それから(前編)
「体調管理は仕事の基本じゃねえの?」
「ほ、放っておいてください!これは不可抗力で………っくしゅん!」
「あ、春雷に鼻水飛んだ。」
「あああああ!申し訳ございません、陛下!!」
「……霞琳殿、いいから寝ていなさい。」
謝罪のために土下座をしようと身を起こし掛けた霞琳だったが、春雷の手に制されて再び寝台に背中を預けて寝具に覆われる。
心配そうに見下ろしてくる春雷とは対照的に、にまにまとあからさまな揶揄を込めた笑みを浮かべる徴夏に恨めしげな視線を送るが、彼は全く意に介した風もない。熱のために潤んだ双眸で睨まれても何の迫力もないだろうから、当然といえば当然であった。
――あの後、霞琳は高熱を出して寝込んでいた。
寧江も風邪を引きはしたが直ぐに治ったというのに、霞琳だけは盛大に体調を崩して仕事を休むという有様だった。漸く熱が引いてきたものの、まだ顔は赤く寝台から身を起こすのも気怠い。
そんな霞琳の様子を見るために春雷と徴夏がやってきたわけであるが、見舞いとは名ばかりでいつもの雑談と変わりないのはこの通りである。
「徴夏、軽口も程々にしておけ。そなたとて、この季節に池に飛び込んだら熱を出しもするだろう。状況が状況だったのだから、体調管理も何もあるまい。」
「それを言うならお前は?ぴんぴんしてるじゃねえか。」
「全身ずぶ濡れになった二人に比べれば、私など濡れた内にも入るまい。」
「ま、お前の場合は女官や宦官が総出で湯を沸かしたり部屋を暖めたりの大騒ぎになって、至れり尽くせりでぬくぬくしてたからな。」
「……霞琳殿や寧江にも同じようにしてやって欲しかったが、なかなかな。」
「そりゃそうだろ、皇帝と他の奴じゃ対応に差があって当たり前だ。好い加減慣れろよな。」
「そうですよ!寧江様は兎も角、私が陛下と同じようにだなんて畏れ多すぎます……!」
皇帝として即位してから日が経ったというのに、春雷は特別扱いがまだ馴染まないらしい。徴夏と霞琳が揃って声を上げるのにも、まだなんとなく居心地が悪そうに眉を下げている。
そんな他愛のない話題が一段落したところで、徴夏が軽く咳払いをして空気を改める。不意に真面目な顔つきになると、春雷と霞琳に順番に視線を向けてきた。
「――ところで、皇太子妃は自殺だと思うか?」
霞琳は言葉に詰まった。それは霞琳もずっと気になっていたことだ。
皇太子妃は心を病んでいたというから、衝動的に死を選択することもあるのかもしれないとも思う。彼女の死の少し前、寧江が初めて反抗的な態度を取ったという話なので、それが引き金になったという可能性もあるだろう。
とはいえ、此処は不穏なことが当たり前のように起こる後宮だ。暗殺ではないとは言い切れない。
「……正直、五分五分だと考えている。ただ、自殺だとしても唆した者がいるはずだ。そういう意味では、第三者の関与は確実にあったと思っている。」
「やっぱそう思うよな。」
「……失礼ながら、皇太子妃様はもう影響力をお持ちではなかったのですよね。態々危険を冒してまでお命を奪う、もしくは自害を促す必要があったのでしょうか?」
春雷と徴夏が頷き合うのを目にして、霞琳は首を捻る。既に世間から忘れ去られ、権力も何も持たない皇太子妃を消してメリットがある人間などいるのだろうか。
また、皇太子妃が亡くなる前に宮に出入りした者の調査が既に行われたが、食事や洗濯といった日常業務の範疇で宮女が数人訪れただけで、特に怪しい者はいなかったようだ。
もしも暗殺だとすれば、痩せ衰えていたとはいえ人間一人の抵抗を押さえ込み吊るし上げるだけの力が必要になるので、宮女の一人や二人でどうにかなるものではない。
直接手を下さずに死を迫っただけだというなら宮女や侍女たちでも十分可能だが、皇太子妃が拒んだら目的は達せられないうえ、もし騒がれでもしたらかえって自分の身が危うくなってしまう。余りにもリスクの高い役回りだ。
霞琳の疑問は尤もだというように一つ頷き、春雷は遠くを見るような目をした。
「義姉上に問題を起こされたくない者なら、この世から消えて欲しいと思ってもおかしくはない。……つまり、私は劉司徒を疑っているわけだが。」
「ええ!?劉司徒にとって皇太子妃は娘でしょう?しかも数少ない実の娘……」
「ああいう男にとっては、実の娘だろうと何だろうと利用価値がなくなったら不要なんじゃねえか?」
