上辺と本心(前編)
李寧江。
――父は春嵐。母は劉司徒の娘。劉司徒が女帝として担ぎ上げようとした少女。
回廊に散乱した冊子を三人で拾い集めて執務室に戻った後、春雷からそう説明を受けて霞琳は色々と合点がいった。
霞琳が女官長として管理を受け持つ範囲は皇帝の後宮なので、皇太子であった春嵐の妻妾までは管轄外だ。母親の元で起居しているという寧江に見覚えがないのは当然であった。
そしてルェイホマと寧江が知己であるのは、ルェイホマが女官となって最初に配属されたのが皇太子妃の宮だったからだという。
「寧江は兄上を大層慕っていたからな、兄上が亡くなられてからすっかり塞ぎ込んでしまったのだ。できるだけ歳が近く、寧江の興味を引けるような少女を側仕えにつけてやりたいと考えていたので、黎苞はうってつけだった。実際、寧江もあのように黎苞を気に入り元気になったので、目論見は成功したのだが、……黎苞には辛い状況を強いてしまうことになり、申し訳なかったと思っている。」
「いいいいえ!め、滅相もございません!」
春雷の謝罪を受け、動揺と恐縮の余り首を左右に振り続けるルェイホマ。首がちょん切れて飛んで行ってしまいかねないような激しさに、霞琳は彼女の頭にがしっと手を添えて動きを止める。些か手荒ではあるが、こうでもしないと止まりそうになかったので許してほしい。
「ルェイホマが以前の配属先に馴染めなかったという話はラシシュから聞いていました。皇太子妃様の侍女の方々は劉司徒の息がかかっているでしょうから、陛下の意向で差し向けられた上に異民族出身のルェイホマはさぞかし警戒と差別の対象だったのでしょうね。」
「そういうことだ。私もその点に関して配慮が欠け、寧江を心配する気持ちを優先してしまった。本当にすまない。」
「お、畏れ多うございます!……それに私、結果的には良かったと思っているんです。」
「良かった?」
再び首を左右に振りかけたルェイホマの動きは霞琳の手によって阻まれる。そして前を向いたまま、不意に表情を緩めて落ち着いた様子で紡がれた一言に、春雷と霞琳は不思議そうに彼女を見つめた。
「はい。確かに辛いことはありましたけど、それをラシシュさんに気付いていただけたお蔭で霞琳様のお手伝いをするようになって、憲樹さんや白維に出会えて……宮女教育なんて、責任は重いですがとてもやりがいがあるお役目をいただけました。今はこのお仕事を精一杯頑張りたいんです!」
はにかんだような笑みを浮かべながら、活き活きとした声でルェイホマが語る。胸元には例の冊子――彼女が何日間もかけて作り上げた教本を一冊、大切にそう抱き締めて。
確かに、もしルェイホマの所属が皇太子妃の宮以外の場所で、かつ仲間に恵まれていたならば、霞琳が彼女を講師に抜擢することはなかっただろう。運命とは偶然の積み重ねなのかもしれない。
机上に積まれた一番上の冊子を手に取り、春雷はぱらぱらと頁を繰りながら目を通す。
数、色、道具や食べ物の名称など、使用頻度が高く簡単な単語が大きく丁寧な文字で書き連ねられている。近い将来、宮女たちがこの教本を読み上げたり、文字を真似て書いてみたりして、勉学に励む日が来るのだろう。そんな想像をして、春雷は口許を緩めた。
「――とてもよくできている。実際に講義が始まれば大変なことも多いだろうが、辛い時や悩んだ時は霞琳殿にきちんと相談をして、役目を全うしてほしい。期待している。」
「はい、過分なお言葉痛み入ります!……ですが、私がこの仕事を選んだせいで、公主様を傷つけてしまいました……。」
明るかったルェイホマの表情に影が差す。先程寧江に向けて発した「戻らない」との言葉は、寧江の側仕えよりも宮女の教育係として働きたいのだという意志の表れだった。
寧江がルェイホマになついているのは明白だから、大好きな人に自分よりも他のものを優先された幼い少女の心についた傷はいかばかりだろうか――想像するだけで胸が苦しくなる心地を覚えた霞琳は、同時に今更ながら違和感に気付く。
「……あの、どうして寧江様は“公主”なのですか?公主になれるのは皇帝のお子様だけですよね?」
「ああ、そうだ。寧公は正式には公主ではない。」
「ええっ!?そ、そうだったのですか!?……も、申し訳ございません!皇太子妃様の宮では皆様が“公主様”とお呼びしていたので、てっきり……!」
土下座せんばかりに平身低頭になるルェイホマの体を起こしながら、春雷は気にするなというように首を振る。皇帝直々に触れられたルェイホマが、畏れ多さと男性への免疫がないせいで目を回しそうになったので、霞琳は彼女を別室に下がらせた。ただでさえ小心者だというのに、この短時間に混乱の限りを味わったルェイホマには休息が必要だろう。
春雷と二人きりになった執務室で、改めて霞琳が彼に視線を向ける。
公主ではない者をそう呼称するなど、皇家に対する冒涜に等しい。本来なら重罪になってもおかしくはない所業だが、それが堂々と罷り通っているのは何故なのか。
