それから(後編)
寧江は徴夏と手を繋ぎ、機嫌よく軽やかな足取りで己の宮に向かっていた。
しかし、周囲に誰もいないところで徴夏は突如ぴたりと足を止める。自然と寧江も歩みを停止し、不思議そうに隣を見上げた。
「――それで?俺に話したいことでもあるんだろ。」
「……お見通しってわけね。流石だわ。」
「好い加減、その察してちゃんは止めろっての。言いたいことがあるなら言えばいいだろ?なのに、こっちから切り出すまで黙りやがって。」
「だって徴夏、ちゃんと察してくれるんだもの。」
「こっちから察して切り出してやらねえと後々面倒なことになるからな。自分のことを理解してくれてないだとか、自分のことなんてどうでもいいと思ってるだとか、一人で思い悩んで拗らせて暴走するだろ。」
「正解よ。よく分かってるじゃない、わたしのこと。」
寧江が笑みを浮かべる。
対照的に、徴夏は盛大な溜息と共に肩を竦めた。
「それで、話ってのは何だよ。自殺未遂を装った狂言のことか?」
「……どういう意味?」
「今更すっとぼけんな。――あの時、霞琳が来たのを確認してから態と飛び込んだくせに。」
寧江の表情から笑みがすっと消える。かといって動揺しているわけでもなく、徴夏に対して“やっぱり最初から見てたのね”とでも確認するかのような瞳を向けている。
目で語るのみで言葉を返さない寧江に対し再度わざとらしく大仰な溜息を漏らすと、徴夏もまた静かに見つめ返しながら口を開いた。
「あの時、ちびすけは霞琳が来るのを待って池に落ちた。あいつが助けてくれることを見越して、な。助けてもらえることで自分が愛されているって確信を得ようとしたんじゃねえのか?」
「……」
「そんでもって助けてもらった後は、母親や弟に対して感じてた後ろめたさをどさくさ紛れに懺悔までした。霞琳にそれを罰する権利なんかないのを分かってるくせに、ただ自分のことを罪ごとまるっと受け入れてくれるかどうか、測ろうとしたんだろ?」
「……」
「――本当に上手くやったもんだよな。まだまだちびのくせにその計算高さにしたたかさ、先が恐ろしいぜ。」
寧江が相変わらずのだんまりを決め込んでいる間、徴夏はあの日のことを思い起こしていた。
寧江が失踪したと聞き、徴夏は直感的に庭園へ向かった。徴夏が寧江を突き落とそうとした、あの池だ。
予想通り寧江はそこにいた。しかし植込みの陰に隠れ、何やら固い決意でもしたような顔つきで膝を抱えてじっとしている。近頃の無気力さとはかけ離れた雰囲気を感じて、彼女の真意を見極めるためにも徴夏は敢えて遠巻きに様子を見ることにした。
やがて泣きそうな声で寧江を呼びながらルェイホマがやって来て暫く捜していたが、寧江は彼女に見付からないようにこそこそと移動を繰り返して遣り過ごす。その姿を見て、徴夏は寧江が誰かを待っているのだと察した。
ルェイホマが行ってしまってから当分は誰も来ず、徴夏も潮時かと考え声を掛けるべきかどうか悩み始めたところで、寧江が動いた。池の畔まで歩を進め、水面をじっと見つめている。徴夏が様子を窺っていると、霞琳が徐々に近づいてきているのが見えた。霞琳も寧江に気付いたようで、少しずつ近寄って来る――その頃合いを見計らったように、寧江は池に身を投げた。
幾ら何でもこれは不味いと思った徴夏は寧江を助けるために木陰から出ていこうとしたが、それよりも早く霞琳が衣類を脱ぎ始めたので咄嗟に身を潜める。女性のあられもない姿など見慣れている徴夏だが、友人のそれとなると話は別だ。ましてや霞琳は春嵐にとって特別な存在のはず。ならば尚のこと、決して見てはいけないものである。
しかし目を離している隙に大惨事が起こってはいけないから、気まずさを抑えて横目にちらちらと状況を窺っているうち、霞琳は薄着になって池に飛び込んだ。そして春雷も此方に向かっているのを目にして、徴夏は何に対する安堵か自分でも分からない息を盛大に吐き出した。
