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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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敵か味方か

※暴力的な表現がありますのでご注意ください。

 寧江はとぼとぼと歩いて母の宮に戻って来た。

 皇太子が住まう建物を中心にして、その妻妾のための宮が並ぶこの一角は、数ヶ月前までは華やかに着飾った女性が多く出入りして賑わいをみせていた。しかし春嵐が亡くなり、寧江とその母を除いて全員出て行ってしまったため、最早かつての面影は感じられない。


「皇子様が生きていらっしゃればよかったのにねえ。」

「そうよ、そうしたら即位されていたのはきっと皇子様だもの。あたしたちは皇帝の母君の侍女として鼻が高かったはずよ。」

「まったくよねえ、……あーあ、今を時めく劉昭容様の侍女が羨ましいわ。実の娘のくせに、ここのご主人様はもう劉司徒に見捨てられてるじゃない。」

「そうそう、それなのにいまだに偉ぶっちゃってさあ。……あら、公主様、お帰りなさいませ。」


 数名の侍女が仕事もせず立ち話をしている脇を擦り抜けようとすると、寧江に気付いたらしい彼女たちが態度だけは慇懃に礼をしてくる。

 しかし今更そんな振る舞いを見せようとも、つい先程まで彼女たちが興じていた母に対する悪口はしっかりと耳に入っていたので、寧江は敢えて無視を決め込みその場を後にする。


「なによ、可愛くない子。」

「本当は公主でもないくせに、なにか勘違いしているんじゃない?」

「女の子だけ生きてたって意味ないのに。皇子が生きていてくれたらねえ。」


 聞えよがしに再開される侍女の無駄口を背に受けつつ、寧江は黙って足を進めるしかなかった。


(――そんなこと一番わかっているわ。誰よりもわたしが。)


 寧江には、物心ついた時から“男の子だったらなあ”と言われ続けてきた記憶がある。

 活発でじっとしていられない性格のため、淑やかさが求められる女性よりも男性として生まれた方が向いていたのではないか――幼い頃はそう解釈しており、特段気にすることもなかった。周囲もまた、そこまで深刻な言い方をしてはいなかったからだ。

 多くの妻妾を持つ身である父もまめまめしく母の元へ通ってきて、家族で仲睦まじく過ごしていた。あのいけ好かない侍女たちも、当時は“この調子なら次のお子様ももうすぐですね”などと明るく話していたものだ。

 外祖父にあたる劉司徒は、寧江に“お父様に弟をおねだりなされませ”とにこにこと耳打ちするようなこともあった。まだ打算など知らぬ年頃の寧江もまた弟妹が欲しいと思っていたので、祖父に促されるまま父にそうお願いしてみたこともある。父は優しく笑いながら、“寧江はお姉ちゃんになりたいのだな”と頭を撫でてくれた。


 その後、実際に弟が生まれて寧江の周辺は沸き立った。とりわけ喜んだのは母と祖父であった。二人の関心は完全に男児に移り、幼い寧江には全く構わなくなった。

 これまで一身に受けていた愛情が遠ざかってしまった状況に寧江は少なからず動揺したが、父からの愛情は変わらず、また叔父の春雷とその側近である徴夏が可愛がって一緒に遊んでくれていたので、寂しさはさして感じなかった。

 “私はお姉ちゃんだから、お母様との時間は弟に譲ってあげなくちゃ”などと自分なりに納得していたのだった。


 しかし、急に高熱を出した弟の命の灯があっという間に消えてしまうや、寧江を取り巻く環境は徐々に変わっていった。

 母の嘆きは尋常ではなく、祖父がそんな彼女を労わるよりも急かし叱咤する姿を見るようになった。

 父は寧江に会うため昼間にはよくやって来るが、夜に足を運ぶ機会はぐっと減った。そして祖父が母を責める回数が増え、母は塞ぎ込むことが多くなった。

 その頃から、寧江に向けられる周囲からの“男の子だったらなあ”という言葉が妙に重苦しくなってきたように感じられたのは、きっと気のせいではなかったはずだ。寧江もその言葉の真の意味を理解できるくらいには大人になっていた。


