きょうだい
西のかた惇興はお祭り騒ぎのような活気に包まれていた。
征西将軍府が置かれ、大青華帝国と西域との交易の拠点となっているこの地方都市は、西部の政治・経済の中心地として国内でも屈指の繁栄を誇っているが、このところジュゲツナルム王国の内乱が激化するにつれて西方諸国との商人の往来が途絶えがちになり、賑わいが若干落ち着いた様相をみせていた。
しかしこの日ばかりは違う。なんといっても、ジュゲツナルム王国に出陣していた張家軍が数ヵ月ぶりに帰還したのだ。
反乱軍を討滅できたわけではない。だが、ゲリラ戦の如く姿を現す度に王家・張家連合軍に叩かれ続けた敵軍は息切れを起こしたか、近頃は活動が大人しくなってきていた。完全勝利にはまだ至らないが、相応の勝利といってよいだけの戦果は十分に挙げた。そこで正蓋は一時的に帰還し、兵の休息ないしは留守居の部隊と交代、そして物資の補給等々の時間を取ることにしたのである。
いずれは反乱軍が再度蜂起することが目に見えており、そうなれば当然張家軍も出陣を余儀なくされる。それがわかっているからこそ、兵士たちにとっては故郷に戻れる貴重な機会であり、夫や息子を戦地に送り出していた家族にとっては彼らと再会できる待ち詫びた時間であった。軍の面々も民も気持ちが昂るのは当然で、戦勝や再会を祝して空気が熱狂に染め上げられるのもさもありなんといったところだろう。
帰還してから暫しの時間、後始末に追われていた正蓋は漸く自室で鎧を外した。無機質な金属音が響く合間に、戦場を彷彿とさせる土埃が舞い立ち鼻先を掠める。根っからの武人である正蓋は、この香が嫌いではなかった。まだ鎮まりきらない血が再び湧き立つような感覚に襲われる。が、それを即座に抑え込んだのは、よく知った食えない男の声だった。
「いやあ、無事のご帰還何よりですよ、兄上。」
「……燈蓋か。」
正蓋は振り向いた先に、予想通りの人物の姿を捉える。
通常ならば、例え戦勝の祝辞であろうとも身を清め一段落したところで訪れるべきである。それを敢えて更衣すら終わらぬうちに、それも声もかけず気配を殺して入って来たということは、至急にして内密の話があるはずだ。
その割に余裕たっぷりで急いた様子ひとつ見せず、髭を指先でゆっくり撫で付けているこの弟は、正蓋にとって無条件で信頼できる無二の存在であった。左右に跳ねる形状でちろりと伸ばした口髭も、そのすぐ下で片側だけ憎たらしげに持ち上がっている口角も、細い筆のようにすっと生えた顎髭も、人を値踏みでもするかのように片眼だけ眇めた表情も――何もかもがこれ以上のないほどに胡散臭さを体現しているような男である。
燈蓋のこんな顔は正蓋の前でしか見せないものだ。他人の前では、譬え褒琳たちにすらも、普段は厳めしい顔つきで接しているのだからなんとも面白い。
「お耳に入れておきたいことが幾つか。喫緊というほどでもないんですがね、兄上が気にされているだろうことも含んでいますし。余り他人に聞かれたくはない話ですから、こうして参じた次第ですよ。」
「陛下のご即位の件か。」
「……ま、中らずといえども遠からずってところですかな。」
燈蓋は大仰に肩を竦めてみせた。
無論、正蓋の代理として出席した新帝即位の儀礼については報告するつもりでいたが、それ以上に正蓋が個人的にも気にかけているはずで、また張家にとって重要な事項がある。
だというのにあくまで皇帝を主題に据えた話から切り出すあたり、流石正蓋は忠義の塊だと称賛するべきだろうか。
そんな正蓋は話に耳を傾けながらも、更衣の準備を始める。長らく留守にしていたせいで、やらねばならぬことが沢山ある。時間を無駄にはできないのだ。
着々と着替えを開始する兄を眺めつつ燈蓋は気持ちを切り替え、涼しい顔で敢えて正蓋の話の流れに乗ることにする。
「兄上がそれほどにご即位の話をお望みなら、そちらを先にいたしましょう。新帝は噂に違わず大層美しい優男で、噂に違って大層優れた素質の持ち主かと。」
「それはまた大層不敬な言いようだな。」
燈蓋は基本的に領地経営に当たっているので、これまで都に上る機会もなく、春雷との面識はなかった。故に噂話でしか彼の人となりを想像する材料がなかったのであるが、今回漸く自らの目で春雷を見極められる機会を得たのだ。遠目なうえに僅かな時間ではあったが、燈蓋には直感的にぴんときた――春雷は逸材だと。
