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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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抱き締めた後悔

※流血表現あり。

 あの強烈な印象を残した邂逅以来、霞琳は寧江のことを気にかけていた。


 春嵐の死は寧江に相当な衝撃を与えたのだろう。たかだか五歳の少女には見えないほどに落ち着き払い、不穏な言葉を呪詛の如く無表情で吐き捨てる彼女の姿は、とても奇異なものだった。

 あれは寧江の意思ではなく誰かに操られているのだ、とでも言われたなら腹の底から納得できてしまう。それほどに異様さであった。


 あの後、霞琳は寧江に向けてルェイホマを遣いに出してみた。ルェイホマもまた先日のことを酷く気に病み仕事に集中できないようであったから、二人きりで話したら蟠りも解消されるのではないかと考えたのだ。

 霞琳としても寧江が気がかりであったし、彼女が目の敵にしている春雷に何かしでかしはすまいかとの懸念もあり、様子を探っておきたいという気持ちもあった。

 本当は自分で出向こうかとも思ったのだが、過日の遣り取りに鑑みて霞琳自身も寧江の標的になっている可能性が大であることと、女官長という立場から下手に動くと悪目立ちして騒動を大きくしかねない不安もあって、敢えて待機を決め込むことにしたのだった。

 春雷の役に立つための力を求めた霞琳にとって女官長の持つ権力は大変有用であるが、同時にこんな場面では些か不便であるとも感じる。だからこそ、部下を信頼して任せることも大切だと教えてくれた前女官長の言葉を改めて重く受け止めているのだった。


 よければいつでもルェイホマに会いに来てほしい、その時はお茶や点心でも一緒に楽しみましょう――自分から動きにくい分、寧江からまた足を運んでくれたらなどと都合のいい思いもあって、そのような誘いをかける書簡をルェイホマに何度か持たせてみたが、結果はいつも同じだった。手紙を受け取ってすらもらえず、侍女から慇懃無礼な門前払いを受けるのだという。

 元々かの宮の侍女とルェイホマは相性が悪い。それを承知の上でルェイホマを遣わしたのだから、当然といえば当然の成り行きかもしれなかった。もしかすると侍女は寧江にルェイホマの来訪を知らせてすらいない可能性も考えられる。しかしそれでも寧江とルェイホマが直接言葉を交わすことに意味があると考えているからこそ、他の者では使者たりえない。こればかりは仕方がなかった。


 それからというもの、成す術もなく平穏が幾日も過ぎ去っていった。

 寧江のことは相変わらず心の片隅にはあれど、特段何も起こらないために警戒心が薄れ、意識が完全に日常業務に持っていかれるようになった頃、事件は起こった。


「そろそろ後宮も冬の支度を始める時期かなあ。寒くなる前に準備を終えておかないといけませんよね。」

「そうですね。蔵から火鉢を出して各部屋に配布して、炭の在庫を確認するよう担当の宮女に伝えておきましょう。」

「日が暮れるのも早くなってきたから、灯りを点ける時刻も早まるでしょう。室内の灯りに使う油や、外の松明に使う薪の調達も併せて通知しておいてくれる?」

「畏まりました。――それにしても、もう冬になるのですね。あっという間に感じられました。」

「……うん、一年の半分近くを後宮で過ごしてきたんですよね。しかもその間に起こった出来事が衝撃的なことばかりで、本当に目まぐるしい時間だったなあ……。」


 秋も終盤に差し掛かり、木々は寂しげな茶色に衣替えをしている。とうに衣を脱ぎ捨ててしまった気の早い樹木も珍しくはない。少し前までは赤や黄の華やかな競演に目を奪われていたというのに、その面影は完全になくなってしまっている。

 定期的な業務としてラシシュと後宮の状況を見て回っていた霞琳は、些か感傷に浸り過ぎていたのかもしれない。主のいない宮の裏側、人気のない小路を歩いていた時、背後から気配が迫ってくるのに気づくのが遅れた。


「!――ラシシュ!逃げて!」

「霞琳様?」


 たっ、と。

 地を蹴る軽い音と共に空気を割くよう一息に距離を詰めて来た気配。

 それを察して振り返るや、霞琳は反射的に避けようと横へ逃げようとした。――が。


(私が避けたら、ラシシュにぶつかる!)