 決定打は父の死だった。

 それまで寧江にいい顔をしていた者たちが、一斉に態度を翻す。劉司徒のようにとんと寄り付かなくなった者もあれば、侍女たちのようにあからさまに不敬な言動を見せて来るようになった者もいた。

 極めつけは、そのような渦中にあることに耐えられなくなったらしい母の豹変ぶりだった。


「……寧江、帰ったの?」

「……ただいま戻りました、お母様。」

「こちらに。」


 寧江は母の部屋の前で一礼し、招かれるまま傍らまで歩み寄る。

 弟を亡くし、父を喪ってからというもの、すっかり食が細くなり健康を維持できなくなった母の体は瘦せ細り、骨に皮が貼りついているだけのようだ。

 祖父に責められる度に寝台に籠り泣き沈んでいた日々の名残で、今も横になっている時間が多く陽に当たることもないため、肌の色は白を通り越して青みを帯びた透明に近い。まるで幽鬼のようだと侍女たちが嘲笑うのも、悔しいが客観的に見て否定しきれるものではなかった。


「今日も春雷殿下に遊んでいただいたの?」

「……はい。」


 寝台から身を起こした母が、ごつごつと節が張った手指で寧江の髪を撫でる。優しい手つきが、かつて幸せな母娘だった頃を彷彿とさせた。

 落ち着いている時の母の時は、弟が生まれる前後くらいで止まっているようだった。だから寧江が外出すると、春雷と過ごしていたのだと解釈しているらしい。しかし今の寧江にとって、春雷の名は最も耳に入れたくないものであった。衝動的に否定したい気持ちに駆られるも、折角珍しく穏やかな母の心情を害すまいとして肯定を紡ぐ。

 だが、葛藤により生じてしまった返事をするまでのほんの僅かの間すら、心を病んで過敏さを増した母にとって軽視できないものであったらしい。途端に眦を吊り上げ、寧江を撫でる手が止まる。それどころか、そこが娘の頭だということすらも失念したかのように長い爪をぎりぎりと立て始める。

 ああ、また失敗してしまった――頭部に走る鋭い痛みよりも遥かに強い諦念が、寧江の無表情に影を落とす。それが気に食わないようで、母は一気に捲し立て始めた。


「……今のは嘘でしょう?いつからお母様に嘘を吐くような悪い子になったの?お父様が即位されたら貴女は公主になるというのに――いいえ、いいえ、お父様はもういらっしゃらないんだったわね。春雷殿下に殺されたの!無害そうな顔をして春嵐様にいつも擦り寄って、そのくせ腹の中では帝位を狙っていたんだわ!あの人殺しが……!」

「落ち着いて、お母様――」


 まるで発作のように身を震わせて金切り声を上げる母を正気に戻そうと、寧江は彼女の腕に手を添え軽く揺する。

 だが逆効果にしかならなかったようで、母は煩わしそうに弾みをつけて腕を大きく振った。それは紅葉のように小さな手を払い落とすのみならず、勢い余って手の甲が桃色の頬にぱしっとあたる。だが寧江は表情ひとつ変えることなく、赤らむ頬にも構いはせず、尚も母を落ち着かせようと手を伸ばす。


「そうだわ、春嵐様が殺されたって私には皇子がいる!春嵐様の嫡子であるあの子こそ即位すべき方だというのに、春雷が帝位を簒奪したのよ!――あの子はどこ、私の可愛い大切なあの子は……!」