「実は少し前、寧江を守るために劉司徒を挑発してしまった。それで劉司徒が動いたのだとしたら、義姉上を殺したのは私だといえなくもない。……寧江から母親を奪い、精神的に追い詰めてしまったのは私なのかもしれないな。」
「陛下……。」
春雷の苦い表情に、霞琳の胸がちくりと痛む。慰めの言葉を探している最中、突如ばんっと大きな音を立てて扉が開いた。
「霞琳!――あら、叔父様に徴夏。お見舞いに来てたのね、あなたたちも。」
入って来たのは寧江であった。来客中だとは知らなかったようで双眸を数度瞬かせはしたが、特に気にした様子もなく小走りで寝台の傍らに寄って来る。
「霞琳、具合はどう?」
「だいぶ良くなって参りました。ご心配をお掛けして申し訳ございません。」
「謝ることじゃないわ。……謝らなきゃいけないのはわたしの方でしょう?」
「寧江様が謝ることなど何もございませんよ。池での遊びに誘ってくださっただけですから。」
「ありがとう。……でもやっぱり、ごめんなさい。」
寧江は心から反省しているようで、霞琳の戯言に対して苦いものが混じる薄い笑みを浮かべたのも束の間、すぐに眉を下げて俯いた。その素直でいじらしい様子は霞琳にとって愛らしくて堪らず、自然と頬を緩めながら手を伸ばして黒髪を撫でる。
皇族に対して不遜とも受け取られかねない行為ではあったが、寧江ははにかんだ様子で霞琳の手を享受していた。優しく頭を撫でてくれていた頃の母親を想起しているのかもしれない。
「霞琳、本調子になったらお菓子をちょうだい。」
「お菓子、ですか?それなら今すぐにでもルェイホマに言って――」
「違うの。それじゃ駄目。」
寧江はぶんぶんと首を振る。そして拗ねたように唇を尖らせた。
「まだできていないでしょ、約束のお茶会。あの日、戎月国のお菓子を持って来てくれるって言ってたじゃない。それを食べたいの、霞琳と一緒に。」
約束――皇太子妃が亡くなった日、行う予定だったお茶会だ。騒動のせいでお流れになっていたのを、寧江は改めて開催するつもりであるらしい。
あの時、この国では珍しいジュゲツナルム王国の菓子を霞琳が手土産として持参することになっていたが、落として駄目にしてしまったために寧江の口に入らぬまま今日に至っている。
元々は皇太子妃と霞琳を引き合わせることが目的だったので、本来ならもうお茶会など必要ないわけであるが、純粋にお茶や菓子を共にして歓談を楽しむ一時を過ごそうというのは魅力的な誘いだ。
しかし春雷は、寧江の肩にぽんと手を添えて小さく首を左右にする。
皇帝という立場上、ジュゲツナルム王国の現状をよく理解しているからこそ菓子の調達が難儀であることや高騰した価格を承知しており、それが全て霞琳の私的な負担になることを憂えているのだろう。
「寧江、戎月国の菓子は貴重で高価な物なのだ。そのように安易に人に要求していいものでは――」
「黙ってて、叔父様は。……――ねえ霞琳、駄目なの?」
「駄目じゃないです!私が元気になったら是非一緒に食べましょう!」
我儘を窘める春雷の言葉をぴしゃりと遮り、寧江は横たわる霞琳に横から覆いかぶさる姿勢で抱き着きながら上目遣いで霞琳を見つめて来る。
可愛い。可愛過ぎる。断るという選択肢を瞬殺して余りある愛らしさだ。どれほど困難を伴おうとも、必ず菓子を入手してみせよう――そんな決意をせずにはいられず、霞琳は何度も頷きながら快諾する。寧江はぱっと顔を輝かせた。
「約束よ、楽しみにしてるから!」
「はい、私もです!」
「だから殺すわよ、約束破ったら。」
「は、はい……!」
病人にも容赦なく不穏な口癖を投げ掛ける寧江の態度に溜息を吐いて、春雷は今度こそ彼女を霞琳から引き剥がす。
「……寧江、霞琳殿はまだ療養が必要だ。今日のところは此処までにして、ゆっくり休ませてあげなさい。」
「……だな。んじゃ俺も霞琳の風邪を貰っちまう前に退散すっか。」
「あら、徴夏も帰るの?なら送ってちょうだい、わたしを。」
「はあ?何でだよ。」
「そのくらいいいだろう、徴夏。寧江の可愛い頼みを聞いてやれ。」
「お前は変なところでちびすけに甘いの、どうにかしろ!」
ぎゃあぎゃあと賑やかな掛け合いを前に、霞琳はつい笑ってしまう。早く元気になって、自分もその輪の中に入りたいものだとしみじみ思う。
