美女の顰
前皇太子妃の葬儀はひっそりと行われた。
あの日、天井からぶら下がる体を急いで下ろすと、既に彼女は事切れていた。
死因は病死と公表されたが、怪しむ者は誰もいなかった。それは当然であったろう。とうに世の中の注目を失っていたから、彼女が近頃どのような健康状態だったか知っている者などいないのだ。
或いはもし知っていたとしても、誰の目にも不健康に映るであろうことは明白だったから、それはそれで信憑性が高いものとして受け止められたかもしれない。
葬儀の参列者は最低限の関係者に限られたが、義理で出席したのだろう者が大半だった。
それは無理のないことである。春嵐が故人となるや掌を返した取り巻きや、陰口を叩き嘲笑っていた者たちは、いざ彼女の訃報を聞けば気まずいことこの上なかったはずだ。その罪悪感を軽くするためにもせめて葬儀くらいは出ておこうといった態度が見え見えで、衷心から死を悼んでいるようには到底感じられない。
強いて言えば劉司徒が一番嘆き悲しんでいた。彼が娘を罵倒していたことを知らぬ者なら貰い泣きをしてしまう程に滂沱として嗚咽を漏らし身を震わせる名演技である。
次は昭光だった。彼女はつい数ヶ月前に迎えられた養女なので、皇太子妃と姉妹として過ごした時間など皆無である。事実上は赤の他人であったろうに、深い哀しみを湛えて濡れた瞳を伏せ、痛ましい気持ちを堪えるように胸に白い手を添えた姿は人々の目を奪うものがあった。
憂い顔を浮かべながらも取り乱したところのない上品で理知的な様子は、かえって心痛の大きさを印象づけて周囲の人々の憐れみを誘い、なおかつ彼女の上品な美を際立たせたようだ。その後暫くの間、物憂げな表情で胸を押さえながら佇むポーズが宮女の間で流行したが、美女を真似たところで月と鼈であったから、暫く経つとその振る舞いを目にすることはなくなっていった。
返す返すも哀れを極めたのは寧江である。
母親の遺体を最初に見つけてしまってからというもの、すっかり心を失った脱け殻のようになっていた。
皇太子妃のための宮に寧江が主として君臨するわけにはいかないため、彼女は春雷の沙汰により一先ず霞琳のもとに預けられることとなった。女官長の執務室から程近い一棟を寧江の仮の住まいとし、ルェイホマが中心になって面倒を見ている。
あれほど固執して取り戻そうとしていたルェイホマが傍にいても、寧江は何処を見ているのかすら怪しい焦点の合わない瞳を伏せがちに項垂れて、一切口を開くこともなく、部屋の片隅で壁に背を預けたまま日がな一日何もせず過ごしている。
呼びかけても返事はなく、声の主を見ようともしない。
食事もとらない。見かねた霞琳やルェイホマが匙を口に捩じ込むと弱々しく喉が動く。そのように飲み込んでくれれば御の字で、時には匙を引いた途端に開いた口の隙間から食べ物がぼとぼとと零れ落ちてくることも珍しくない。
移動させようと腕を引けば、引きずられるようにして立ち上がる。だが、例えば湯浴みに連れて行ったところで、自分では何もせず立ち尽くしているだけだ。体を洗われれば拒絶することもなく大人しくそれを受けているといった具合で、されるがままの自我の無い人形のようだった。
今の寧江は無気力すぎて、少し前の刺々しかった時の方が精気に満ちていて余程良かったと思えるほどだ。
「寧江様はどう?」
「今日もお変わりありません……。」
執務室に入ってきたルェイホマは、霞琳の問い掛けに対し半泣きで首を振った。手にした盆には、ほとんど減っていない粥の椀が乗っている。
この日は徴夏も寧江の様子を見に来ており、ルェイホマと共に食事をさせようと試みてくれたが駄目だったらしい。ルェイホマの隣で肩を竦めている。
「このままではお体を悪くなさってしまいます。まだお小さいのにお父君もお母君も亡くされて、お辛いのは分かりますが……」
「辛いって感情すらもう無さそうだよな。死人が目を開けて息してるみたいっつーか。」
「徴夏様、慎んでください!」
ルェイホマが鋭い声を上げて徴夏を睨み付ける。小心の彼女がそのような態度を取るのは相当珍しい。それくらい憤りが大きかったのだろうが、いかんせん徴夏との体格差や幼い顔つきのせいでどうにも迫力がない。
徴夏はルェイホマの窘めなど痛くも痒くもないといった様子で、反対にじろりと彼女を見下ろしながら意地悪く唇を歪める。
「そんなに寧江を心配するくらいなら、ずっとあいつの傍にいることを選ぶべきだったんじゃねえの?寧江はあんたを連れ戻すため此処にまで来たってのに、あんたはそれを拒絶した。寧江はあんたに捨てられたって感じただろうな。
