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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
54/93

立場と職務と男と女と

「霞琳殿!」

「陛下?どうされたのですか、そんなに慌てて。」


 息せき切って駆けつけた春雷が女官長の執務室の扉を勢い良く開くと、いつも通り文机に向かって腰を下ろしながら書簡を手にした霞琳がいた。驚いたようにきょとんとした表情を浮かべる様子は普段と変わりがなさすぎて、先程受けた報告は聞き間違いだったのかと自分を疑いたくなる。

 上手い答えも浮かばずに黙ったまま近づいていくと、霞琳は腰を上げて深々と一礼した後、何やら思い出したように春雷に向き直った。


「――陛下、最近妃嬪の皆様をお訪ねになっていらっしゃいますか?」

「……行っていないが。」

「いつからですか?」

「慣習に則り順番に通った後は、一度も。」

「ええ!?」


 霞琳が目を真ん丸にする。そんなに驚かれるようなことを言っただろうかと、春雷は怪訝さを隠せず眉を下げた。

 春雷は元々女性にさして興味がない。義務をきちんと果たした以上、当分は足を運ばずとも問題ないと認識していたのだが、霞琳の考えは異なるようだ。


「……夜を自室で過ごすことに何か問題が?嬌麗が産む子が男児であれば皇太子に立てる。女児であればまた子を成す努力が必要になろうが、今はその時ではないだろう。」

「お一人の方がゆっくりお休みできるでしょうし、御子を成すべき時期については仰せの通りですから、無理に夜の訪れをお願いするつもりはございません。

 ――で・す・が!陛下は私のところには毎日のようにいらしてくださっていますよね。それならば同じ後宮の敷地内ですし、せめてその前後にお顔を見せに行かれてはいかがでしょうか。」

「霞琳殿に会いに来るのは仕事だろう。妃嬪の宮に行くのとは訳が違う。」

「妃嬪の相手をなさるのも陛下のお務めにございましょう。それに妃嬪の職務は陛下のお相手をなさることです。現状ではお互いに仕事をしていないも同然ではありませんか。」


 霞琳はそこで口を閉ざして溜息を吐き、ずいっと書簡を差し出してくる。

 確かに妃嬪といえども身分は女官である。霞琳の理屈は理解できないでもない。しかし春雷にとっての妃嬪は、政策の一環として娶る存在であり、血脈を繋ぐべく子を儲ける役割を担う女性であった。

 とはいえここで認識の違いを議論しても仕方がないので、なんとなく責められているような居心地の悪さを軽減させるように、春雷は素直に受け取った書簡に視線を落とす。途端、ひくりと口許が歪みそうになるのを抑えて、観念したように頷きを見せた。


「……わかった。この後、嬌麗の宮に立ち寄ろう。」

「ご英断に感謝申し上げます。」


 にっこりと笑う霞琳に書簡を返しながら、そこにもう一度ちらりと視線を流す。


“鄧昭儀様が、陛下が全然来てくださらないと喚いてまた暴れています。

 この前霞琳様が宥めてくださった日は大人しくされていましたが、翌日にはもう荒れていました。

 八つ当たりしていろんなものを投げるので、後片付けが大変です。

 助けてください、霞琳様。”


 たどたどしくも一画一画丁寧に、さぞや熱心に書いたのだろう筆跡には見覚えがあった――白維だ。

 彼女が嬌麗のヒステリーを訴えて来る度、霞琳が対応していたのだろう。その事実を初めて知り、妃嬪を放置していた己の尻拭い同然の仕事を増やしてしまっていたことに対する申し訳ない気持ちと、よく嬌麗に愛想を尽かさず相手をしてくれていたものだと感謝するやら感心するやら、複雑な気持ちが交錯する。


「……そろそろお腹も大きくなっていらっしゃいました。冬は厚着になりますから、当分は隠せるかとは存じますが、いずれはご懐妊が知れ渡ることでしょう。」

「そうだな。この前のような嫌がらせの類なら兎も角、その程度では済まぬようなことが起こらないとも限らぬ。」

「はい。憲樹さんや季望ではその辺りの機微まで探るのは困難でしょうから、恐れながら、陛下御自ら動いていただくほかないかと。」

「……私に何を期待している?」

「他の御二方の元へも足をお運びください、とお願いしているのです。陛下なら御二方のすぐ傍で様子を窺うことも可能でございましょう?

