決意の先に待つもの
※死亡表現あり。
「……あら寧江、どうしたの?」
寧江は母親の部屋にやって来ていた。それに気づいた母親が寝台に横たえていた身を起こす。一つ一つの所作が緩慢にして都度力を込めなくてはいけないような、体力の衰えが如実に見て取れる動きだった。
そんな母親の傍らまで足を運ぶ寧江の表情が感情に乏しいのは常のことだったが、今日は普段と少し違う。若干のぎこちなさが加わり、顔だけでなく全体的に強張りが加わっていた。
「……お願いがございます、お母様。」
「なあに。話してごらんなさい。」
母親が不思議そうに緩やかに首を傾げる動きに合わせ、艶が失われ細くぱさついた長い髪が力なく揺れた。
どうやら今は穏やかだった頃の性格が表に出てきているようだ。とはいえいつも突然錯乱するのだから、油断はできない。
「あのね、お母様……あの、……えっと……」
「……。」
寧江は口を開きはしたものの、逡巡して顔が俯き、視線が頼りなく彷徨う。
母親は静かに次の言葉を待つ。まるで娘の成長を優しく見守りながら促す、世にありふれた一般的な母親のように。
「あの、わたし……――わたし、叔父様のところに行きたいの!」
――言った。とうとう言った。
たったこの一言を口にするためだけに何度も唇を開いては閉じ、声にならない息だけがはくはくと頼りなく抜けた。短い時間のはずなのに永遠のような長さに感じられ、その間ずっと心臓がぎゅうっと縮こまったような重苦しさに襲われていた。
そんな自分を叱咤するように拳を力一杯に握り締め、なけなしの勇気を全て使いきり、漸く告げたのだ。
達成感を覚えてもなお胸が張り裂けそうで息が詰まる理由は、恐怖だ。誰かに強いられたわけではなく自分で道を選択した責任を追わねばならない重圧、春雷のところに行ったとて彼の優しさがいつまで続くか分からない不安、そして何よりも最大の恐怖は春雷を憎悪している母親の不興を買い、もう二度と自分に愛情を向けてもらえなくなってしまうかもしれないことであった。
――が。寧江の一世一代の決意など知る由もない母親は、きょとんとした表情を浮かべながらまじまじと娘を見詰める。やがて袖を口元に添え、優雅さと無邪気さとが相半ばする笑い声をころころと立て始めた。
「春雷殿下のところへ遊びに行くのなんて、いつものことじゃない。行ってらっしゃいな、暗くなる前に戻ってくるのよ。」
「違うの、そうじゃないの。一緒に暮らすの、叔父様と。わたしだけじゃなくて、……一緒に行きましょう、お母様も。」
一時的な外出の許可を求めているものと勘違いしているらしい母親の認識を正すべく、寧江は頭を振る。
一度口にした以上、もう後戻りはできない。寧江は子どもながらに懸命になって、真っ直ぐな眼差しを向けながら言葉を足していった。
春雷に助けを求めるなら、母親も一緒に連れて行かねばならない――寧江はそう決めていた。この期に及んでもなお、寧江は母親の味方でいたかった。母親を救って、母親に愛されて、母親と幸せな日々を共に過ごす夢を捨てきれずにいた。
母親が病んだのは祖父のせいだと寧江は思っている。祖父が理不尽に追い詰めたから、母親の心は耐えきれずに壊れてしまったのだ。
今、母親は祖父に捨て置かれている。しかしもし寧江が一人で春雷の元へ行ってしまったら、祖父が母親にどんな仕打ちをしてくるか分からない。祖父にとって寧江にはまだ利用価値が残っているとしたら、その手駒を逃がした咎を母親に押し付け責め立てる可能性は大いにある。母親をそんな目に遭わせないようにするためには、一緒に春雷の庇護下に入るのが最も安全だった。
とはいえ、寧江はこの企みを春雷にまだ伝えていない。況してや、母親を連れていくことの許可などもらっていない。祖父への露見を恐れているからだ。
突然行動に移すくらいの我儘も、春雷なら許してくれることだろう。それに徴夏も言ったではないか。子どもは思うままに振る舞って良いのだと。もし春雷が受け入れてくれないのなら、泣いて喚いて騒いでやろう。
母親が一緒であることに難色を示されたとしても、春雷が観念するまで駄々をこねてこねまくってやろう。こんな冷たい場所に母親を一人で置いてはいけない。絶対に母親と共にいる――それだけは寧江にとって譲れないものであった。
「……どうして私が春雷殿下のところへ行くの?」
「お母様がゆっくり休めるようにしてもらうのよ。最近体調が良くないでしょう?」
理解が追いつかないとでも言いたげに黙っていた母親が、やがて至極真っ当な疑問を口にした。
寧江は心臓の音が跳ねるのを感じながら、漠然とした答えで遣り過ごそうとする。落ち着いている母親に対して、父親の死や祖父からの暴言といった現実を匂わせるような言葉を紡いではいけない。恐慌状態を呼び起こすことは避けねばならないからだ。