その後のことは、互いの知るとおりである。
「……当たってるわ、半分だけね。もう半分は違う、ちょっとだけ。」
暫しの沈黙を経て、寧江が口を開く。ほんの数日前の出来事を懐かしむように遠くを見る。
「霞琳がわたしを助けてくれるって、確信してたわけじゃない。賭けだったのよ、飛び込んだのは。
もし助けてくれたら、わたしが大切だっていう霞琳の言葉を信じて生きてみようって思った。
もし助けてくれなかったり、助けようとしてくれても間に合わなかったら、やっぱり悪い子のわたしなんか誰からも愛されない運命なんだって諦めて、お父様やお母様のもとに行こうって覚悟をしてたの。」
「……そんなに悪い子でもないだろ、ちびすけは。」
「いいえ、悪い子よ。……霞琳にも言わなかったこと、教えてあげる。徴夏にだけね。――お母様の死体を見つけた時、頭が真っ白になったの。その後で最初に感じたのが、……安心感だった。」
徴夏は眉間に皺を寄せる。母親の愛情を求めて已まなかったはずの寧江がそんな感情を持ったとは意外過ぎたのだ。
寧江は子どもらしからぬ自嘲気味な笑いを浮かべる一方、瞳は無気力そのものだった時のように薄く濁っている。
「もう怒鳴られなくて済む、もう首を絞められなくて済む、もう優しくないお母様に会わなくて済む――……そう思って、凄くほっとした自分がいたの。わたしが好きだったのは優しかった時のお母様で、おかしくなったお母様のことは多分好きじゃなかったんだわ。
わたしはお母様のことを思ってお母様の味方でいたわけじゃなかったの。いつかまた優しいお母様に戻って愛してほしいっていう、自分の願いのためにお母様のそばにいただけだったんだわ。
……そう気付いた次の瞬間、殺してしまいたくなったのよ、自分を。あんなにお母様が大好きだったくせに、結局は全部自分のため、自分のことしか考えてなかった……そんな酷い人間である自分が怖くて、許せなくて、苦しくてどうしようもなくなったの。だから、死んで楽になれるならそれでもいいって思った。」
「……」
「……だけどね、絶望のどん底にいても、毎日優しくされていると甘えが出てきてしまうみたい。もうちょっと生きていたい、もっと霞琳の愛情が欲しいって思ってしまうようになったの。
でも死にたがっている自分がいたのも事実だから、その自分を説得するために生きる言い訳が必要だったの。“霞琳に求められているから生きなくちゃ”って。だからわたしは、霞琳がわたしにくれる気持ちが本物かどうか確認したかった。すぐに消えてしまうような愛情だったら、生きることに縋りつく理由としては不十分でしょう?」
「……面倒臭え奴。」
最初は怪訝そうだった徴夏の表情が心底うんざりしたものに変わり、理解できないとでも言いたげな呟きを零す。元来前向きで果断な性格の彼には、寧江の内省的にして決断力に欠ける考え方は厄介にしか感じられなかった。
死にたいなら死ねばいい。その決心ができないなら生きればいい。ただしいずれにせよ自己責任で――徴夏ならそう考える。
寧江の言う、生きる理由が必要だというのはまだ分かる。死にたくなるほど絶望したのなら、原動力になる何かがないとそこから這い上がることもできないだろうから。しかしそれを他人に求めるのは他責的な思考だ。もし霞琳の愛情がなくなったら、今度はそれを理由にして死ぬつもりだとでもいうのだろうか。だとしたら、死ぬ理由にされる霞琳が憐れ過ぎて同情を禁じえない。
しかし寧江は、徴夏の辛辣な感想をなんでもないことのように受け流す。
「そうね、本当にそうよ。そう思うわ、自分でも。そんな面倒臭いわたしをどこまで見捨てずにいてくれるか――それもまた、愛情が本物かどうか判断する材料なのよ。」
「とんでもなく自己中な思考だな。そんな方法で愛情を確認される側の身にもなってみろ、最初は付き合ってやっても段々鬱陶しくなってくるぞ。」
