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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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白日の下

 霞琳は寧江を捜して後宮を駆け回っていた。


 そうしながらずっと、自分がいかに寧江のことを知らないかという事実を痛いくらい思い知らされていた。

 寧江のお気に入りの場所、思い出の場所、よく遊ぶ場所、嫌いな場所――そのような情報があれば捜す範囲を狭められもしようが、皆目見当もつかないので闇雲に捜し回らざるを得ない。

 ただ、春雷や徴夏も寧江を捜してくれていると聞いた。二人なら自分よりも余程寧江のことを理解しているはずだから、彼女がいそうな場所に心当たりもあるだろう。寧江のいそうな場所は彼らに任せておくことにする。


 気掛かりな点は、元々寧江は後宮の敷地内でも皇太子とその妻妾が住まう東部にいた。それが皇帝と后妃、更には皇太后の宮も含めた広大なエリアに移ってきたばかりなので、右も左も分からず馴染のない場所を彷徨っているかもしれない。寧江も動き回っていたら、捜しても捜しても行き違いになり続ける恐れがある。

 将又自ら部屋を出たのならまだいいが、拐かされたという可能性もないではない。もしそうであれば、とうに後宮にはいないかもしれない。

 霞琳は頭を振ってそんな恐ろしい想像を振り払い、一先ず寧江が後宮から出ていないという前提で捜索を続ける。


 霞琳にできることといったら、子どもが隠れていそうな場所を見て回るくらいだ。建物の裏や植込みの蔭を覗き込んだり這いつくばったりを繰り返す。

 そうしているうち、王皇太后の御前に出るからとラシシュが今日も手を掛けてくれた装いは完全に崩れてしまった。美しい衣の袖や裾は勿論、掌や頬まで土に塗れている。綺麗に結った髪も解け、草臥れたように中途半端に垂れている。

 上がった息が仄かに白くくゆる。もう冬だというのに汗も掻いた。ひんやりとした空気に冷やされて、汗が流れた背中に寒気が走る気がしないでもないが、動き続けた体はまだ熱い。

 途中で擦れ違う宮女たちにぎょっとした顔をされたが、寧江と隠れん坊をしているのだと誤魔化してやりすごした――つもりである。多分やり過ごせていないだろうことは、彼女たちがドン引きした様子で引き攣った笑顔を浮かべながら、関わり合いになるまいとしてかそそくさと立ち去っていく反応から明らかなわけであるけれども、霞琳には他に良い方便も浮かばないので致し方ない。


 そんな風にあちらこちらを駆けずり回るうち、前方に開けた場所が見えてきた。そこはちょうど皇帝や后妃の居住エリアと皇太子の居住エリアの境目で、舟遊びもできる広い池、そしてその周囲に木々を巡らせ、四阿も置かれた庭園のような空間になっている。

 霞琳は先日、寧江に誘われて皇太子妃の宮へ向かう途中に初めてここを通った。やっと寧江に心を開いてもらえた喜びに浮かれた状態で通り過ぎてしまったせいで余り印象に残っていなかったが、改めて見回すと子どもが遊び回るには十分の広さと環境が整っている。


 もしかしたら寧江もここにいるかもしれないと考え、そちらに向かう。――と、池の畔に小さな人影が見えた。


(――寧江様!)


 なんという幸いだろうか。この場を捜すまでもなく、寧江がそこに佇んでいた。

 独りぼっちでぽつんと立ち尽くしたまま頭だけ垂れ、水面を覗き込むように身を傾けている。


 霞琳はこの時点で異変を察知するべきだったのかもしれない。

 しかし、寧江を驚かせてはいけないと気配を殺し、声を掛けたら逃げられるかもしれないと警戒して、霞琳は足音を忍ばせながらゆっくり静かに近づいていった。

 寧江は霞琳に気付いていないらしく、ずっと池を見つめたまま動かない。いや、寧ろ池に呼び寄せられるようますます前のめりになっていき――、


 ――とぽん。


 霞琳は固まった。

 目の前で何が起こったのか、瞬時には理解できなかった。

 静寂に響き渡ったのが水音であることも、把握するのに時間を要した。

 ついさっきまで視線の先にいたはずの少女の姿が消えている。そしてそのすぐ近くの水面に美しい波紋が広がっていくのがはっきりと見て取れた。


「ね、寧江様……!」

 