 その気配が目指す先は霞琳。更にその先にいるのはラシシュだ。

 彼女を危険に晒してはならない。咄嗟の判断で霞琳は己が身をそこに留まらせる。


 ざくっ――突進してきた気配がぶつかった途端、鈍い音と共にラシシュの高い悲鳴が静寂を劈いた。


「か、霞琳様!」

「ラシシュ、行って!」

「……人を呼んで参ります!」


 流石、ラシシュは聡い。霞琳を心配してこの場に残りたい気持ちをあることを真っ青な顔に出しながらも、そうしたところで何にもならないどころか足手纏いになることをよく理解している。それよりは一旦ここから離れ、誰かに助けを求めることが最善だ。


(炎益様を呼んで来てくれるといいけど……。)


 そんなことを頭の片隅で考えながら、ラシシュを見送った霞琳は気配を受け止めた左腕を見る。

 品のよい落ち着きのある赤紫色の袖が破け、そこから覗く白い肌が裂けて生々しい赤が溢れ返っている。衣がそれを吸収してじっとりと肌に貼り付く感触が心地悪い。

 相応の出血をしているものの、生地の色味のお蔭で全く目立たないのが不幸中の幸いだった。これならば自室に戻るまで誰かに出くわしても、怪我を気取られることはないだろう。


「……どうして。」

「はい?」

「逃げなかったの、どうして。」


 ぶつかってきた気配――即ち声の主である寧江は突っ込んだ勢い余って傍らに倒れ伏していたが、すぐに身を起こすと改めて霞琳に向けた匕首を両手で確り握り締めながら問うてきた。その小さな手は刃物から垂れ落ちる朱に染まり、一足遅く色づいた紅葉を思わせる。

 人を傷つけることなど初めてなのだろう。少女の声は僅かに震えているように感じるが、表情は先日と同様に感情が薄い。ただ、影が落ちているような気がする。年相応の子どもとは称しがたいその有様に、霞琳の心は腕以上に痛みを覚えた。


「ラシシュに怪我をしてほしくありませんでしたので。」

「自分が怪我をしても?」

「はい。それに寧江様の目的は私でございましょう?であれば、私が受け止めて差し上げなくては。」

「……そう。ならもっと受け止めてちょうだい、存分に。」


 言い終わらぬうちに寧江が再び地を蹴る。

 霞琳は軽やかに身を翻して躱す。

 真正面から寧江を受け止めた先程とは打って変わった霞琳の身のこなしに、寧江は驚いた様子で微かに目を瞠った。

 だが諦めずにもう一度、更にもう一度と、弾みをつけて繰り返し繰り返し跳びかかって来る寧江。

 彼女の気が済むまでそれに付き合うように、霞琳もまた時に後ずさり、或いは左右に身をずらし、余裕を持った動きで匕首の切っ先をひょいひょいと避けていく。


 後宮に入って以来、体を動かす機会はほぼなかった。しかし張家にいた時分、兄との稽古で学んだ動きは体の芯までしっかり浸み込んでいたようで、考えるまでもなく手足が勝手に動いてくれる。

 とはいえ体がやや訛っている感は否めず、また優雅さの象徴として長めに誂えられている袖や裾の布地がひらひらと舞うさまが軽快な動きを阻害するせいで、時折刃が衣類を掠めて切り裂かれはしたものの、最初に受けた左腕を除いて霞琳の肌が傷付くことは一切ない。

 幼い子、それも武術の稽古などしたこともないだろう高貴な身分の少女が闇雲に振り回す凶刃など、霞琳の相手ではなかった。


 段々と息切れを起こし、寧江の躍動感が落ちて来る。刃物を持つ手も下がりがちになり、脚が縺れ気味になって来た。

 

「……くっ!」


 それでも寧江は、これで最後とばかり渾身の力を込めて跳びかかる。

 今度ばかりは躱すことなく、霞琳は最初のように真正面に佇んだまま。


(――胸に刺さる!)


 駆けこむ勢いを止められない寧江が、咄嗟にぎゅっと眼を瞑った。が。


「寧江様、ご無礼ご容赦を!」


 鋭い一声が飛ぶや、霞琳の右手が寧江の両手をぐっと掴んで軌道を上方に反らす。

 その反動で寧江は体勢を崩し、更には霞琳が瞬時に腰を落とすにつられて、少女は背中から地面に転がった。


「……っ!」


 恐る恐る瞼を持ち上げた寧江は、この一瞬の間に何が起こったのかわからない様子で困惑気に瞳を揺らす。しかし正面にある霞琳の顔と胸元を交互に見遣って、小さく息を吐いた。

 その姿から、霞琳は寧江が本気で自分を殺めようとしていたのではないことを薄々感じ取る。しかし念には念を入れて、掴んだままの細い両手首を軽く地面に数度打ち付け、怯んで開いた掌から滑り落ちる匕首を遠くに蹴飛ばす。

 そして寧江の小さな体に跨って自由を奪ったところで、不意に初陣の苦い経験が脳裏を掠めた。寧江にあの少年の面影がちらついたのだ。

 霞琳は少年を脳裏から追い出すように小さく首を振ると、着物の上から小柄な身のあちこちに右手を押し当てて感触を確かめた。


「な、何をするの……!」

「……他に武器はお持ちではないようですね。失礼いたしました。」


 羞恥か怒りか咄嗟に頬に朱が走る寧江を見て、霞琳は気まずげに顔を逸らして謝罪を紡ぐ。

 危険な物を忍ばせていないか調べるためとはいえ、元は男であった自分が幼気な女の子の体をまさぐるのに罪悪感がなかったわけではない。申し訳なさと気恥ずかしさから、霞琳の顔も薄っすら紅潮を見せる。