寧江があんな風になった直接的なきっかけは母親の死だとしても、それまでの出来事の積み重ねがあったはずだ。あんたの態度はそのうちの一つになってないって、自信持って言えるか?」
「そ、それは……!」
ルェイホマは泣きそうになりながら俯く。差別を受け虐められながら寧江の世話係を続けるよりも、霞琳のもとでやりがいのある仕事を選び採った負い目があるのだろう。彼女もまた辛い境遇であったことは確かだが、そこから自分だけが抜け出して、知らなかったとはいえ寧江一人を厳しい環境に置き去りにしてしまったのは事実だ。だからこそ徴夏の言葉が突き刺さったに違いない。
霞琳とて、寧江からルェイホマを取り上げてしまったも同然の立場である。加えて寧江に襲われたあの時、彼女が最後に口にしかけた言葉をきちんと聞いて対応できていればこんなことにはならなかったかもしれないという悔いもある。重い息を吐き出して、霞琳は二人に神妙な面持ちを向けた。
「そう、徴夏様の仰る通り、私たちは意図せずとも何らかの形で寧江様の御心を少しずつ追い詰めてしまっていたのでしょう。……ですが、それは仕方のないことでもあると思うのです。私たちは寧江様の状況をすべて把握できていたわけではありませんし、寧江様だけのために行動できるわけでもありません。寧江様のことをどれほど大切に想っていても、女官として、一人の人間として、他になすべきこともあればできないこともあるのですから。
……起こってしまったことは戻せないし、自分がしてしまったこともなかったことにはできません。だからせめて、今からでも寧江様のお力になれそうなことを探して、一生懸命努めましょう。」
「はい、霞琳様……。」
「ははっ!言うようになったな、あんたも。」
徴夏は満足そうな哄笑を立てた後、にやりと双眸を細めて揶揄混じりの笑みを浮かべた。
「じゃあその堂々とした振る舞いで今日は何点取れるか、楽しみにしておくとするか。」
「よ、余計なお世話です!」
霞琳は顔をぷいと背け、おちょくりに対する不服の意を示す。しかし徴夏は相変わらず楽しそうにくつくつと喉を鳴らして笑っている。
今日これから、霞琳は王皇太后のご機嫌伺いをするところだった。
初めて挨拶に出向いたあの日から、霞琳は定期的に皇太后宮を訪問している。王皇太后からお召しが掛かることは一度もない。が、訪問の申し入れをすると受け入れてはもらえる。しかし挨拶に行ったところで、用事のない王皇太后から話題を振って来ることはないため、霞琳の側から一方的に話しかけ続けなくてはならないのが悩みの種であった。
霞琳が「何か不自由はございませんか」とか「寒くなってきましたが体調はいかがですか」だとか問うてみても、例の威圧的な雰囲気で「何もない」とか「具合が悪そうに見えますか?」だとか、にべもない返答をされるばかりで会話が続かない。
話題作りのため菓子などの手土産を持参してみたこともあるが、すべて突き返されるという有様だった。
そうしてすごすごと撤退する霞琳の背中に向けて、辛口の点数を投げつけられるのが恒例になってしまっているのだ。
これまで壮絶な人生を歩んできた王皇太后への敬意、そして前女官長との約束があるので、霞琳としては王皇太后ともっと近しい関係になりたいと思っている。しかし、これ以上どう努力すればいいのか分からず、手詰まりになってしまっていた。
(……点数も初回の三点が最高得点だしなあ。)
毎回礼儀作法を復習してから出向くのだが、何故か点数が上がらない。客観的に見て二回目以降の方が粗相もないはずなのに、三点以下しかもらえずにいる。解せぬ。
点数も気に掛かるが、現在の霞琳の心を最も占めているものはやはり寧江だ。
今ばかりは王皇太后のことに集中しようと決意したにもかかわらず、虚ろな寧江の顔ばかりが頭の中に浮かんできてしまう。
どうしたら元気になってくれるだろう。
どうしたらまた笑ってくれるだろう。
珍しいお菓子でも用意したら気を引けるだろうか――。
「……何を考えているのです?」
「え、……あ、ああ!申し訳ございません!」
「わらわの前にいながら他のことに気を取られるとは、良い度胸をしていること。」
「申し訳ございません!皇太后様のことだけで頭を一杯にしますから、どうかご容赦ください!」
「気持ち悪い発言はお止し。」
ぴしゃり、と放たれる王皇太后の叱責に霞琳はあからさまにしょんぼりと身を竦める。
そう、既に霞琳は皇太后宮に到着していたのだった。しかし寧江のことで頭が埋め尽くされ、碌に挨拶もせぬまま突っ立っていたのである。