 ややあってから漸く震えた声で呼び掛けながら、霞琳は寧江が立っていた場所まで駆け寄る。

 勢いよく膝をつき淵に手を掛けて覗き込むが、少女の姿を捉えることはできない。小さな気泡がこぷこぷと浮いて来るのが見えるだけである。

 最早躊躇っている余裕も理由もない。

 霞琳は立ち上がって上掛けを脱いだ。濡れても体が透けない程度に、できるだけ薄着になる。

 そして靴を脱ぎ捨てる。

 髪飾りも投げ捨て、水飛沫を上げながら池に駆け込んだ。


「霞琳殿!?」


 丁度その瞬間、対岸の更にその先から驚愕した表情で走ってくる春雷と目が合った。

 冬の屋外で、対外的には女性ということになっている霞琳が衣類を脱ぎ捨て、池に入ろうとしているところに出くわしたわけであるから、当然といえば当然の反応である。

 霞琳の気が触れたと誤解されてもおかしくはない状況だったが、幸い相手は春雷だ。寧江の捜索中であるという前提を共有していることに加え、視線がぶつかった瞬間、咄嗟に合図を送るように頷いてみせたから、彼ならきっと霞琳の行動の意図を汲み取ってくれているはず。

 そう信じて、霞琳は足を止めることなく池に飛び込んだ。

 しかし、流石は後宮の池である。広い。無駄に広い。そもそも数隻の船を浮かべて遊べるくらいなのだから、池というよりも小さな湖だ。


(寧江様はどこ?)


 池は淵から少し離れたあたりから急に深くなっており、陽の光が届かない底の方を探るために潜っていくしかない。

 霞琳は泳ぎが苦手ではない。寧ろ運動神経はそれなりに良い方だ。

 しかし水分を含んだ着物が袖や脚に纏わりついて重石となり、更には焦る気持ちもあって思うように泳げない。

 寧江がどこまで流され沈んでいるだろうか。冬物の衣類をしっかり着込んでいたから、幼い身には相当な負荷が掛かっているはずだ。溺死も時間の問題といえる。


(……お願い。寧江様、お願いだから生きていて!誰か寧江様を守って、……姫様!)


 神頼みならぬシャムナラ姫頼みをしながら、霞琳は必死に辺りを見回しながら水の中を進み行く。

 ふと視線を向けた先に、ぷくぷくと昇っていく泡を見つけた。

 霞琳ははっとしてその発生源に向かい、水を掻いて身を沈める。


(――いた!)


 池の底近くに、小さな人影が揺蕩うのを見つけた。切実な願いをシャムナラ姫が聞き届けてくれたのか、もしくは単なる偶然かは分からない。

 霞琳は水を大きく一蹴りして一気に距離を詰め、重たげに漂う寧江の小さな体を抱き締める。

 瞼は閉ざされ、薄く開いた唇からごぽっと最後と思しい空気が漏れる。意識はないようだ。

 霞琳は急いで方向を転換し、底を蹴って水面を目指す。優しい日の光が波にあわせて揺れ、こちらへおいでと導いてくれているかのようだ。


「ぷはっ!」

「げほっ!」


 やがて水面から頭を出した霞琳が酸素を肺に取り込むのと同時、寧江が大量の水を吐き出す。どうやら一命を取り留めたようで、ほっと安堵の息を吐く。


「霞琳殿、寧江!」


 掛けられた声に応じて振り向くと、一番近い岸辺で春雷が必死の形相で手を差し伸べてくれている姿が見えた。

 彼もまた池の中に入って来ており、足がつく深さのところで留まっているとみえて腰くらいまで水に浸かった状態である。


「へ、陛下!?お戻りください、お風邪を召されてしまいます!」

「構わない。早くこちらへ!」


 いつもの穏やかさは鳴りを潜め、珍しく厳しい表情で鋭い声を飛ばしてくる春雷に驚きながら、霞琳は急かされるままに彼の方へと泳いで向かう。

 寧江の重みが加わったお蔭で悪戦苦闘したが、どうにか霞琳も足がつく深さの場所まで辿り着いて立ち上がるや否や、寄って来た春雷が霞琳と寧江を二人まとめて抱き締めた。


「いけません、陛下まで全身濡れて――」

「……良かった。本当に良かった。そなたたちに万一のことがあったらと、私は……!」


 春雷の声も体も微かに震えていることに気付き、霞琳は制止の言葉を飲み込んだ。余程自分たちの心配をしてくれていたのだろうことが感じられて、不謹慎だが嬉しさを禁じえない。

