面影
劉司徒は春雷の執務室に呼び出されていた。
春雷は常の通り柔和な笑みを浮かべている。嘗ては“可もなく不可もない”凡庸で呑気な皇子の象徴であったその表情が、先日してやられた一件が記憶に新しい劉司徒にとっては何よりも警戒に値するものになっている。
劉司徒のそんな心の内などお構いなしに、春雷はにこやかな顔つきを崩すことなく形の良い唇を開いた。
「そなたも多忙であろうに、急に呼び出してすまないな。態々足を運んでもらったのは、内々に話しておきたいことがあったのだ。」
「臣たる者、陛下の仰せとあらば直ぐに参上するのは当然のことにございますれば。何なりとご下命ください。」
劉司徒は大きな体を前方に傾ける。本人は丁重に礼をしているつもりだが、腹回りの豊かな肉がその動きを阻害するので、実際には猫背のように背が丸まり首から先だけが深々と垂れている有様である。
春雷はその不格好な姿に片手を向け、顔を上げるよう促した。
「そう畏まるな、何かを命じようというつもりではない。――実は、行く行くは寧江を公主にしようと思っていてな。」
「左様にございますか。」
「ああ、だが寧江の立場が“前皇太子の娘”という立場のままであれば太師は必ずや反対するだろう。そこで寧江を朕の養女にすることで納得させようと考えている。譬え養女であっても“皇帝の娘”に変わりない。なれば公主にはる資格は十分だろう?」
「仰せの通りにございます。」
「寧江の外祖父に当たるそなたには、予め話を通しておこうと思った。……寧江は朕にとっても可愛い姪だ。そなたが寧江を公主にすべしと最も熱心に主張してくれているのは、早くに父親を喪った不憫なあの子を気に掛けてくれているからだろう?その気持ちに感謝しているぞ。」
「畏れ多いことにございます。」
言葉こそ丁重に紡ぎ出してはいるが、劉司徒は余り愉快な気分ではなかった。
寧江が公主という身分を与えられること自体は、自身にとって悪くない話だ。己の主張を皇帝が受容することは、権勢のアピールにもなり敵対者たちへの牽制効果も見込める。
しかし一方で、寧江が春雷の養女になるというのは、彼女が春雷側に取り込まれるという解釈もできる。寧江は劉司徒の血を引く唯一の皇族だ。女帝推戴の道が閉ざされた今、重要度が大分低くなり疎かな扱いをしているとはいえ、腐っても皇族である以上は今後も何らかの使い道があるかもしれない。劉司徒にとって一応手駒として確保しておいて損はないという程度の価値はある。それを春雷に奪われるのは気が進まない。
寧江が公主になる利益、そしてその代償が齎す不利益――複雑になる損得勘定を頭の中で繰り広げながら、劉司徒はいつも以上に慎重を期し賛否については敢えて口にせず相槌にばかり徹している。
そのように意見を鮮明にしない劉司徒に焦れたわけではなかろうが、春雷が再び口を開く。穏やかな笑みは不意に物憂げなものに変じていた。
「……朕にはまだ子がいない。不測の事態にも備えておかねばならぬからな。」
「何を仰せられますか。陛下はまだまだお若く、治世は始まったばかりにございますぞ。――とはいえ、早くに身罷られた前皇太子殿下のような例もございますれば、お気を弱くされ万一のことをお考えになってしまわれるのも無理のないことにございましょうが……。」
「……もし朕の身に何かあったら、現状では皇位を継承しうる者は太師しかおらぬ。それは時代に逆行するも同然、どうしても阻止したい。」
「左様にございますか。」
深い溜息を漏らしながら翳りを見せる春雷。
つい先日は李太師と組んでいたのが明白だったというのに、何をぬけぬけと――そんな罵倒はおくびにも出さず、劉司徒は相変わらず丁重な相槌のみを返す。