「ええ、だからもうしないわ。こういう方法では、ね。鬱陶しがられて嫌われてしまったら意味がないし、同じ手法を繰り返すばかりじゃ能がないでしょう?」
「今度は別の方法で愛情を確認するってことか?もしかして戎月国の菓子を食いたいって駄々を捏ねたのは――」
「ええ、次はわがままをどのくらい受け入れてくれるかで愛情を測るの。だけど甘やかすばかりじゃなく、度が過ぎたらちゃんとわたしのことを思って叱ってくれるかどうかも確かめなくちゃ。」
「……物凄え面倒臭え女!」
悪びれた風もなく純真無垢な笑みに似合わぬ発言を繰り返す寧江を見下ろし、徴夏は若干顔を引き攣らせながら吐き捨てた。恋愛の駆け引きでもしている年頃の娘ならさておき、庇護者の愛情を求める幼い少女の思考回路なのだから驚きだ。
しかし寧江は年齢相応の愛嬌もちゃんと兼ね備えているせいか、痛々しさや近寄りたくなくなるような負のオーラが一切ない。故に面倒臭い性格だと分かっていても、つい構ってやりたくなってしまうだけの魅力がある。
これまで何かにつけて寧江を気に掛けた行動を取っていたことからも明らかなように、徴夏自身もまたその天性の素質に引き寄せられていたのだろう。
「――ところで徴夏、今度はわたしが話をしてもいいかしら?」
「何だって?」
「わたしがあなたにしたい話っていうのは、別のことなのよ。残念ながら。」
寧江は確りと握った徴夏の手を揺らし、気を引こうとしながら足を踏み出す。徴夏はそれに付き合うように歩みを再開し、少女に視線をくれて話の続きを促した。
「あなた、いつまで独り身でいる気なの?」
「はあ?」
「叔母様が亡くなってしばらく経つでしょう。再婚してもいいんじゃない、そろそろ。」
徴夏は唐突な問い掛けに絶句する。
確かに周囲からは再婚の勧めがやたらと来るが、“亡き妻を忘れられないので”という建前で全て断っていた。情報収集のためにあちこちの女性に手を出すにあたってもその口実は大活躍しており、飽くまで一時的な慰めの関係であるという釘を刺すのに役立っている。だから彼女たちも単純に後腐れのない関係を愉しんでおり、徴夏に本気になって関係を縺れさせるような者はいない。
そういうわけで、身軽な方が都合の良い徴夏は今のところ後妻を迎える気は毛頭ない。
そもそも春雷の妃嬪選びすら難航したほど、良家に年頃の娘がいないのだ。有力な皇族である徴夏と家格も年齢も釣り合う女性も同様である。これもまた再婚しない理由として便利な事情であった。
寧江に対して、不特定多数の女性と関係を持つのには独身の方がいいとは流石に言えないので、妻にするのに適切な娘がいないという事実だけを返す。
しかし、寧江の反応は意外なものであった。
「いるじゃない、ここに。」
「はあ?」
「お嫁さんになってあげてもいいって言ってるの、わたしが。」
僅かに恥じらいを含んだ様子で輝く双眸を細め、真っ直ぐに笑みを向けて来る寧江に、徴夏は先程と同じように間の抜けた声を上げることしかできない。
「叔父様が言ってたわ、わたしを公主にしてくれるって。有力皇族と公主――これ以上にしっくりくる組み合わせがあって?」
「……俺、十五以上も歳下のちびに興奮できねえんだけど。」
「歳の差は我慢なさい、今は。それに、十年後、二十年後を考えなさい。おっさんになったあなたなんて若い女性から相手にされなくなってるわ。でもわたしと結婚しておけば、若くて美しい妻のわたしが相手をしてあげるわよ。」
「ちびすけが美人になる保証なんかねえだろ。――つーかそれ以前に、同姓不婚って知らねえのか?俺もちびすけも李姓、結婚相手にはならねえの。」
この国では同姓の者とは結婚しないという慣習がある。同姓の者は一族、ひいては近親者と見做すという古来のしきたりに基づいた考え方だ。
徴夏はこの風習を持ち出して寧江の提案を拒絶しようとしたが、当の寧江はぷっと小さく噴き出した。