理由はただひとつ。あのような場で、あのような経緯での即位にもかかわらず、春雷は落ち着き払っていた。それが全てだ。
可もなく不可もないなどという噂は、彼が意図的に愚物を装った産物に過ぎないのだろう。
一方の正蓋は、頻度こそ少ないが当主として都に上る機会はあった。その際に春雷に目通りしたことはあったはずだが、どう感じたかは誰にも言わない。堅物の正蓋は、臣下として仰ぐべき主家の一員を評価するなど不遜であると思っているのだろう。
しかしそのように厳格な正蓋の弟は、残念ながらこの通り大層不遜な人間である。
「はっはあ!不敬で結構結構。――さて、その不敬な男に対して先日陛下から内々の使者がいらっしゃいましてね。兄上が戻られる予定がわかっていたので、俺の一存でお返事をするより、やはり兄上のご意見を仰がなくてはと思いまして回答は保留にしてあるのですが。」
「ご用命は?」
「俺の育てた人材を借りたい、と。それも張家とは縁がないという体で。」
「お受けせよ。」
「お断りしようかと。」
即座に口を開いた正蓋の言葉に被せるように、ほぼ同時に燈蓋がぬけぬけと続ける。
そのような燈蓋の態度すら想定内だったのだろう、漸く衣類を改めた正蓋は眉ひとつ動かさぬまま「ならぬ」と一言だけ口にして弟に向き直る。
忠義一徹の彼にとって、主命とあらば拒むつもりなど毛頭ない。命令の意図も探る気はない。自分が知るべき事情があるのなら、然るべき時期に伝えられるものと心得ている。
「でしょうな。ははあ、兄上らしい!」
燈蓋もまた、毅然とした正蓋の反応は予想通りだった。兄の指示に従うとも逆らうとも口にせず、彼はにやりとした笑みを浮かべたまま兄を見つめる。
正蓋もまた、黙ったまま真っ直ぐに弟へと視線を返す。
無言の睨めっこが暫く続いた後、先に動いたのは正蓋だった。無言で歩を進め、燈蓋の脇を擦り抜けて扉へ向かう。
「おやあ、兄上。続きは宜しいので?」
「続きがあるのか?」
勿体ぶって問いを投げる燈蓋に、正蓋は扉にかけた手を止めて足を止める。背を向けた態勢で、顔を見せることすらしない。
「ま、そりゃあねえ?陛下の件とは中りといえども遠かりし方の件について、まだ一言も申し上げておりませんから?」
戸に向けたままの正蓋の顔が微かに歪む。想像はついているのだ。
「――お前が報告すべきだと思ったらせよ。不要と思えばせずともよい。」
「はっはあ、判断は俺に丸投げと来ましたか。こりゃあまた、兄上らしい。」
先程と同じ言葉を繰り返しながら至極愉快そうに声を立てて笑った後、燈蓋は漸く真顔になって本題を口にした。
「――新任の女官長は慶琳でしたよ。間違いなくね。」
「……そうか。」
背を向けられている状態だというのに、どこか張り詰めていた正蓋の雰囲気が和らいだと感じられたのは燈蓋だからこそだろう。弟にして一番の理解者だからこそ察せる微細な変化だった。
シャムナラ姫の後宮入りの際、それに従うべく霞琳はお行儀よく正蓋たちに挨拶をして出立した。じゃじゃ馬の少女が急に大人びた態度を見せたので、重い任務が彼女を成長させたのかと感心したものだ。
霞琳は道すがら、病気のために別邸で静養していた慶琳を見舞ったと聞いた。よもやそこで兄妹が入れ替わっていたとは露も思わず、事が発覚したのは何日も後、褒琳がずっと体調の回復しない慶琳を案じて別邸を訪ねて行った時だった。病床に伏す慶琳がいるはずが、そこには元気に邸内を駆け回る霞琳がいたのだから、褒琳の驚きは筆舌に尽くしがたいものであった。
元々慶琳の世話をしていた者たちは、二人の入れ替わりに気付いて正蓋に知らせようとしたものの、霞琳から脅迫に等しい口止めをされた挙句全員外出禁止令を出されてしまったため、どうにもならなかったのだという。
時すでに遅く、シャムナラ姫一行はとうに都に到着してしまった頃だったため、霞琳と慶琳をもう一度入れ替えさせることは不可能だった。かといって、先帝が張家を快く思っていないことは自明の理であったから、張家の側から真実を打ち明け陳謝するという選択肢はない。皇家に忠を尽くすのが家訓であったが、それを破ってでも燈蓋は張家の存続を優先した。
こうなってしまった以上、後宮入りした慶琳が無事に正体がばれることなく霞琳の役を果たし、張家に帰って来てくれるのを願うしかない。