 霞琳と春雷の間でもぞりと寧江が身じろぐ。彼女を潰し掛けていたことに気付き、春雷は慌てて体を離した。

 寧江は虚ろな瞳で周囲を確認すると、くしゃりと顔を歪める。


「……死ねてない、の?わたし……」

「生きていらっしゃいます。私が寧江様を死なせなどいたしません。」

「……死なせて……行きたいの、お母様のもとに……」

「寧江、義姉上は幼いそなたが後を追って来ることなど望んでいるまい。」


 霞琳や春雷の言葉を拒絶するように頭を左右に振り、寧江は一層顔をぐしゃぐしゃにして涙を零した。


「謝らなきゃ、お母様に……お母様があんなことになったのは、わたしのせいだもの……!」

「寧江様、何を……」

「わたしが叔父様のところに行こうって言ったから、……お母様なんて知らないって、酷いことを言ったから、お母様は……!……お母様を殺したの、わたしが……!」

「寧江、落ち着くんだ。」

「それだけじゃないの!……弟を殺したのもわたしなの!わたしがあの子に風邪をうつしたの!弟がお母様を独り占めするから、ちょっと意地悪したくなって……死んじゃうなんて思わなかった……。……だから、全部わたしが悪いの……あれからお父様がお母様を避けるようになって、おじい様がお母様を責めるようになって、お母様の具合が悪くなって……全部わたしが、わたしが悪いの……だから死んで、お父様やお母様、弟にも、……みんなに謝りに行かなきゃいけないの……!」


 か細い声で泣きじゃくりながら発せられる言葉に、霞琳と春雷は顔を見合わせる。

 二人には知る由もないことだったが、春嵐の息子の死因となった発熱は寧江によって齎されたものだった。


 当時、念願の男児の誕生に狂喜してそちらに掛かりきりになっていた皇太子妃は寧江を放置するようになっていた。それを寂しく感じた寧江は、母親の気を引きたくて薄着をして風邪を引いたのだ。体調を崩せば母親が心配して構ってくれると考えたからだった。

 寧江が熱でふらつきながら母親に会いに行くと、彼女は抱き締めていた男児を庇うように身を翻し、怒りの形相を娘に向けながら「自分の部屋に戻りなさい!治るまで出て来るんじゃありません!この子にうつったらどうするの!?」と厳しく叱責したのである。

 寧江は大層ショックを受けた。病気になっても母親の関心を引くことができない悲しみと、自分から母親の愛情を奪った弟に対する憎しみが湧いた。

 そこで皆が寝静まった夜半に部屋を抜け出し、密かに弟の元に向かった。母親の愛情を独占する弟へのちょっとした嫌がらせのつもりで、風邪を態とうつしてやろうと思ったのだ。しかし実際には、すやすやと安らかな息を立てて眠る小さな弟の顔を目にした途端、やはり可愛さが先立って意地悪な気持ちなど吹き飛んでしまった。愛らしい彼の傍から離れられずに優しく見守り、指先でちょんと頬や手をつついて遊んでいるうちに長い時間が経過し、結果的に弟は寧江の風邪をもらい受けてしまったようだ。

 直後、高熱を出した弟は呆気なくこの世を去った。嘆き悲しむ母親の姿を目にし、その後にゆっくりと崩壊していく両親の関係をひしひしと感じ取りながら、寧江は自分のしでかしてしまったことの重大さに気付いたが、もう遅かった。

 謝罪しようにも既に弟は亡くなっている。懺悔しようにも、事実を知れば母親が自分に愛情を注いでくれることはもう二度となくなるだろうという恐怖から誰にも言い出すことができなかった。長い長い間、寧江は自分の中に押し込めていたその罪の意識に襲われ続けていたのだ。


「寧江様。それでも私は、寧江様に生きていてほしいと思います。寧江様が謝りに行かれたところで、お二人が生き返るわけではありません。」

「でも、でも……わたし……」

「お辛かったのですね、寧江様。お話ししてくださってありがとうございます。……ですが、後悔されているのなら、尚のこと生きていてほしいです。ずっと苦しみに耐えて来られた寧江様なら、後悔を足枷にせず、前を向く力に変えられると信じています。」