 また、陛下の足が遠のいていることが李太師や劉司徒の耳に入っては、劉昭容様や曹昭媛様を蔑ろにされていると曲解されかねません。嬌麗様への敵愾心を煽りかねない状況を作るのは避けるべきです。

 それに、お二人とて一人の年頃の女性です……お仕えすべき方に相手にもされず、後宮に閉じ込められただけの寂しい日々を過ごしてほしくはないのです。これは私の我儘なのですけれど。」


 真摯な表情が最後ばかりは委縮に変じ、ごにょごにょと言葉を濁した物言いで霞琳が俯く。

 理路整然としていた途中までは、霞琳の訴えが春雷の腹にすっと落ちてきていた。しかし霞琳が言うところの“我儘”にあたるくだりについては、飲み込もうにも胸に閊えるものがある。

 

 春雷は卑近な例を脳裏に浮かべてみる。父帝と母后は事情が事情ゆえに大層不仲で、二人が会話どころか顔を合わせていた記憶すら、自分にはない。

 夫も子も切り捨てて皇后としての務めを放棄した皇太后のことを、冷酷にして逞しい精神の持ち主であると考えている。そんな母にも、後宮に縛り付けられた自身の人生を虚しく感じる瞬間があったのだろうか。

 父はといえば政治的な都合で多数の妃嬪を迎えはしたが、実際には世間で噂されていたような好色家ではなく、かつては後宮で過ごす時間は全くといっていいほどなかった。やがて范淑妃が現れ、父は突如として溺れたように昼夜を問わず寵姫のもとに入り浸るようになった。高い身分を与えられ相応に飾り立てられた状態で実を成せぬ花と化していただけの妃嬪たちは、人が変わったように一人の女性に入れ込むようになった父の豹変ぶりを目の当たりにして一体どのような気持ちでいたのだろう。

 范淑妃より後に後宮入りした唯一の妃嬪――月貴妃に対しても、父は慣例の通いを終えた後は他の妃嬪同様に見向きもしなかった。だが死の直前の父は気が触れており、世辞にも魅力的とは言い難かったから、月貴妃が彼の訪れを望んでいたとは思い難い。だから春雷は率直な疑問として、若干の申し訳なさを覚えながら問を投げ掛けた。


「では霞琳殿は、父上が会いに行かれていたら月貴妃も喜んだと思うのか?」

「……っ。」


 霞琳の表情が歪む。今なお月貴妃に純粋な恋心を捧げ続けている霞琳にとって残酷な質問であることは承知しており、これは予想通りの反応ではあるものの、いざ実際に目にするとやはり胸が痛む。意地が悪いと嫌われてしまうだろうか。

 しかし霞琳は春雷を非難するでもなく、少し考え込んでから思いの外しっかりとした声色で考えを述べた。


「……きっと、お喜びになったと思います。――もしあの痛ましい出来事が起こらなければ、今頃月貴妃様は変わらずお健やかでいらっしゃり、私はもう張家に戻っている予定でした。月貴妃様のご性格ならそれなりに楽しんでお過ごしになることでしょうが、もし先帝が月貴妃様を気遣ってお話し相手にでもなってくださるのであれば、さぞかし嬉しく思われて、後宮での生活をより充実したものになさったことでしょう。いつも前向きで、人の厚意を大切に受け止める御方でしたから。」


 霞琳は寂しげに微笑む。春雷はその表情に偽りの色を見いだせず、霞琳が言うのなら月貴妃とはそういう女性だったのだろうと納得するしかない。

 成程、少女と称して差し支えない年齢の女性が夫となった男から無視されたまま、死ぬまで後宮を出ることが叶わないのなら、精神的に落ち込んでしまうのも頷ける。うら若き女性にとってそのような日々が数十年も続くとしたら人生を搾取されるだけに等しいのかもしれなかった。

 そしてそれは今まさに己が三人の妃嬪にも意図せず味わわせようとしていたものなのだと自覚して、春雷は猛省した。これまで妃嬪の哀愁についてなど考えたこともなかったが、改めて霞琳に気づかされることの多さに内心で苦笑する。


