変わらぬ息衝き
徴夏は寧江の様子を探るべく皇太子妃の宮を訪れていた。
否、“訪れていた“という表現は語弊があるだろう。“侵入していた”という方が適切である。正門を通ってもいなければ、取り次ぎを介してもおらず、宮の庭に巡らされた垣根の隙間を潜って無断で忍び込んでいるのだから。
この侵入路は、嘗て春雷と共に寧江の遊び相手を務めていた頃に彼女から教わったものあった。遊びに夢中で帰りが遅くなった時、母親や侍女からの叱責を回避せんとした寧江が盛んに使っていた秘密の抜け道だ。
「特別に教えてあげるわ、叔父様と徴夏にだけね。お父様にも内緒なんだから!」
悪戯っぽく人差し指を口の前に立てて、年相応のあどけない表情を浮かべながらそう宣った寧江を思い出す。あの無邪気な面影への哀惜の念に心が痛んだ。
が、それと同時に、満面の笑みで彼女が続けて言い放った「だから殺すわよ、お母様にばらしたら。」という台詞を思い起こして、
(……やっぱあいつ、本質は変わってなくね?)
と真顔で考えてしまい、昔日の少女がまだ確かに寧江のなかに息づいているのだろう事実に心底安堵を覚えた。
抜け穴は些か窮屈ではあったが、木々の根元を強引に押し広げれば大の男でもどうにか通ることができたのは幸いだった。
通行の代償としてもれなくついてきた土埃や枯れ葉の装飾は徴夏の美意識にそぐわないため、眉を寄せつつ服や髪を手で払う。舞い上がる土煙に擽られた鼻からくしゃみが漏れそうになったのを、慌てて指先で強く摘まんで阻止をした。つーんという耳鳴りに似た籠った音が収まるのを待ってから、徴夏は屈んだ姿勢で改めて辺りを見渡す。
ほんの数ヶ月前までは“未来の皇后”と持て囃されていたこの宮の主は、今や過去の人として扱われていた。
それは全く手入れがされていないせいで躍り咲いた雑草が枯れ、地面を覆っていることからも明らかだ。枯草はいずれ土に還って上質な腐葉土になり、また来春には緑鮮やかな雑草を豊富に育んでくれることだろう。庭園が単なる野っぱらになる未来も遠くはあるまい。
底まで見えるほどに澄んでいた池はどろりとした緑色に濁り、悠然と舞い泳ぎ艶やかな美の競演で皆の目を楽しませていた鑑賞魚は果たしてどこに行ってしまったものか。
池の畔に佇んでいた休憩用の東屋も彼方此方に蜘蛛の巣が張り、引っ掛かった虫が力なく蠢き、もしくはもう命尽き果てて白いハンモックに揺られるがままになっている。
故人であるとはいえ、春嵐は紛うことなく皇太子であった。その正妃と娘が住まう場所がこれほど荒れ果てていたとは、徴夏にも予想外の有様で頭を抱える。
春雷は寧江を気に掛けていたこともあって、当初はルェイホマの配置以外にも宮女や宦官に命じてなにくれなとなくこの宮の世話をしようとした。しかし春雷が春嵐を暗殺したと決めてかかっているらしい皇太子妃にほとんど拒絶されてしまったうえ、彼女を見切った劉司徒の顔色を窺っているのか宮女や宦官も積極的に動くことはなかったようで、春雷や徴夏はこの宮の様子すら把握できない状況に陥っていたのだ。
それでも、まさかここまで劣悪な環境になってはいないだろうと無意識に高を括っていた。今こうして現実を目の前にしてそれに気付かされ、猛省と共に胸糞の悪い心地を覚える。
(あいつは子どもながらに、この凋落に耐えてたってことか。よくやるぜ、ったく。)
かくなるうえは一刻も早く寧江の状況を確認しなくてはならない。そう考えた徴夏は、寧江の私室まで忍び寄る。窓からそっと中を覗くと、がらんどうとした室内が見てとれた。侍女の一人もいないようだ。
今日、寧江が外に出た形跡はないことを予め調べてからここに来た。