寧江を公主にすることが不測の事態への備えであり、尚且つ李太師に皇位を継承させたくないというのが本心であれば、言外に次の皇帝として寧江を指名しているとも受け取れる。春雷が自ら率先して劉司徒にとって望ましい展開をお膳立てしてくれているに等しいが、だからこそ迂闊に飛びつくわけにはいかない。この若き皇帝の腹の底はまだまだ見えないのだから。
「――それでだな、司徒。寧江を朕の養女にするとして、その母親の処遇が問題になる。」
「仰せの通りにございます。……娘は我が家に下がらせましょう。」
不意に春雷の顔から感情の色が消え、涼しげな瞳が真正面から劉司徒に向けられる。劉司徒は改まって頭を下げた。
(――こやつ、寧江を完全に手中に収めるつもりだな。)
春嵐の死後、その側室は全員後宮から出た。劉司徒の娘だけが残ったのは、正妃という立場によるものではなく、寧江の母親という立場だからである。
寧江が春雷の養女になるなら、その母親は春雷の妻の役割になるのが道理だ。とはいえ春雷はまだ皇后を立てていないので、実質的には母親不在ということにはなろうが。
如何に生みの母であっても、劉司徒の娘は浮いた存在になる。後宮にいる資格を失うことになるのだ。
故に極めて不本意だが、話の流れからいって劉司徒は娘を引き取ると申し出るしかない。
元皇太子妃とあっては再婚も難儀である。引き取ったところで使い道がない。そんな娘を手元に置くのは、劉司徒にとって無駄な行為であった。しかし後宮に置いたままにするのは不可能である以上、止むを得ない。
劉司徒の言葉に対し、春雷は鷹揚に頷いて椅子の背凭れに身を預ける。そして双眸を細めた。それは微笑みのようでもあり、劉司徒を鋭く見据えているようでもあった。
「最終的にはそうなろう。……だが彼女は病を得ているようだから、まずは後宮で療養させてはいかがかな。寧江にも別れを惜しむ時間を与えてやりたいと思う。」
「病気ですと?」
娘が病気だとは聞いたことがない。劉司徒が細過ぎる目を僅かに瞠ると、春雷は意外そうに数度瞬きを繰り返す。
「おや、司徒は寧江のことは気に掛けてくれていたのに、その母親のことまでは気を回していなかったのか?――朕も詳しくはわからぬのだが、随分と重い病のようだ。そうでなくば、寧江にあのような恐ろしい真似をするとは考えられぬ。」
「恐ろしい真似……」
劉司徒は春雷の言葉を復唱する。近頃は昭光にばかりかまけており、前皇太子妃であった実の娘の状況は捨て置いてしまっていたため状況を把握しきれていない。ただ、春雷の物言いから察するに良からぬことが起こっているということだけは理解した。
「ああ、そうだ。寧江は先帝の孫、兄上の嫡女――取り分け尊い血筋の皇族にあたる。その貴き皇家の者に対し、どうやら狼藉を働いているらしい。実の母親とはいえ臣下の娘に過ぎぬ分際で、な。」
春雷の口調は変わらず穏やかで、紡がれる言葉との温度差が凄まじい。
劉司徒は話の核心を理解した。これは警告である。そして宣戦布告であった。
「なんと、それが事実であれば速やかに相応の処分を下されなくてはなりませぬ。愚かな娘を前皇太子殿下にお納めしたこと、臣の罪は万死に値しましょう。臣が親として至らなんだこと、誠に恥じ入るばかりにございます。」
芝居がかった大仰さで、劉司徒はその場にひれ伏す。まだ事件になっていない以上、娘の愚かな所業が原因で自身に死罪を宣告されることなどあるまいが、だからこそ自ら大罪を認め自責の念に駆られている謙虚さを演出するのが手っ取り早い。それが本心でないことなど誰もが簡単に見抜けるだろうが、恐縮し罪を悔いている様子の臣下に対し無慈悲な処罰を申し渡すのは君主としてもあるまじき対応となる。
劉司徒とて百戦錬磨の重鎮だ。経験値では春雷を圧倒的に上回る。春雷がずっと隠してきた鋭い爪にそう容易く引っ掛かれてやるほど愚かではない。