「……妃嬪を蔑ろにしているつもりはなかったが、そなたの言も一理ある。心に留めておこう。」

「我儘をお聞き届けくださり、ありがとうございます。」

「わかったから、そろそろ私がここを訪ねてきた本題に入ってもいいだろうか。」

「……はい。どうぞ」


 満足そうに笑っていた霞琳の表情が途端に気まずそうなものになる。用件の察しはついているに違いない。

 これまでの話が霞琳の本心であることは事実だろうが、春雷の用事を忘れさせようという目論みもあってのことかもしれない。そういえばいつになく饒舌にずけずけとものを言っていたのだから。


「――腕を見せなさい。」

「……はい。」


 渋々といった態度ではあるが、霞琳は左腕を差し出して袖を捲った。

 手当てがなされ覆い隠されている傷の程度は判然としないが、止血のためか間に布地を挟んでいるようで、かなり厚めに包帯が巻かれている。明らかに軽傷ではなさそうだ。


「傷はちょっと深かったようですが、骨や筋肉は異常がないそうです。おとなしくしてればいずれ塞がると、炎益様が言っていました。」

「そうか。どうか大事にしてほしい。……寧江がすまなかった、霞琳殿。」

「いえ、陛下からそのようなお言葉を頂戴するなんて畏れ多うございます。……それに、私のことよりも寧江様が心配です。」

「気になることがあるのか?」

「なにやら思い詰めているというか、追い詰められているというか……。あの、寧江様の周囲にはどのような方々がいらっしゃるのでしょう。お母君や侍女のほか、劉司徒も会いに行かれることもあるのでしょうか?」


 霞琳はさっさと袖を直して腕を隠すと眉を下げ、慎重に言葉を選びながら問いかけた。その真意を図りかねてはいるものの、一先ず春雷は疑問に対する答えを返す。


「寧江の傍にいるのは、義姉上――寧江の母親と劉家からついてきている侍女だけだ。かの宮を担当する宦官や宮女もいるにはいるが、基本的には義姉上の指示で動くから寧江との接点はほとんどないだろう。……劉司徒に至っては、今は全く顔を合わせていないと思うが。」

「え?寧江様のお祖父様なのに、ですか?」

「兄上が亡くなり、寧江の女帝擁立も叶わなかった。もう劉司徒にとって義姉上や寧江は利用価値がないのだろう。……寧江が追い詰められているとしたら、劉司徒に切り捨てられた義姉上の影響があるのかもしれない。兄上がご存命の頃から、義姉上は皇子を産むようにと劉司徒から精神的な圧力を掛けられていたようで、寧江にもその影響が多少なりあったはずだ。」


 そこで春雷は一度言葉を切り、思案を巡らせるように黒曜の双眸を伏せる。そして霞琳になら話しても差し支えないだろうと結論付けると、静かに説明を続けた。


 亡き春嵐は非常に温厚な性格で、劉司徒の専横を良しとはしないまでも対立は回避するよう動いていた。故に、政治的な都合で複数の妻妾を娶ってはいたが、正妃である劉司徒の娘を最も尊重し足繫く通っていた。結果、彼女が最初に春嵐の子を産む――寧江である。

 その数年後、やはりまた劉司徒の娘が男児を産んだ。その頃から寧江は母親や劉司徒からあからさまに軽視されがちになり、それを察した春嵐は勿論、彼の頼みにより春雷や徴夏が寧江を気に掛け遊び相手を務めるようになったのだ。


 劉司徒の娘が嫡男を出産したことにより、春嵐も彼女や劉司徒の顔を立てることができ、肩の荷が下りたようだった。そして側室の宮にも公平に通っているうちに幾人か子もできた。が、夭折が続いた。乳幼児の死亡率は高いため特段怪しむべきものではなく自然死として処理されたが、相次ぐ我が子の死亡を受けて春嵐の中では疑念が芽生えていたようであった。

 やがて寧江の同母弟が幼くして病死すると、春嵐の元には正妃から夜の訪れの求めが頻りに届くようになる。劉司徒から責め立てられて焦っているのだろうことは明らかだった。春嵐はそんな彼女に対する同情がなかったわけではないが、寧江への冷遇ぶりを快く思っていなかったことに加え、ある事件によって正妃のみならず全ての妻妾の宮に通うこと自体を止めてしまったのだ。