「しっかりなさって、お母様――」


 弟はもういないのだ、という言葉を飲み込んで、寧江はもう一度母の腕に触れる。

 両手で頭を抱えながら寝台に蹲ったかと思えば、突如背筋を伸ばして髪を振り乱しながら左右を見回す母。落ち窪んだ肉の底に嵌め込まれたような眼球が、弟を捜し求めてぎょろりと回転する。その瞳は何も見えていないのではないかと思う程に濁っているのに、否、寧ろそのような瞳だからこそ普通ならば見えない何かを見て取っているのかもしれなかった。


「ああ、いた!いたわ!私の大事な皇子が――!」

「お母様……!」


 何もない空間に向かって歓喜の声を上げながら手を伸ばし、身を乗り出し過ぎて寝台から落ちそうになる母を、寧江は必死に支えて制止の声を上げる。

 その振る舞いを妨害と見做したか、母の眼球がぐりんと回って寧江に向けられる。淀みの中に憎悪の焔が宿る瞳だ。


「邪魔なのよ、この役立たず!」

「……!」


 激昂した母に突き飛ばされ、寧江は背中から床に転倒した。

 そして母自身も勢い余ったようで、寧江の上に圧し掛かるように寝台から転がり落ちて来る。


「あの子が生きていれば良かったのに、どうしてお前が生きているの!お前が死んであの子が生きていてくれたら、お父様も青嵐様も皆、私を大切にしてくれたはずなのに!」

「お母様……。」


 母の重みから逃れようとして身じろぐ寧江の襟元が乱れた。そこから覗く白い肌――先程徴夏から隠した首元に、うっすらと手形が浮き上がっている。

 露出したそこに、母は躊躇いもなく手を掛けた。ほっそりとした華奢な首元の手形と母の手の位置は寸分の狂いもなく重なる。

 かはっと息を詰まらせながらも、寧江は感情の薄い顔つきを変えなかった。


「役立たず!お前が死ねば良かったの!お前に生きてる価値なんてないのよ!」


 容赦なく浴びせかけられる雑言は、嘗て祖父が母に投げつけていたそれとほぼ同じだった。


 ――皇子の代わりに、母親であるお前が死ねば良かったのだ。

 ――また皇子を産めれば良かったものを、それができなかったお前は役立たずだ。

 ――最早お前に利用価値はない、私の足を引っ張るくらいなら死んでしまえ。


 罵倒を繰り返す祖父とそれを受け止めるしかない母――以前こっそり覗き見てしまった光景を脳裏に浮かべながら、寧江の視界は白く歪んでいく。

 

(お母様の苦しみは、私が分かち合ってあげなくちゃ……。私だけは、お母様の味方でいてあげなくちゃ……。)


 朦朧とする意識の中、呼吸をしようと開きっ放しの唇が戦慄く。飲み込めない唾液が喉を満たし、酸素が通る余地もない。息が詰まる。鼻から吸った空気が絞められた喉にぶつかり、逆流した勢いで鼻水と共に鼻孔からかぷっと溢れ返る。

 その飛沫を浴びて、母ははっと我に返ると寧江から手を引いた。白い肌に残る手形が色濃くなったのを見て取り、途端に恐怖の色を宿した双眸でごつごつとした両手を見下ろす。そして震える身体を翻し、また頭を抱えて床に突っ伏した。


「いやあ!行って、行きなさい、寧江!私が殺したいのは貴女じゃないの、春嵐様を殺した春雷なの!……春嵐様さえ生きていらっしゃれば、きっとまた男の子を産めたの!そうすれば、そうすればきっと皆幸せになれたはずなの……!」


 泣き叫ぶ母の声は次第に弱々しくなり、最後はすすり泣きに変わる。

 寧江はその切実な姿を見つめながら忙しない呼吸を繰り返し、段々と息が整ってくるのを確認するように片手を喉に添える。唾を飲み込み上下する喉の動きを指先で感じ取り、今日も生き延びたことを実感する。そしてよろめく体を叱咤して起き上がると、こちらに背を向けている母に頭を下げて部屋を出た。