徴夏が使用した隠れ道に、最近使った痕跡はなかった。少なくともあそこから外には出ていないはずだ。自身が知らない他の秘密の通路の存在も否定はできないが、一先ず寧江が敷地内にいることを想定して探してみることにする。
少女はまたひとりぼっちで、宮の片隅で膝を抱えているのかもしれない。もし母親に虐げられているのなら、物陰に身を潜めているかもしれない。
様々な可能性を念頭において、徴夏は身を低くして植え込みに添って進んだり、建物の影を覗き込んだりしながら寧江の姿を探したが、なかなか見つからない。
それどころか、寧江だけでなく他の人間も見当たらない。身を潜める必要性に対する疑問が生じるほどだ。普通なら侍女の一人や二人は見かけていてもおかしくはないはずだが、仕事もせずさぼっているのだろうか。
ふと、遠くから甲高い女性の声が聞こえた。
徴夏は反射的に声が上がった方を見遣る。その方角にあるのは皇太子妃の私室になっている棟だ。
周囲の様子に気を配りながら、徴夏は移動を再開する。
聞こえて来る声が徐々に大きくなる。声の主は一人だけのようだ。一方的に相手を責め詰るような、激しい語気であることは感じ取れるが、内容まではしかと聞き取れない。
「まーたやってるわよ。本当に飽きないわよねえ。」
不意に異なる方向から別の声が聞こえてきて、徴夏は足を止めた。建物の陰からそちらを窺い見ると、侍女らしき女が数人、輪になっている。互いに目配せをしてくすくすと笑い合い口許を袖で隠してお喋りに興じているらしい。
「気が触れてる主人に仕えるなんて、もううんざりだわ。公主様もあんな母親、無視すればいいのにね。」
「本当、本当。でもそろそろやばくない?公主様が死んじゃったら……。」
「もうしそうなっても殺したのはご主人様なんだし、あたしたちに関係無いわよ。」
「そうそう!公主様が死んでご主人様が罪人になったら、ここも解散でしょ?後宮から出られるかも!」
「あ、それいい!」
あははは、と楽しげな笑い声が響く。その明るい雰囲気は、残酷で身勝手極まりない会話の内容にも、近くで金切り声が上がっている現状にも不釣り合いで、徴夏は内心で苛立ちを募らせていた。この宮に忍び込んでからというもの、胃の腑がむかむかすることばかりだ。
だが侍女たちの会話から、寧江が母親から惨い扱いを受けているという仮説が事実であろう確信を得た。そして今まさにその真っ最中であるというのなら、すぐに現場に向かわねばならない。
徴夏は侍女たちに見付からないようその場を後にすると、皇太子妃の私室まで一気に駆け付けた。周囲に誰もいないことを確認し、窓に近寄ってそっと中を覗き込む。
「お前が死ねば良かったのに!」
「必要なのは皇子だったのに!」
「役立たず!」
窓も扉も閉まっているというのに、甲高く細い声が外まではっきり聞こえて来る。
ぼさぼさの長い髪を振り乱した女が死を待つ病人のように痩せ細った腕を伸ばし、幼い少女の首をしっかりと両手で掴んでいた。ちょっと衝撃を与えれば容易く折れてしまいそうな腕なのに、華奢な首に指先が沈み込みめりめりと擬音が聞こえて来るかのような力強さを滲ませている。その光景自体が異常だった。
すぐに止めに入ろうか。だがそうすれば、自分の侵入が露見してしまう。
物音でも立てて女の気を逸らそうか。だが侍女も駆け付けてしまったら、やはり自身が見つかりかねない。
いっそ職務権限を盾に正面から乗り込むこともできる。だが劉司徒を不要に刺激してしまいかねない。
徴夏は一瞬で頭の中に様々な対応を巡らせる。飽くまで冷静に最善を模索し考えうる案を即座に整理していく一方、最悪の事態を招くことだけは阻止せねばならないと時宜を見計らうため残酷な出来事が正に進行中の室内から目を逸らすことはない。