 その事件とは、劉司徒が娘所生の男児の死は呪詛によるものだと告発して、春嵐の子を身籠っていた女性を犯人として自害に追いやったものである。

 彼女は劉司徒派に属さない高官の娘だったため、もし男児が生まれたら脅威になると考えた劉司徒が先手を打ったのだろう。その女性に依頼されて呪詛を行ったという胡散臭い祈祷師が捕まり、怪しげなまじない道具も出てきたために、春嵐は側室と我が子の命を救うことができなかった。彼女の父親である高官やその妻子も連座して、無実を主張しながらも処断された。

 流石、切り札の男児を喪おうともただでは起きない劉司徒である。寧ろその不幸すらも利用して政敵を葬り去ったのだ。


 しかしそのことが引き金となり春嵐が女性との関係を全て断ってしまったのは、劉司徒の誤算であったろう。

 そもそも春嵐は劉司徒の娘を寵愛していたわけではない。彼はその穏やかで優しい性格故に、全ての妻妾に情を持って接していた。ただ、権力者の娘であるから正妃をとりわけ丁重に扱い、彼女が男児を産めば穏便に事が進むと考えていただけである。

 狙い通り彼女が嫡男を産みはしたものの、結果的には他の女性や己の子を襲う悲劇を防げなかった。またいつ似たような事態が発生するともしれぬ状況を憂えた春嵐は新たに子を成すことなく世を去り、劉司徒は男児を産めなかった娘に見切りをつけたらしく宮を訪ねることはなくなったのだ。


 このような仄暗い背景など何も知らずに春雷や徴夏と遊び回っていた寧江も、春嵐の死後、父を殺したのは春雷だと詰るようになり全く顔を合わせなくなってしまった。そのため、寧江が今どのような環境にあるのか春雷にはわからない。

 だが状況からいって、寧江に春雷が春嵐を殺した犯人だと吹き込めるのは母親くらいしかいない。寧江の態度が一変した原因は、夫を喪い父に見捨てられ、周囲の者からは掌を返され、精神的に追い詰められているとしてもおかしくはない母親にあるとみて間違いないだろう。


「そんなことが……なら、あの痣は……。」

「痣?」


 また一つ明らかになった後宮の闇に絶句していた霞琳だったが、暫くして口許に手を添え何やら考え込みながら独り言を漏らす。

 しかし聞き捨てならない単語を怪訝そうに復唱した春雷の声を受けて、もごもごと言いにくそうに口を開いた。


「あ、いえ、その……あの、寧江様の首元に、痣はおありでしたか?」

「そんなものはなかったはずだが。」

「あの、見間違いかもしれないのですが……寧江様を地面に倒した時に衣類が乱れてしまって、首元が露わになったのです。肌の色がちょっと違うように見えたので、痣か何かかと思ったのですが……。」


 そこで霞琳は押し黙る。日常生活を送っていて首に痣ができる状況は考えづらい。寧江の身に異常なことが起こっている可能性が想定されるが、それは憶測で口にすることが躊躇われる内容である。


「……――その件、ちょっと俺に預けてもらえるか?ちょっと気になることがある。」

「わかりました。……って、徴夏様、いつの間に!?」


 口を挟んだ徴夏に反射的に返事をした後で、霞琳は彼が入室していたことに今更気付いたらしく大きく目を瞠る。


「いつの間にも何も最初からいたけどな、俺。春雷にあんたの怪我を知らせて、そのまま一緒に来たからな。部屋に入るのは春雷の後だったけど。」

「えええええ!嘘!?」

「嘘じゃねえっての。二人で盛り上がりそうだったから気を利かせて黙っててやったのに、他の女の話やら春嵐の話やら……全然男と女の会話にならねえからやきもきしたぜ。」

「いや、男と女ではなく皇帝と女官長の話なのだが。」

「春雷は黙ってろ!……そんなんだから進展しねえんだよ、お前ら……。」


 春雷と霞琳は不思議そうに首を捻りながら、盛大な溜息を吐いて頭を掻きむしる徴夏を見る。

 意思疎通がほとんど成立していない三人の遣り取りだが、寧江に関する調査を徴夏に託すことだけは唯一どうにか合意に至らしめることができたのであった。

 


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