「いやね。知ってるわよ、そのくらい。でも馬鹿馬鹿しいじゃない、そんなの。劉姓の従兄弟とは結婚できるのに、従兄弟よりももっとずっと遠い親戚である徴夏とは結婚できないなんておかしいわ。そういう理屈に合わない慣習なんて改めていくべきよ。この国には改革が必要だわ――そう思わない?」
「理屈は分かる。分かるが、世間が受け入れないことに態々手を出して無駄に批判を受ける気はない。」
「あら、何事もやってみてこそよ。誰かが声を上げてやってみなければ、誰も受け容れないし変わらない。違う?」
寧江の得意げな表情を前にして、徴夏は黙った。その通りなのである。同姓不婚はさておくとしても、世の中には道理に合わない風習や制度が多すぎる。徴夏が政に改革を求める理由の一つが、そういったものを排除して合理的な社会を築き上げたいという理想であった。
そういう意味では、世の批判を恐れず改革に意欲的な寧江には徴夏のパートナーとしての素質があるのかもしれなかった。だが如何せんまだ幼さ過ぎて、世の中を知らぬが故の怖いもの知らずなだけかもしれず、成長し世間を知るに従い凡庸に成り下がる可能性も大いにある。
また、同志として手を組むに足るとしても、夫婦になるというのはまた訳が違う。徴夏にとって寧江は、春雷が可愛がっている姪だから構ってやっているという程度の存在に過ぎない。そして同時に、世の大多数を占める有象無象のどうでも良い存在よりは情が湧いてもいる。
故に寧江を思えばこそ、徴夏は酷であっても現実を突きつけるべきだと思った。
「……はっきり言っておく。俺はちびすけをそういう対象として考えるつもりは一切ない。女として愛することもできない。」
精一杯の誠実さを込めて真顔で見下ろすと、流石に寧江は面喰ったような表情を浮かべた。だが負けじと真っ直ぐな眼差しを返してきて、やがてころころと声を立てて笑い始める。
「やだ、何を言ってるの?わたしたちが結婚するとしても政略の賜物だもの、徴夏に女として愛されたいなんて思ってないわ。ただ、あなたはあなたの理想を叶えるためにわたしの血統や身分といった価値を上手く利用してくれればいいの。その代わり、それなりに大切に扱ってくれないと殺すわよ。」
「そうかよ。つーか、ちびすけとは結婚しねえから殺されもしねえっての。」
「まあそれでもいいわ、今はね。いつか変わるでしょうから、あなたの考えも。――さてと、この話はこれでおしまい。じゃあね、徴夏。」
いつの間にか宮に到着し、軽口を叩いていた寧江の小さな手が徴夏のそれからするりと抜ける。そして元気よく駆けていく小さな背中を見送って、徴夏は踵を返す。
冗談として聞き流すには抵抗がある寧江の提案を、彼は全て聞かなかったと決め込むことにした。
徴夏は決断が速い。そして一度決めたら迷わない。
だから寧江を振り返ることもせず、しっかりとした足取りでさっさと後宮を後にした。次に寧江と顔を合わせる時には、何事もなかったように振る舞えるはずだ。
そんな徴夏の後ろ姿を、寧江はこっそり建物の陰から見つめていた。
何も言わずとも察して救いの道を示し続けてくれた徴夏のことを、寧江は自分の一番の理解者だと感じるようになっていた。池に突き落とされそうになった時ばかりは心底恐怖を感じたが、それは自分を子どもだと軽んじることなく真摯に向き合ってくれたからこそだと、今では解釈している。
徴夏からしてみれば、魑魅魍魎の如き奸臣たちが跋扈する宮中で生き抜くために自然と身に着けた洞察力が発揮されているに過ぎず、寧江が特別なわけでも何でもないのだろうこともよくよく理解している。
それでも――否、だからこそ、寧江は徴夏を繋ぎ留めておきたいと希求するようになっていた。あれほどまでに愛情を求めて已まない少女が、愛してもらえないことを承知で自分の愛情を捧げたいと願った初めてで唯一の相手だから。
「好きよ、徴夏。……伝えないけどね。当分は。」
寧江の呟きは、小さく舞い上がった風に攫われていった。