そこで、ふと徴夏は気付いた。寧江が一切の抵抗をしていないことに。
(あいつ、死にたいのか?それとも、殺されてやっても良いって肚か?……いや、違う。何か引っかかる。)
徴夏は敢えてぎりぎりまで手を出さないことにし、見守りに徹した。
母親からの罵倒は続き、寧江の瞳は最早どこを見ているのかすら怪しく濁る。そろそろ限界か――徴夏が腰を上げようとすると、
「いやあああ!」
絶叫と共に寧江の体は床に放り出された。ごんっと鈍い音が響く。もしもこれも含めて日常だったなら、寧江の体には首元だけでなく其処彼処に痣があるのだろう。
「行きなさい!行って!お願いだから行って、寧江……」
すすり泣きに変わる声を受けて、小さな体はよろよろと立ち上がり部屋から出ていく。徴夏はその背中を見つめていた。
「……春嵐様、寧江、ごめんなさい……死にたい……」
両手で顔を覆い寝台に伏せる女。その泣き声の合間に混ざった懺悔はとても小さな呟きに過ぎないはずなのに、徴夏の耳にいやにしっかりと残った。
苦々しく眉間に皺を刻みながら、徴夏は再び身を低くして移動を開始する。
寧江が母親に首を絞められていたことはこれで明白になった。しかし、今まで殺されずにいた。幾ら母親が錯乱しているとはいえ、今日のように最後は解放されていたのに違いない。
寧江は母親を慕っていた。弟が生まれ母親の関心が薄れてからも、ずっとその愛情を渇望していた。
もしかすると寧江は、殺されかけても最後は我に返る母親が逃がしてくれるその瞬間に、母親の愛情を見出しているのかもしれない。抵抗して解放されたとしても、そこに母親の愛などない。飽くまで自発的に解放してもらえることで、母親の愛を確認している。だから無抵抗なのだ。
いつか本当に殺されてしまうなら、それは母親の愛が完全に消えた瞬間だ。父親を喪った寧江にとって、母親の愛も感じられなくなるのなら、もう生きる意味はないのかもしれない。
それは母親への歪んだ依存である。そして同時に、愛情に飢えた子どもの声なき叫びだった。
とぼとぼと自室に向かい歩いて行く寧江の後ろ姿は小さく、とても頼りない。
愛情を渇望し、依存し、そしてそんな自分に疲れ果てながらも愚かな真似を止められない――そんな背中を追いかけているうち、徴夏はやりきれなくなって背後から少女の襟元を掴み引っ張った。
「――っ!?」
ちょうど寧江が自室に入る瞬間だったのを良いことに、己の体も室内に滑り込ませて幼い少女を抱きすくめる。声を上げられないよう、片手で口を塞ぐのも忘れない。
最初こそ驚愕していた寧江だったが、背後にいるのが徴夏だと理解するや若干警戒を解いたようだった。しかし先日池に突き落とされかねなかったことを思い出してか、体の強張りまでは解けていない。
「……殺しに来たの?わたしを。」
「はあ?突然何だよ?」
徴夏の手を払い除けると、寧江は睨みつけるような眼差しを向けてくる。
唐突過ぎる問い掛けに困惑しながらも、徴夏は先日の遣り取りを思い出す。春雷を殺そうとするなら寧江を殺す、という趣旨の発言はした。どうやらそれを拡大解釈しているようで、春雷が大切にしている霞琳を襲ったから寧江を殺しに来たとでも考えているのだろう。
「いや、怪我をしたのは霞琳だからな。そのせいで俺がちびすけをどうこうする気もない。」
霞琳は相変わらず、寧江とは遊んだだけであり襲われてはいないと言い張っている。徴夏からすると馬鹿馬鹿し過ぎる主張だが、それが霞琳らしいといえばらしいので、最初こそ霞琳を傷つけた寧江に腹を立てたはしたものの段々とどうでもよくなってしまった。
しかしそんなことを知る由もない寧江には、春雷以外の人間に対する徴夏の無関心ぶりが表れた発言だと解釈されたようだった。