これは極めて不敬なことであり、霞琳としても反省してもしきれぬものであった。
聞こえよがしに大きな溜め息を吐き出し、王皇太后は霞琳に鋭い視線を向ける。
その眼差しの強烈さにはいまだ慣れず、霞琳は益々縮こまるしかない。
「……それで、何を考えていたのです?」
「え、ええと、……皇太后様のことを――」
「嘘はお止し。」
ぴしゃり、二度目である。
霞琳は観念する。果たして王皇太后の前で口にしてよい名前なのか分からないが、どうせ誤魔化しが通用する相手ではない。
「……寧江様のことを考えておりました。」
「寧江?」
ぴくり、と王皇太后の眉が不機嫌そうに上がる。
ああ、やっぱり失敗だったのか、と霞琳は更に萎縮した。
寧江は王皇太后にとって孫娘だが、王一族を滅ぼした張本人たる劉司徒の孫娘でもある。故に王皇太后が寧江を憎悪している可能性を考えたわけだが、当たりだったようだ。
今更発言をなかったことにできようはずもないので、流れに任せるしかない。
「はい、お母上を亡くされた寧江様をお預かりすることになったのですが、お元気がないものでして。どうしたらよいものかと思案に暮れておりました。」
「放っておけば良い。」
「……と申しますと?」
「何もしなくて宜しい。生きるつもりがないなら死なせておやり。」
「……。」
霞琳は直感した。王皇太后は寧江のことを気にしている、と。
その証拠に、霞琳は“元気がない”としか伝えていないにもかかわらず、寧江の状態がこのままいけば生死に関わりかねないことを承知しているかのような口振りだ。寧江についての情報は王皇太后の耳に十分入っているとみていい。
良い意味か悪い意味かは分からないが、王皇太后が寧江の動向を気に掛けているのは間違いないだろう。
「……ご無礼ながらお聞かせください。皇太后様はこれまで常に“生きる”というお気持ちを持って生きていらっしゃったのですか?」
「誠に無礼な物言いですね。」
「申し訳ございません、所詮三点の礼節しか身に着けておりませんので。」
「……。」
完全に開き直った様子でにこりと笑みを浮かべる霞琳の減らず口に、王皇太后が閉口する。
霞琳としては、寧江のことを話題に出して王皇太后の不興を買ったのであればもう今更だという気持ちで、彼女の本音を少しでも引き摺り出してみたいと思った。寧江と状況は違えど、王皇太后も親兄弟を失い、頼りにできる人もいない状況に陥った経験がある。
そんな時にも“生きるつもり”でいられたのか、もしそうだとしたらその原動力になったものが何なのか、知りたかった。寧江に気力を取り戻させるヒントになるかもしれないからだ。
王皇太后は暫く冷たい視線を霞琳に注いでいたが、やがて顔を逸らすと無表情のままにぽつりと漏らした。
「……生そのものに執着したわけではありません。憎悪の副産物が生だったまでのこと。」
「憎悪とは……」
「我が一族を破滅に追いやった先帝、劉司徒――そしてその血を受け継ぐ者たち全員に対する憎悪に決まっておろう。」
「……血を引いている方まで、ですか?」
「無論。――食中りなどとさも胡散臭い名目にせねばならなかったほど、先帝や春嵐は碌な死に方をしていないのでしょう。劉司徒の娘も気が触れた末に若くして亡くなった。当然の報いです。良い気味だこと。」
ほほほ、と王皇太后が機嫌良さそうに笑い声を上げた。これほど喜色に満ちた王皇太后の姿を目にしたのは初めてで、霞琳は内心で動揺を禁じえない。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。せめてもう一つ聞き出さねばならないことがある。
「……陛下に対しても尋常でない死をお望みですか?」
「勿論。」
嫣然と、しかし氷のような笑みが真っ直ぐに霞琳に向けられる。霞琳の背筋にぞくりと冷ややかな違和感が走った。
「――寧江も、以前は春雷を殺そうとしていたとか。その殺意を持ち続けていられたなら、今も生きる気力になったであろうに。残念なこと。」
「……残念、とは?」
「そなたは寧江に気力を取り戻してほしいのであろう?それが叶わず残念だと言ったまで。――それに春雷が可愛がっていた姪に殺され、寧江は皇帝弑逆の罪で死刑にでもなってくれたら、わらわの胸はさぞかしすっとすることでしょう!」
王皇太后の笑みが深まる。いつものきつい眼差しは淀みきり、鈍った分だけ黒く濁ったような印象を与える。
片手は胸元に添えられ、まるで長年除けずにいる閊えから解放される日を夢想し喜びに浸っているかのようだ。