いかに腸が煮えくり返っていようとも、さも驚いた様子で平身低頭することくらい何ということはない。そんな小芝居を演じる頭の片隅で、打つべき次の一手を冷静に模索する。
頭を下げる際にちらりと見えた春雷の表情、即ち感情が伴わない微笑に、劉司徒は先帝の面影を見た。自分と共に政権を奪取するまで、先帝が在りし日の王司徒たちに向けていた顔だ。
(まさかこんなによく似た父子だったとは――……)
だが先帝も結局は劉司徒の掌の上で転がった。この新帝とて如何程のことがあろう。
己の顔が春雷から見えないであろう体勢を良いことに、劉司徒はにたりと口角を持ち上げた。
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一先ず春雷に解放されたた劉司徒は、退室したところで控えていた志文と鉢合わせた。
「おお、志文。久しいな。元気でやっているようで何よりだ。」
「お久しゅうございます。劉司徒様もお変わりなく。」
劉司徒が話しかけると、志文は恭しい礼を返す。
志文は范淑妃の弟で、彼女の後宮入りに伴い先帝が側仕えとして取り立てた男である。最初は身の回りの雑用をさせていたのだが、そこそこ腕が立ったので事実上の護衛となった。先帝が気に入ってほぼいつも傍に置いていたので、劉司徒と志文は当然ながら頻繁に顔を合わせていた関係だ。
元々奴隷だった志文には何の後ろ盾もない。先帝が官職を与えようとしたが固辞したため、これといった身分もない。故に先帝と范淑妃の死に伴い失脚するかと思いきや、春雷が自身の護衛として取り立てたので誰もが驚いたものだった。
「志文よ、先帝が可愛がられていたお前は私にとっても可愛い存在だ。范淑妃もお亡くなりになり心許ないであろう。何かあればいつでも遠慮なく私を頼るようにな。」
「勿体なきお言葉にございます。劉司徒様には姉も大層良くしていただき、心より感謝しております。」
丁寧な物腰とは裏腹に志文は相変わらずの無表情であったが、劉司徒は満足げに頷く。志文とはこういう男なのだから、いちいち目くじらを立ててなどいられない。それより今の劉司徒にとっては、春雷の傍近く仕える人物との繋がりの維持こそ重要だった。
実は范淑妃の生前、劉司徒は密かに彼女を支援していた。春嵐に娘を嫁がせてはいたものの、先帝の范淑妃に対する異常なほどの入れ込み具合を目の当たりにしていれば、彼女が皇子を産んだなら皇太子の地位はその子に移るに違いないと思わずにはいられなかったものだ。
そこで劉司徒は内々に范淑妃の後見人を買って出た。いわば春嵐が皇太子の立場から転落した場合に備えた保険である。范淑妃も有力人物が味方となることに異存はなく、互いの利害関係は一致した。この秘密協定を知っていたのは、先帝と范姉弟、そして自分だけだ。無位無官に過ぎない志文と実質的な最高権力者たる劉司徒の間に結びつきがあることなど、誰も想像すらしていないだろう。
劉司徒は懐から取り出した小さな包みを、そっと志文の手に押し付ける。いついかなる時でも必要になったらすぐばらまけるように携帯している金目の物だ。
まるでそれを心得ているかのように、志文の掌はすんなりとそれを受け止めて袂に収められた。そして、いつもは伏せられがちな瞳が一瞬だけ劉司徒に向けられる。万事承知しているとでもいうかのようなその眼差しは、対峙する者を圧倒せんばかりの力強さを有していた范淑妃のそれによく似ていた。
(――これもまた、雰囲気こそ正反対の割にそっくりな姉弟よ。)
劉司徒は相好を崩すと期待の意を込めて志文の肩を軽く叩き、そこから立ち去る。
志文は睫毛に影を落とし、肉厚の背中がゆさゆさ揺れながら小さくなっていくのを見送ったのだった。