「……あなたって叔父様以外はどうでもいいのね、本当に……。」
「そうでもないぜ?春雷が霞琳を大切にしてるからな。俺もそれなりに気に掛けてる。」
寧江はそれを聞くや否や、鼻で嗤った。
「……そう。ならやっぱり叔父様にとってわたしは大切じゃないのね、あなたにとってわたしは殺せる程度の人間だってことは。」
「それは違うな。春雷はちびすけを大切にしたいのに、ちびすけが全拒否してんだろ?あいつの厚意を無碍にする奴には良い気がしない。
それにさっきみたいに殺されかけても抵抗すらしない、そんな風に捨て鉢になって自分を大切にしない奴を態々気に掛けてやるほど、俺は暇じゃあないんでね。」
寧江は沈黙した。
複雑な親子関係に毒されてしまったようで、この少女はどうにも臍曲がりだ。求めても与えられない状況を恐れてか、愛情が欲しいと素直に口に出せない。
それでいて春雷がそうするように無償で注がれる愛情は拒絶する。当たり前のように享受していた愛情が消えてしまう経験をしたからか、本心では欲しいくせに失う日を恐れて受け取ることができない。
そんな風に拗らせた結果、愛情を注いでくれない人の傍にいたがってしまうのだろう。何ももらえない状況では何かを喪う恐怖がないぶん、安心できる。何かもらえると期待していないぶん、時折垣間見える情愛が特別に感じられる。寧江が春雷ではなく母親を選んだのは、結局そういうことなのではなかろうか。
そして今、寧江に興味がないと言い放っているも同然の徴夏の腕の中から離れないのも、きっとそういうことなのだ。
だから徴夏は、決して寧江に優しさを与えない。それが今の寧江と会話を試みるための最善手なのだ。
そして態と寧江の感情を逆撫でし、傷つけかねない言葉を放つ。そう、彼女とは正反対に、仲睦まじく愛情深い両親の元で爛漫に育った自身だからこその驕りともいえる正論だ。
「――なあ、ちびすけ。子どもは泣いていいんだぜ。」
「……?」
「喚いてもいい。騒いでもいい。勿論、笑ってもいい。感情のままに何かをしていい。どうせ大人になったら、感情のままに何かをするのなんて許されなくなる。なら子どものうちは、子どもだから許されるその特権を振り回して好き勝手してろよ。」
案の定、寧江の表情が僅かに歪む。少女の環境では許されない振る舞いを促す言葉は、さぞかし残忍に聞こえたに違いない。だがその環境を選択したのは紛れもない寧江自身なのだ。そして寧江自身、それを理解している。
「……後悔するわよ、そんなことを言って。良いの?わたしが好き勝手に叔父様を殺しに行っても。」
「そうそう、それな。」
くつくつと徴夏が忍び笑いを漏らす。そして、何がおかしいのだと訝しげな眼差しを送ってくる寧江の額を人差し指でつんと突いた。
「っ、……何するの。」
「殺す殺すって、昔から口癖だったよなあ。本当は殺す気なんかないくせに。」
「……!」
「俺がこの前本気の殺意ってもんを見せてやったってのに、ちっとも変わらねえなと思って。」
「……るさい。」
ぐず、と鼻を啜る音がする。俯いてしまった寧江の表情は窺えないが、耳まで赤くなっているようだった。
「そうそう、もう一つ追加しとく。――子どもは大人に助けを求めたっていいんだぜ。ただ、どんな大人を選ぶかはちびすけ次第だけどな。」
くしゃりと頭を一撫ですると、まだ腕の中に大人しく収まっている寧江の体を置いて立ち上がる。びくりと小さな肩が跳ねたのが見えたが、敢えての無視を決め込み部屋を立ち去る。もうこれ以上の長居は無用だった。後は寧江自身が動かなくては意味がない。
「……徴夏……。」
扉を閉める瞬間、甘えのような、縋るような、切なる細い声が聞こえた気がした。
子どもの声はそれでいい、と徴夏は思った。