根深い。幾ら何でも根深過ぎる。
先帝や劉司徒を恨むのは分かる。皇太子妃の死を快く感じるのもまだ分からなくはない。だが、腹を痛めて産んだ己の子すらも呪わずにいられないほどに深く根を張った憎悪は、霞琳にとって一種の狂気のように感じられた。
そして、それほどまでに人々を深く憎み強く破滅を願ったからこそ、王皇太后は自らの命を長らえる決断をしたのだと理解する。もし激しい感情も望みも持てぬほどに心が消耗しきっていたら、絶望の末に死を選択していたかもしれない。
そう考えると、王皇太后をこれまで生かしてくれた憎悪があって良かったと思わざるを得ないものがある。しかし、この苛烈過ぎる憎悪は王皇太后の身を生かす一方で、心を殺してしまったのではないかという悲しみを覚えずにいられなかった。
「……どうしたのです。そなた。」
「……皇太后様が、お労しくて……。」
気付けば霞琳の目からぽろぽろと涙が零れ落ちていた。
王皇太后の心中を思うと、辛い、痛い、苦しい――そんな言葉では表しきれない感情が込み上げて来る。胸の中を一杯に満たしてなお溢れ出してくる感情が涙になって流れていくようだった。
「……そなた如きに同情されるなど不愉快です。」
「申し訳ございません。ですが私は僭越ながら、皇太后様の御心が安らかになる日が来ることを願ってしまいます。」
「それは春雷と寧江が――」
「お二人がお健やかでいらっしゃる内に、です。そうでなくては皇太后様の御心に真の意味で平穏が訪れることはないと存じます。」
「……。」
王皇太后が一際不愉快そうに表情を歪めたようだった。
霞琳は真っ直ぐに王皇太后を見据える。涙で視界がぼやけたことが幸いしてか、王皇太后の目にも今は余り迫力がないように感じられるお蔭で、いつものように怯むことはない。
「――お話し中、失礼いたします!」
どちらも引かずに睨めっこの如く続いた静寂を打ち破ったのは、駆け込んできた侍女の緊迫した声だった。
何事かと二人が其方に視線を向けると、侍女は先ず王皇太后に一礼してから霞琳に向き直る。
「女官長様に部下の女官の方から火急の知らせが参りました。寧江様がいなくなられた、と。」
「寧江様が!?」
予想外の内容に霞琳が瞠目する。
まさかあの状態の寧江が気晴らしの散歩などに出かけるはずもない。嫌な予感しかしない。死なせておやり、という王皇太后の先程の言葉が頭を過る。
寧江を捜しに行かなければ――そう反射的に体が動いたその時、鋭く制止の声がかかる。
「女官長、そなたはわらわの許可もなく退室するつもりか?皇太后たるわらわと所詮一皇族に過ぎぬ寧江、どちらが重要と心得る?」
「皇太后様……。」
霞琳は咄嗟に礼を失しかけたことを自覚し、反省の念を込めて改めて王皇太后に深々と頭を下げた。
「御前にてあるまじき失礼をいたしました。誠に申し訳ございません。――仰せの通り、より重要なお立場にあらせられるのは皇太后様です。」
「ならば――」
「――されど、」
無礼を承知で王皇太后の言葉に声を被せる。
もう霞琳の涙は止まっていた。その双眸には揺るがぬ意志が宿っている。
「私が寧江様をお預かりすることになったのは陛下のお考えによるもの――即ち勅命にございます。畏れながらいかに皇太后様といえども、勅命より優先させるわけには参りません。」
「……。」
「――というのは建前でして。」
「……は?」
「皇太后様と寧江様、私にとってどちらも甲乙つけがたい大切な御方にございます。ただ今この時ばかりは、より事態が急を要している寧江様の元へ馳せ参じさせてくださいませ。」
霞琳は再びにこりと笑みを浮かべると、王皇太后に口を開く暇を与えず身を翻す。そうして裙を指先で摘まみ上げるや一気に外へと駆け出して行った。
嘗てはよく裾を踏んで転びかけていたものだが、女官生活が長くなるにつれ女物の衣類の扱いにも慣れて来るものだ。
礼を欠くにも程がある霞琳の行動に絶句していた王皇太后は、やがて我に返ると眉間の皺を深めた。
こめかみを伝う一筋の汗をそのままに、胸元に添えた片手でぐしゃりと衣類を鷲掴む。上等な絹が皺になるのに構う余裕もなく、椅子の手すりに身を預けて突っ伏した。震える瞼がゆっくりと下りていき、いつになく弱々しい眼差しはその奥に消えていく。
「皇太后様!」
「……十点、あげましょう。」
慌てて駆け寄る侍女の耳にも入らぬくらい小さく苦しげな、しかし何処か満足そうな声で史上最高得点をつけてもらえたことなど、霞琳には知る由もなかった。