 もしも寧江が霞琳の本当の性別を知っていたら、恥辱の余りどうなっていたことか。表向きは女ということになっていてよかったと、霞琳は心底思った。


「……どうするの。」

「何のお話でしょう?」

「どうするの、わたしを。」

「どうもいたしません。高貴なお立場の方に対して、私が何をできるわけもございません。」

「高貴?……存在する価値もないのに、わたしなんて。」

「一体誰がそのような戯言を申したのですか?」


 寧江の投げやりな言葉に、霞琳が声を荒げる。

 その大きな声に寧江がびくっと身を跳ねさせたのを見て霞琳は慌てて声量を落としはするが、憤りが冷めるわけはない。


「驚かせてしまい申し訳ございません。ですが、今のお言葉は聞き捨てなりません。……寧江様は亡き皇太子殿下の忘れ形見という尊い血筋の御方。陛下も姪にあたる貴女様のことを大切に思っていらっしゃいます。ルェイホマも、寧江様を大層お慕いしております。」

「……でもれーほは帰って来ないって、わたしのところに……。」

「あの時、寧江様はルェイホマを取り戻すためには私を消せばいいというお考えになっていらっしゃいました。ルェイホマは、寧江様にそのような残酷なことをしてほしくなかったのでしょう。」

「……でも結局消そうとしたわ、こうして。」

「何のことでございましょう?」

「……え?」

「今日は寧江様がちょっとやんちゃな遊びに私をお誘いくださっただけでしょう?私、消えるどころかぴんぴんしております。」


 けろっとした顔で笑いかけてから、霞琳は寧江の上からどいて膝を着く。そして呆気に取られた様子の寧江の手を引いて起き上がらせ、目線の高さを合わせると、失礼いたします、と一言添えてから右腕で少女の体を抱き締めた。


「……!?」

「ああ、こんなに震えて、心臓の音も大きくて……怖かったのですね。本当はこんなこと、お望みではなかったのではありませんか?」

「……。」

「寧江様。陛下やルェイホマにとってかけがえのない存在である貴女様は、私にとっても無二の御方。――次にお誘いくださる時は、陛下やルェイホマも一緒にできる楽しい遊びだと嬉しいです。そしてお茶やお菓子を一緒に食べて、たくさんお喋りいたしましょう。ね?」


 霞琳が寧江の顔を覗き込んで柔らかく微笑む。

 これまで感情が乏しかった寧江の表情が徐々にぐしゃっと歪み、目許に涙が滲み出して来る。恐る恐る動かされた小さな右手が、霞琳の傷にそっと触れた。

 すっかり忘れていたひりひりとした焼けつくような痛みがぶり返すが、霞琳はそれをおくびにも出さず笑みを崩さない。寧江がこれ以上手荒なことはしないと信じて。


「……けて。」

「はい?」

「霞琳、たす――」

「霞琳様!」


 戦慄く唇から漏れた小さな声は、駆けて来るラシシュと炎益の声によって搔き消された。

 霞琳は意識をそちらに持っていかれてラシシュたちを振り返る。つい油断して腕の力が緩んだ。

 寧江は二人の声を契機としてはっと我に返るや否や霞琳の腕を振り払い、ラシシュたちとは反対方向へと走り出す。


「寧江様!」


 呼びかけるが、寧江は振り返ることも足を止めることもしない。勢いよく転がっていく鞠のように、小さな体を懸命に跳ねさせて去っていく。


「霞琳様、戻るのが遅くなり申し訳ございません!」

「遅くなったのは僕が薬を取りに行ってたせいで、藍朱さんは悪くありませんよ。……って、うわー、結構派手にやらかしてますね。服のお蔭で目立たないけど、かなり血出てるじゃないですか。ちゃちゃっと手当てしますから、じっとしててください。」

「あ、うん。お願いします……。」


 その場に腰を下ろし、霞琳は袖を捲ってぱっくりと肉が開き血が止まらない二の腕を見せる。手早く薬箱を開く炎益に処置を任せながら、寧江が去った方向をじっと見つめていた。

 最後の言葉を聞き損ねてしまったことが悔やまれるが、寧江の無表情という心の鎧に罅を入れられたのだから、一先ず今日のところは上々の成果を得られたと思いたい。


 乱暴な話ではあるが、正当防衛という大義名分のもと、今後も憂いになりかねない寧江を殺してしまう選択肢もあった。

 極端ではあるが、寧江の気持ちを尊重するなら敢えて自分が殺されるという道もなくはなかったろう。


 だが、霞琳はどちらも選ばなかった。

 自分も寧江も生かすことを即座に決断した。

 その決断により変わる未来の責任は、自分が引き受ける覚悟で。


(今回は躊躇いませんでした。これでいいのですよね、……父上。)


 霞琳は心の中で静かに問いかける。返事はなかった。


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