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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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邂逅

※暴力・流血あり。遠回しですが切断表現ありますのでご注意ください。

 慶琳――いや、”かつて慶琳であった”霞琳は、顔を、体を、皇帝に文字通り踏みにじられていた。

 窶れきった体のどこにこんな力が残っていたのかと疑問に感じるほど、皇帝の足は乱暴に霞琳の体を痛めつける。


(……――代わって良かったなあ、霞琳。お前をこんな目に遭わせずに済んで、本当に良かったよ。)


 恐らく、張家は女と偽り後宮に男を送りこんだ罪で処罰されるに違いない。もともと目障りだったという張家を、皇帝はここぞとばかりに葬り去るだろう。家を破滅に追いやるような軽挙を犯した己と妹の愚かさは計り知れず、父や兄、家臣たちに対して許しを請うべくもない。

 しかし霞琳は、身勝手ながら多幸感に包み込まれていた。シャムナラ姫の最期まで付き従えたこと、そして妹がこの暗愚な皇帝に穢されずに済んだこと――存在価値のない自分が少しだけ役に立てたような気がして、ここで殺されても本望だと感じた。


「――楽に死ねるとでも思ったか?」

「え、……っ!」


 まるで心の中を見透かしたような絶妙の機に、皇帝が至極愉快そうな歪んだ声で問う。

 そして覇気のない相槌を打ちかけた霞琳の襟元を掴んで上体を引きずり起こすと、至近距離で顔を覗き込んだ。


「正蓋には全く似ておらぬ。母親似か?まるで女のような顔をしている。怪しまれずに後宮に入れたのも納得よ。……いっそ女の紛い物にでも仕立て上げて、生き恥を晒させてやろうか。勿論、死ぬまで朕の側でなあ!」

(気持ち悪いなあ、こいつの顔……。)


 青黒くくすんだ肌の色、落ち窪んだ双眸はぎょろりと獣のような尋常ならざる鈍い光を湛え、さぞかし残忍な愉しみを期待してのことか、薄い唇を舌が這う。

 女物の衣類で着飾り、貴族令嬢のような化粧を施し、侍女として後宮に入った。その時点で十二分に己は”女の紛い物”である。いったいこの男は、これ以上どうするつもりだというのか。自分を見世物にでもして、そして今のように気が向いたら暴力を向ける慰み者として用いようというのだろうか。

 もうどうにでもなれ、と諦めて瞼を閉ざす。

 殴られ、踏みつけられ、頬は腫れて口の中は切れているのだろう。鉄の味が充満している。そんな状態でぼやける視界はもう意味をなさなかった。


「なんだその態度は!恐れ戦いて泣き叫ばんのか!許しを請わんのか!」


 どうやら霞琳の態度は皇帝が望んだそれではなかったらしい。癇癪を起こし喚き散らす皇帝は、霞琳の体を力任せに床に叩きつけた。

 後頭部を思い切りぶつけたせいで、頭の中でぐわんぐわんと鈍い反響音が立つ。


「――う、あっ!なに、ッ……!」


 そしてそのまま失いそうになった意識は、下半身を突如襲った猛烈な痛みによって強制的に引き戻された。

 朦朧とする意識のせいか、苦痛に耐えかねて溢れる涙のせいか、視界は歪んで判然としない。しかしそんな状態でも、異常な興奮を含ませた歓喜に歪む醜い表情と、皇帝がいつの間にやら腰から抜いて手にしていた剣の刃が放つ煌めきだけは、強烈な存在感を放ち印象に焼き付いた。


「くひひひひひっ!そうだそうだ、それでいい!もっと無様を晒せ、張家の子よ!」


 ぐず、ぶず、と肉が乱暴に抉り裂かれる鈍い音がする。

 ぶちゅ、びしゃ、と生温かい液体が股間や内腿に飛び散る感触がある。

 しかし何が起こっているのか、霞琳にはもう考える力も残っていなかった。死んだ方が楽だと感じるほどの苦痛を与えられ、しかし失神しかければまた新たに肉体を斬りつけられる激痛により意識を引きずり起される。悲鳴にも嗚咽にもなりきらない声の残滓として空気だけが喉をひゅっと通過するばかりで、舌を噛み切る余力すらももうないのである。


「ふひゃははは!これでお前はもう男ではない、後宮に入る正当な資格を与えてやったぞ!喜べ、喜べ!」

「――陛下。」


 不意に、澄んだ声が響き渡った。暴室にはおよそ似つかわしくない、この場の穢れた空気を一瞬で浄化してしまうような美しい声だった。


「なんだ。朕の愉しみに水を差しよって。」

「誠に恐れ入ります。――しかし、范淑妃が陛下を大層恋しがっていらっしゃいます。すぐにいらしてほしいと、私を遣わされました。」

「なに、范淑妃が?」


 急にだらしなく緩んだ声になる皇帝に柔らかく応じる声は、まるで神仙か何かのものなのではないかと、霞琳は薄れゆく意識の片隅でぼんやり感じていた。


「月貴妃の後宮入りで何かと慌ただしく、范淑妃は陛下と過ごされる時間が少なくなってしまわれていましたので、なおのことお寂しいのでしょう。早くお慰めになって差し上げてはいかがですか?」

「うむ、うむ!」


 喜々として出ていく足音と入れ替わるように、静かに、しかし急いでこちらに駆け寄る足音が一人分。それはすぐ傍らで止まると、そっと霞琳の頭を持ち上げて顔を覗き込んできたようだった。


「すまない、遅くなった。生きているか?」


 絶え絶えの息のもと、霞琳にはもう目を開ける力もない。ただ、辛うじて微かに頷いた。


「酷い出血だ。待っていろ、すぐに医師を――……なんだ、これは……」


 美しい声の持ち主は霞琳の状態を確認するために頭から順に視線を動かす最中、乱暴に着物を暴かれ露出させられた下腹部まで辿りついたところで息を飲んだ。


「春雷、状況は――」

「――来るな!」

「!」


 遅れて来たのは徴夏のようだった。彼を制する、力強い声。先程まで嫋やかな美しい声だと思っていたが、その声の主にはこんな一面もあるようだ。


「徴夏、すぐに炎益を呼べ。」

「炎益?医官じゃなくていいのか?」

「炎益でなくてはならぬ。……医官は誰と通じているか分からぬ。これ以上張家の()()を辱めるわけにも、危険に晒すわけにもいかぬ。」

「分かった、待ってろ!」


 頼む、と徴夏に対して答えた声の主は、霞琳の手を握ってきた。まるで命を取りこぼすまいとするかのようにしっかりと、それでいて優しく、温かかった。


「……生きろ。死んではならぬ。」

「――……。」


(綺麗な声。シャムナラ姫の声のように、私の心に染み渡ってくる……。)


 はい、と答えたつもりの言葉は音を纏わず、空気を震わせるのみだった。頷く力はもう残っていない。激痛を和らげてくれるかのような透明な声に揺られながら、霞琳は静かに意識を手放したのだった。


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