寧江がいては皇太子妃の死因についての話も切り上げなくてはならないので、自然とこの場は散会の流れに向かい、三人は霞琳に労わりの言葉を掛けてから退室した。
「では徴夏、寧江を頼んだぞ。」
「はいはい、分かったよ。送ればいいんだろ、送れば。」
「わかってくれて何よりよ。じゃあね、叔父様。」
徴夏は確りと寧江に片手を掴まれており、観念した様子で投げやりな返答を紡ぐ。寧江は至極満足そうににこにことした笑みを浮かべ、春雷に別れを告げて立ち去った。
春雷は二人の後ろ姿を見送ってから踵を返す。そして少し進んだところで、跪いて待っている志文と合流した。
「戻るぞ、志文。」
「はっ。」
志文は言葉にも挙措にも無駄がない。それは彼の美点であった。ただ、必要な報告や返答以外は口を開かないので、最低限の情報しか得られないという難点も兼ね備えていた。
情報の必要性というのは、情報を与える側が決めることではなく、受け取る側が決めることだと春雷は考えている。
恐らく徴夏も同じ認識であり、だからこそ彼は報告序でに雑談や冗談といった無駄かもしれない口を存分に叩いていくのだ。その中に春雷が欲する情報があれば、勝手に拾い上げるはずだという判断の表れだと解釈している。事実、春雷は徴夏の言動からはいつも多大な情報を得させてもらっていた。
そのように、ちょっとした仕草や言葉尻からも人間性や感情といった情報を鋭敏に察知するのが得意な春雷にとって、志文は些かやりにくい相手であるともいえた。
だから気になることがあった場合は、春雷から踏み込んでいかねばならない。今日もそうするつもりで、一つ呼吸を置いた。
「――そういえば、そなたに聞きたいことがあるのだが。」
「はっ、何なりと。」
「寧江が霞琳殿を襲ったあの時、なぜ霞琳殿を助けに入らなかった?」
春雷は肩越しにちらりと視線を送る。後に従っている志文はその眼差しを正面から受け止めるが、いつもの無表情に変化は見られない。
実は寧江と霞琳の初対面以降、春雷は自身の安全が保障されている場にいる時に限り、志文を密かに霞琳の護衛に回していたのだった。
あの騒動が起こった時、春雷は朝廷にいた。流石に公の場で堂々と皇帝に危害を加えようとする者がいる可能性は低いので、志文を霞琳につけていたのである。霞琳はそれを知らず、一人で寧江に立ち向かって負傷した。
志文が助けていれば結果は違ったかもしれない。そんな“もしも”を考えてはすっきりしない気持ちに陥るばかりだった春雷は、漸くこうして直接疑問をぶつけたわけだが、当の志文は全く動揺した風もない。寧ろ真っ直ぐ向けられる志文の瞳が持つ不思議な力強さに、常人なら圧倒されてしまうところだろう。幸いにも春雷は、厳しい視線など王皇太后のそれで慣れているので何とも感じずに済んだわけであるが。
「……畏れながら、寧江様の最初の襲撃を防ぐことは困難でした。女官長殿に気取られぬよう距離を取っておりましたので、飛び出して行っても間に合わなかったことと存じます。」
「そうか。だがその後は?なぜ出ていかなかった?」
霞琳の怪我を避けられなかったのは止むを得ないとしても、志文がその後も姿を現さなかったことが春雷には解せなかった。
志文が霞琳を快く思っていないことは察しているので、見殺しにするつもりだったのではないかと勘繰ってしまう。
しかし志文は尚も毅然とした態度を崩さず、深々と頭を下げた。
「お怒りはご尤もにございます。しかし私が下手に馳せ参じておりましたら、却って女官長殿のお邪魔になったことでしょう。」
「……どういうことだ?」
「女官長殿は武芸が得手のようで、私が助けるまでもなく寧江様を軽々あしらっておいででした。流石は張将軍のご息女、武術を嗜んでいらっしゃるものとお見受けいたします。」
「何だと……?」
春雷は瞠目して絶句した。知らなかった。これほどずっと傍にいたのに、霞琳がそのような素振りを見せたことは一度もなかったのだ。
仕方のないこととはいえ、武芸が得意な少年に女装をさせて闊達な身の動きを封じ、半年という長い間ずっと稽古の一つもさせてやらずにいた。女官長の仕事にやりがいを見出して励んでいる姿に安心していたが、本当は心の内に押し止めているものがたくさんあるのかもしれない。もしそうであれば、可能な範疇での自由を霞琳に与えてやりたい。
そのためには、もっと霞琳のことを知らなくてはならない――春雷はそう心に深く刻んだのだった。