しかし、その現実を回避したままでは苦しい理屈にならざるを得ない。事実、母親の表情は益々怪訝そうに歪んでいる。
失敗したかもしれない――そう思った次の瞬間、ぱあんと乾いた音が響き、寧江の体は床に叩きつけられた。ひりひりと痛む頬を片手で押さえながら、寧江は母親を見上げる。
身を乗り出して寧江を引っ叩いた拍子に寝台からずり落ちた母親は、床を這って寧江に近づくや馬乗りになる。そして例の如く両手を細い首にかけ、色濃い憤怒を宿した双眸で見下ろしてきた。
「なんて恥知らずなことを……お父様に吹き込まれたの?夫を喪った嫂が自ら義弟の元へ身を寄せるだなんて、世間でどう噂されると思っているの!?私にそんなふしだらなことをしろと言うの!?」
「お、お母様、落ち着いて……!」
「落ち着いてなどいられるものですか!いつから寧江はそんな品のない悪い子になったの!躾直してあげないと!」
寧江は知らなかったが、父親の死後、母親は春雷を誘惑するよう祖父から密かに命じられたことがあった。曰く、幼い娘を遺して夫に死なれた憐れな嫂を演じて義弟の憐れみを買い、彼を篭絡して寧江の女帝即位への道を開け、と。
政略結婚であり、最後は夫婦間に隙間風が吹いていたが、母親は父親を慕い貞操を貫く覚悟を決めていた。そして野望のためなら何をも厭わぬ祖父の娘でありながら、義弟と通じることが人倫に悖る恥ずべき行為であるとの認識を持っていた。故に母親は祖父の命令を拒絶した。それが祖父と母親の亀裂を決定的なものとし、祖父が母親を完全に見捨てるに至った直接的なきっかけとなった。
寧江は、母親と春雷が男女の関係になることを促そうとしたつもりなど勿論ない。苦境を脱するために身内を頼ろうという、単純な発想である。そのため、母親が怒り狂い我を忘れるに至った理由など、寧江にとって全く以て訳が分からないものだった。
しかし気を病んでいる母親にとって寧江の発言は、祖父からのあの耐え難い命令を想起させるに十分だった。寧江が祖父の回し者に見えたのも止むを得ないことだったろう。
母親の手に力が籠る。憤りや悲しみの全てをぶつけるように。
指先が喉にめり込み、ぎりぎり、と首が締まる。
いつもならされるがままになり、最後の最後で母親が正気に戻り解放してくれるのを待つばかりだった寧江だが、今日は違った。その瞳は虚ろではなく、決意を秘めた燦然たる輝きを失わずに母親を正面から見据えている。歯を食いしばりながら小さな手で母親の手首を掴み、首から離させようと必死に藻掻いた。
初めて抵抗を見せた寧江に、母親ははっと目を見開く。自分が何をしているのか理解し、僅かに怯んだようだ。
その隙を逃さず、寧江は母親の腕を払い除ける。ばしっという大きな音と共に、体勢を崩した瘦身が傍らに崩れ落ちた。
寧江はよろよろと身を起こす。その様子は普段のように力ないものではなく、力強い意志を覗かせるようなしっかりとした動きだった。
「……諦めないから、わたし。信じてるから、……叔父様ならお母様とわたしを助けてくれるって、お母様にもそれをわかってもらえるって。」
「……寧江……。」
「どうしてもわかってもらえないなら、一人でも行くわ。……もう知らない、お母様なんて。」
「…………。」
床に倒れ伏す母親に背を向け、最後ばかりは心にもない駆け引きじみた言葉を投げ捨てると、寧江は確かな足取りで部屋を後にする。その円らな瞳には涙が滲んでいた。
いつ錯乱するともしれぬ母親に接するのが、本当は怖かった。
大好きな母親に首を絞められるのが、本当は苦しかった。
今日初めて意に反し母親を悲しませただろうことが、とても辛かった。
そして何よりも、たかだか五歳の少女の力を受けて倒れ込んでしまうほどに母親が衰えていたことを理解して、悲しくなった。
何もかもが綯い交ぜになった涙を手の甲で拭い、寧江は深く呼吸をした。自分の意志で生を選んだ――そんな実感に包まれるように。
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それから暫くの期間、寧江は母親の元を訪れずにいた。
寧江がこれほど長期にわたり母親に反抗を続けるのは初めてのことだった。母親の愛情を渇望するが故にすぐ良い子ぶってしまいがちな寧江にとって、母親の顔を見ない時間は非常に大きな苦痛を齎したが、自分で決めたことなのだからと自身を叱咤してどうにか耐えた。
その間、寧江は無為に過ごしていたわけではない。どうにか母親を説得する術はないかと模索しながら、同時に母親と顔を合わせずにいる寂しさを紛らせていた。