 事の次第を把握できたわけではないが、寧江が母親と弟の死に責任を感じているということだけはよくよく理解した霞琳は、小さな体を抱き締める腕の力を強めて顔を覗き込む。

 霞琳もまた、初陣で出会ったあの少年やシャムナラ姫の死について思うところがいまだにある。自分がもっとしっかりしていたら死なせずに済んだのではないか――何度そう悔やみ嘆いたか、もう数えきれない。

 死んでしまいたいと思ったこともあったが、今、こうして生きている。後悔を乗り越えたわけではない。が、その後悔も自分を突き動かす要素の一つなのだと受け入れて、そっと抱き締めながら生きていく覚悟をしたのだ。

 故に寧江の苦痛は共感できるものであるとともに、寧江の成長を促すものになってほしいと心底願っている。


「……生きてて、いいの?」

「勿論です。」

「こんなに悪い子なのに?」

「私は寧江様が悪い子だなんて思っていません。」

「またするかもしれないわ、悪いこと。」

「その時はお説教して差し上げます。」

「……嫌いにならない?悪いことしても。」

「ちゃんと反省できる方を、どうして嫌いになんてなりましょう。」

「でも、わたし……わたし……」


 寧江はぐずぐずと鼻を啜りながら執拗に確認を繰り返す。拗らせきった思考はなかなか愛情を信用できないらしい。

 霞琳は困り果てたように大きく溜息を吐き出すと、寧江はびくりと肩を跳ねさせた。


「困りました。寧江様をこんなにこんなに大切に想っていること、どうしたら信じてくださるのでしょう?ああ、疑われるばかりで、私はとても悲しいです……。」

「そ、そんなつもりじゃ……!」

「ではご理解くださるのですね?嬉しいです!」

「……そういうわけじゃ、」

「大好きですよ、寧江様。ずっと、ずーっとです。――今は信じられなくても、いつか嫌でも信じるしかなくなると思います。」

「……。」


 霞琳が大袈裟に落ち込んでみせると、そこは子どものことなので、寧江は素直に慌てた様子を見せる。

 そこで霞琳がすかさず言葉を畳みかけて反論を封じ込むと、寧江ももう口を開く代わりに涙ぐみながら小さく頷きを見せたのだった。


「――そこの馬鹿親子ごっこやってる三人。」

「!?」


 突如割って入った声に驚き、霞琳が声の主を振り返る。池の畔で呆れ果てたような顔を浮かべながら、腕組みをして立っている徴夏の姿があった。


「その遣り取りさあ、池の中でしなきゃならねえわけ?とっとと上がれよ、風邪引くぞ。」

「た、確かにそうですね……!」

「……そうだな。上がるとするか。」


 すっかり気持ちが高ぶって寒さも忘れていたが、びしょ濡れで池に浸かっているという現状への指摘を受け、一気に冷えが襲ってくる。

 普段は冷静沈着な春雷でさえも些か気まずげに同意を示すのを見上げて、寧江が漸くふっと笑みを見せた。ぎこちなさの残る薄いものではあったが、確かに笑顔だ。

 それを目にして、霞琳と春雷は胸に温かいものが込み上げてくるのを感じながら足を踏み出す。


「――ああそうだ、霞琳。春雷は泳げねえから、うっかりこけさせんなよ!もしそいつが溺れ死んだら責任取らせるからな!」

「ええ!?」

「っ……今暴露する必要、あったか……?」


 態とらしく大声で告げる楽しげな徴夏に対し、春雷が恨めし気に小さく零す。弱点が露呈して恥ずかしいのか、頬が薄っすら赤らんでいた。

 なんでも涼しげな表情でこなしてしまう春雷に不得手なことがあるというだけでも驚きだというのに、極めて貴重な表情を目にして、霞琳は思わずぽかんと彼を凝視する。その視線から逃れるように春雷は顔を背けた。まるで子どものような仕草に、つい頬が緩む。

 それにしても、春雷が泳げないにもかかわらず自分たちを心配して池に入って来てくれたのだと思うと、大切にされていることを実感せざるを得ない。それは寧江も同様だったようで、泣きそうな雰囲気を漂わせながらも嬉しそうに双眸を細めていたのだった。


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