逸らす徴夏に、変わらずにこにことした表情を向けて霞琳が言葉を返す。
実は徴夏や炎益もそれなりに足繫く通って来ていたことが判明した以上、今後この宮は皆にとっての秘密基地のような場所になるだろう。
春雷と二人だけの秘密の場所ではなくなってしまうことが若干寂しくはあったが、気心知れた仲間で集まるのも悪くない。それにこの場が賑やかである方が、シャムナラ姫も喜んでくれるに違いない。
(……そうだよね、姫様。皆がここで楽しく過ごすこと、喜んでくれるよね?)
(――うふふ、当たり前じゃない?)
心の中での呟きに返事があろうはずなどないのに、背後をそよぐ微風に乗って声が聞こえた気がして、霞琳は反射的に勢いよく振り返る。視界の端でふわりと衣が舞って消えたのは、都合の良い幻覚だったろうか。
「霞琳殿、どうした?」
「いえ、……すみません。なんでもありません。」
「……そうか。ならば良い。」
怪訝そうな春雷の声を受けて、霞琳は今度はそちらに向き直る。へへへ、と泣き笑いのような表情を浮かべながら、滲んでくる涙をそれはそれは嬉しそうに指の背で拭った。
春雷はそれ以上追及することはなく、ただ頷く。何やら考え込んでいたようではあるが、霞琳もまた敢えてその内容を問うことはしなかった。
――こうして幽霊騒動は幕を閉じ、不穏な噂は徐々に収束に向かったのだった。