「劉司徒が、寧江に公主の位を与えるよう求めてきている。女帝案が通らなかった代わり、とでもいったところだな。本来なら皇太子である兄上が即位し、寧江は公主になるはずだったのだから当然の権利だ、という理由だ。」
「……李太師が反対なさるでしょう。」
「ふ、その通り。公主は皇帝の娘に与えられる地位であり、即位していない以上はいかに皇太子の娘であっても与えるものではない。そして――」
「「そのような前例もない。」」
二人の声がぴたりと重なり、互いに顔を見合わせて小さく笑い合う。お決まりのパターンすぎて、朝廷に出ていない霞琳ですらも劉司徒と治泰のやりとりが目に浮かぶようだ。
「そういうわけで、寧江は正式には公主ではない。だが事実上は公主だとでも主張するように、劉司徒や皇太子妃の周辺では寧江のことを公主と呼んでいる、というわけだ。」
「そのような行為をしても自分を罰することはできないだろうという、劉司徒の自信や権勢の誇示のようですね。そして同時に、事実、劉司徒を罰していらっしゃらない陛下の権威は下がることでしょう。それも劉司徒の計算の内、と。」
「その通りだ。――李太師は早く劉司徒を罰するように進言しているが、下手に手を出すと返り討ちに遭いかねぬ。それに私としても、父を亡くした不憫な寧江をいずれは公主にしてやりたいと思っている。ただ……。」
「今はその機ではない、ということですね。今そうなさっては、陛下が劉司徒の圧力に屈したように見えてしまいます。」
「ああ、時は見計らう必要がある。私が劉司徒に屈したのではなく恩を売ったと見えるように、もしくはどうしても引けない施策を通す際の交換条件として提示できる切り札の一つとしておきたい。……それに、公主にするなら私の養女にしなくては李太師も納得しないだろう。だが肝心の寧江があの調子では、譬え形式上の話だとしても私の“娘”にはなってくれまい。」
目を伏せる春雷の顔に寂しさが覗く。しかしその直後、自嘲気味に唇を歪めた。
「……寧江を想っているのは本当なのに、同時に駆け引きの手駒にもしている。こんな人間、嫌われても仕方がないな。兄上を殺したと思われても当然だ。」
「陛下……。」
春雷は皇帝になりたかったわけではない。春嵐が即位したら、その補佐をすることによって政道を正すことを夢見ていた。しかしなんの因果か、望んでもいない皇帝位に就き、劉司徒との対峙にあたっては時に人の情より打算を優先し、時に大切な人であろうと利用せざるを得ない。皇帝とはなんと無情な立場なのだろう。
それでも春雷は、己の役割を粛々と受け入れて現実に臨んでいる。そんな彼の心中を慮って、霞琳が居た堪れずにそっと手を伸ばしたその時、
「よーう、久々!元気にしてたか?」
けたたましい音を響かせて扉が開き、旅装束のままの徴夏が勢いよく乗り込んでくる。
「……徴夏。戻ったか。」
「徴夏様!お帰りなさいませ、長旅お疲れ様でございました。」
「ああ、ついさっき都についたばっかりだ。霞琳もその言い方からすると俺がどこに行ってたか分かってそうだな。土産話をたくさん聞かせてやるよ。……って、なんだお前ら。昼間からいちゃついてたのか?」
「そ、そんなんじゃありません!」
にやにやとした徴夏の視線を受け、霞琳は慌てて手を引っ込め春雷から距離を取る。春雷は相変わらずの徴夏の態度にふっと笑みを零した。
「その様子だと朗報が聴けそうで何よりだ。燈蓋殿は了承してくれたのか?」
「当たり前だろ、なんてったって俺が交渉役なんだぜ。……だが一つ、条件があってな。」
「条件?」
「燈蓋殿はお前のこと大嫌いだってよ。」
「へっ!?」
霞琳が悲鳴じみた素っ頓狂な声を上げる。記憶の中の燈蓋は父に似て厳めしく、冗談一つ口にすることすらないような人物だった。それが天子に対してこの暴言は一体何事だろう。本当に同一人物なのだろうか。それとも徴夏が大袈裟にふざけているだけなのだろうか。
身内の不敬な言動に慌てる霞琳をよそに、春雷は淡々と話を促す。
「それで、条件とは?」
「お前のことを好きになれなきゃ派遣した人材は引き揚げさせる、ってさ。――正確には、燈蓋殿は才能があるのに隠している奴が嫌いなんだと。そう春雷に伝えてくれと頼まれた。」
「……成程、本気を見せろということか。燈蓋殿が言うところの才とやらが私にあるかどうかは兎も角、改革をするつもりなら全力で臨まねばならないな。」
「おいおい、謙遜も程々にしねえと嫌味だぜ?……でもまあ、要約するとそんな感じだな。ぼんくらぶってるお前の才能を見抜くだなんて、燈蓋殿恐るべしってとこか。」
決意を新たにしたような物言いをする春雷を見上げながら、燈蓋の無礼極まりない発言で気分を害した様子がないことに安堵した霞琳はほっと息を吐いた。
(……よかった。これで民への教育計画も一歩前進ってこと、かな。)