 回廊に出ると、そこには侍女たちが“ほら、またやってるわよ”と言わんばかりにくすくすと笑いながら遠巻きにこちらを見ていた。

 彼女たちは毎日のように繰り返されるこの出来事を承知していながら、母を止めることもせず、寧江を助けることもしないのだ。


 寧江は侍女たちを無視して、自室に向かう。少し離れた場所にあるので、そこに籠ってしまえば錯乱した母の声は届かない。寧江にとって唯一心休まる場所であった。

 扉を開けて中に入る。夕日も落ちて薄暗くなってきた部屋には誰もいない。役立たずの寧江の世話を焼いてくれる者など、今、この宮には誰もいないのだ。


(……れーほ。)


 寧江は心の中で無二の存在を呼ぶ。

 少し前までは黎苞がいてくれた。彼女は普段から寧江の部屋に詰めていたため、母から受けている仕打ちについては露も知らない。寧江も話すことはしなかった。何も知らないからこそ、黎苞には気を許して懐くことができた。いつもふんわりとした雰囲気を纏っていた彼女は、寧江の心を和らげてくれる特別な存在だった。

 その黎苞を自分に差し向けてくれたのは春雷であることを、寧江は知っていた。父が亡くなり、母が春雷を人殺し呼ばわりするようになったために彼とは距離を置いてしまったが、春雷が依然として自分を気遣ってくれているのだと感じられて嬉しかった。


 本当は寧江とて、春雷が父を殺したとは信じていない。二人は大層仲の良い兄弟であったし、春雷は自分を可愛がってくれる優しい叔父だ。あの春雷に限って、父を殺すことなどあるはずがない。

 だがそれでも、寧江は春雷を人殺しだと信じる振りをした。春雷が父を殺したのだと、自分に言い聞かせることにした。そうして春雷への憎悪を意図的に作り上げていったのだ。


(……だって、お母様の味方でいてあげなきゃ。私一人くらいは。)


 いかに理不尽な言葉で責め立てられようとも、寧江にとって母はやはり特別な存在だった。弟が生まれるまで、母が自分に注いでくれた愛情が偽物だったとは思えない。

 自分が良い子でいれば、自分が弟と同じくらい役に立てるようになれれば、きっといつかまた優しい母に戻って自分を愛してくれるのではないか――寧江はそう考え、藁にも縋る思いで生きている。


 母を昔の母に戻すためには、春雷が邪魔なのだ。自分が母にとって弟と同等の価値を持つ存在になるためには、寧江が皇位継承者にならねばならない。

 祖父は自分を女帝として担ぎ上げようとしたらしいが、それを阻んだのは春雷の存在だった。ならば、彼さえいなくなれば自分が即位できるのではないか。そうなるためには、春雷を殺してしまうのが手っ取り早い。そう理解していながら、寧江にはまだ躊躇いがあった。本当は春雷を憎むのが辛かった。だが母の味方でいるために、春雷を敵視することを自ら選択した。


 いっそのこと、さっき徴夏が本当に池に突き落としてくれていたらどれほど良かったか。そうしたら全ての苦しみから解き放たれて、大好きな父の元に逝けたのではないか。

 

「助けて。誰か……。」


 灯りもない部屋の片隅にしゃがみ込み、膝に顔を埋めながら無意識の呟きが漏れる。


 ふと、霞琳の姿が脳裏を過った。

 先程初めて対面したばかりの彼女のことは、名門張家出身の女官長ということ以外何も知らない。女官長という立場である以上、自分を助けてくれるだけの権力はあるかもしれない。ならばと彼女に縋ってしまいたいような、しかし一方で拒絶したいような、もどかしい気持ちに襲われた。


「誰か、お願い……。」


 再び意図せぬ独白が零れ落ちる。

 一体どうすればいいのかわからず、言葉とは裏腹に感情の欠落しきった表情のまま、疲弊しきった寧江は次第に眠りに落ちていったのだった。


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