ある日、霞琳から書簡が届いた。以前のように、一緒にお茶をしようだの遊ぼうだのと誘いをかけて来る内容だ。寧江に襲われて怪我までしたというのに、相変わらずこんな招待を寄越してくる霞琳の気が知れない。
ただ、あの日抱き締めて微笑んでくれた時に感じた温もりを思い出すと、いまだに鼻の奥がつんとして涙が滲みそうになる。その優しさで包み込んでくれた霞琳ならば、力になってくれるかもしれない。随分と都合の良い考えではあるが、寧江は霞琳に初めて返事を書いた。
霞琳がこちらに来るなら、一緒にお茶をしても良い――そんな自分勝手な条件だというのに、霞琳からはすぐに快諾の返答が来た。そしてとんとん拍子に日時も決まり、あっという間にその日がやって来たのである。
(……どうしているかしら、お母様は。)
寧江はそわそわしながら母親の部屋へと足を向ける。
もうすぐ霞琳もやってくる時刻だ。寧江の目論見はお茶会を名目に母親と霞琳を引き合わせ、霞琳と協力して母親を説得し春雷の元へ連れていくことだった。
しかしその本来の目的をそっちのけにしてしまいそうな程、寧江の心は久々に母親に会えることで浮足立っている。
何日も会っていないが、変わりないだろうか。
母親も寧江に会わずにいる間、寂しいと思ってくれただろうか。
母親も寧江に久々に会ったら喜んでくれるだろうか。
どきどきしながら母親の居室に到着すると、寧江は扉の外から声を掛けた。しかし返事がない。許可なく戸を開けてはいけないと教えられていたから、そこで暫く待つことにした。
厠にでも行っているのかと思ったが、戻ってくる気配がない。
たまたま近くを通りかかった侍女に聞いてみても、知らないという。
寧江は嫌な胸騒ぎを覚え、断りの声を掛けてから扉を開け放って中を見渡した。いつもなら寝台の上にいるはずの母親の姿が、そこにはない。
代わりに、丁度寧江の目線の先で細い足が揺れていた。通常ならばそんな高さに足などあるはずがない。夢でもなければ人間が浮いているはずなどない。
寧江の背を冷や汗がどっと流れ落ちる。心臓がばくばくと騒ぎ立てる。上を向く勇気が出ない。しかし、見なくてはいけない――そんな逡巡を繰り返した末、恐る恐る視線を持ち上げた。
「……お、かあ、さま……?」
天井からぷらんとぶら下がった女性の顔は、長く乱れた髪の陰に隠れてしかとは見えない。だが、寧江は直感的に確信した。これは母親だ。
力なく垂れ下がった手は、ある時は寧江の頭を撫で、頬を叩き、首を絞めたあの手で間違いない。
言葉を失い呼吸すら忘れていた寧江の体は、段々と目の前の現実を理解するに連れてがくがくと震え出した。恐ろしいのに目を逸らすこともできず、ただ茫然として立ち尽くす。
「――寧江様?そんな場所でどうされましたか?」
不意に背後から掛けられた声を受けても、寧江は動けずにいた。
母親の部屋の前で、中に入るでも立ち去るでもなく、開け放った扉の前で立ち竦む姿はさぞかし不思議に見えたに違いない。
寧江からの返事がないことも相俟って怪訝に思ったのだろう。その声の主――霞琳は軽やかな足取りで駆け寄りながら再度問を投げ掛けて来る。
「もしや私、お約束の時刻より早すぎてしまったでしょうか?今日はお母様もご一緒にお茶をなさるのですよね。ご用意が整っていないようでしたら、出直して――……っ!?」
霞琳の声が途切れると同時に、どさりと何かが落ちる音が響く。きっと霞琳が持って来たお茶や菓子が入った包だろう。霞琳もまた、寧江と同じ衝撃的な光景を目にしたのだ。
まるで金縛りにでもあったように動かない寧江の体は、次の瞬間には優しくも力強い腕の中に収められていた。悪夢のような現実で満たされていた視界は一転、淡く柔らかな色味のふわりと柔らかい布地で満たされ、霞琳の胸元に顔を押し付ける体勢になっているらしいことを知る。
「寧江様、ご覧になってはいけません!――ラシシュ、急ぎ内侍省に向かい炎益様を呼んで来て!それからルェイホマは、陛下と徴夏様にご報告を!」
霞琳は供として連れてきていた女官たちに矢継ぎ早に命を下す。その頼もしい声を聴きながら、無意識に霞琳の胸元を握り締めて縋りついていた。
「……傍に、いて……。」
「はい、寧江様のお傍におります。すぐに陛下もいらしてくださいますからね。」
辛うじて絞り出した言葉に応える声は、先の凛としたものとは異なり慈愛に満ちたものだった。寧江の体を包み込む腕はどこまでも温かく、何度も繰り返し背を撫でてくれる手は落ち着きを齎してくれる。
騒ぎを聞きつけたらしい侍女たちが集まって来て悲鳴を上げ右往左往しているようだったが、霞琳がくれる安心感のなかでその喧騒も遠ざかり、やがてすっと意識が途絶えたのだった。