霞琳の方は重病の慶琳の役を果たすため、そして勝手に重罪を犯した罰として、今も別邸に閉じ込められている。自由を完全に失った彼女だが、その表情は満足そのものだった。小娘の割に肝が据わっていると、燈蓋が内心で舌打ちしたくなるほど清々しい姿であった。
幼い兄妹が起こしたとんでもない事件に対しても、常と変わらず泰然としていた正蓋に燈蓋は舌を巻いた。一体何を考えているのか、兄の頭の中がさっぱり分からない。
燈蓋はせめて慶琳の状況を探れないかと手を尽くしたが、遠く離れた都、しかも後宮という特殊な場所が相手では完全にお手上げ状態だったのである。
やがてシャムナラ姫の訃報とともに春雷から届いたのは、霞琳を女官として召し抱えるという通達だった。本心では一刻も早く慶琳を返してほしかったが、決定事項に異を唱えることは不可能であり、あれこれ詮索するのは怪しまれかねないので、承諾の意だけ端的に返すこととなった。
春雷が霞琳の正体を承知しているのかどうか、正蓋たちにはわからない。
もし知らないのだとしたら、いつ真相が露見するかと緊迫した日々がいつまで続くか知れない。
もしすべて知っているとしたら、春雷が慶琳を手元においておく目的がわからない。人質を取ったにしては、張家に対しこれまで何の要求もなかったのだ。
そもそもその霞琳なる後宮女官は、本当に慶琳なのだろうかという疑念すらあった。後宮は外界から遮断された場所だ。男だと露見してとうに始末され、しかし大事にせぬよう他の女性が霞琳に成り代わっていてもおかしくはない。
そんな風に様々な可能性を考えていたこともあって、女官長霞琳が慶琳であると判明したのは大きな収穫であった。
どれほど落ち零れであっても、男の身で後宮に忍び込むという大罪を犯しても、やはり正蓋にとって我が子は可愛いのだろう。忠義のためなら何ものをも犠牲にすることを躊躇わなさそうな顔をしているくせに、息子の無事を聞き微かとはいえ安堵の空気を滲ませる――こういうところだけは人間らしいと、燈蓋は思う。
本心では誰より身内を愛おしんでいるはずなのに、立場からも性格からもそれを露わにできない正蓋の不器用さは、燈蓋にとって微笑ましくもあり、一等好ましいところでもあった。
「あれだけ大々的に女官長としてお披露目されて中央の連中に顔が知れ渡ったわけですから、もう女官長の霞琳が慶琳に戻ることはできませんな。慶琳は重病ということにしてますから、ほとぼりが冷めたところで葬儀でも挙げてしまいましょう。
本物の霞琳の方も、素性を偽ってこのまま閉じ込めておくしかありますまい。
兄上にとっちゃお辛いでしょうが、慶琳を表向き生きながらえさせることも、霞琳をこのまま霞琳として生かしておくことも、張家のためにはよくありません。なに、本当に死なせるわけじゃあないんです。これが張家を守るため、ひいては二人を守るためになるとお考えください。」
「……。」
「陛下は英明な方とお見受けしましたから、女官長の性別を見抜いていないはずはないでしょうな。シャムナラ姫が亡くなった時に慶琳を返してくださればよかったものを、敢えて手元に留めておかれたのは人質か何かのつもりなんでしょうかねえ……そんなものなどなくとも兄上が陛下に逆らうわけがないってのに、そこがどうも引っ掛かるんですよ。もっと特別な理由でもあるのではないかと。」
「……陛下のお考えをとやかくいうものではない。不敬だ。」
「女官長の任命に当たり、陛下はそれはもう優しいお顔をされたんですがね。どうも陛下は相当女官長をお気に召していてるようで。」
「まさか。」
「それがそのまさかなんですよ。都では落ち零れどころかかなり有能な女官で通っているようです。驚きですな。」
「……。」
「ま、張家の流儀があまりに都と異なるので、本人からすると当たり前のことをしただけでも陛下には新鮮に見えるだけという可能性もあります。女官長が有能だという話は、現時点では割り引いて聞いておくべきでしょう。真価が問われるようになるのはまだ先です。」
正蓋は沈黙している。
こういう時の兄には何を言っても無駄であることをよく知っている燈蓋は、ひとまず伝えるべきことは伝えたとばかりにさっさと身を翻した。
いつの間にか正蓋の手が離れていた扉に今度は燈蓋が手をかけて、では、と軽快な挨拶を添えて出ていこうとする。と、正蓋が一言だけ口を開いた。
「――陛下のご要請はお受けするように。」
すっかり話題は慶琳のことに変わっていたというのに、最後の一言はやはりそこなのかと、燈蓋は呆れるやら感心するやらといった表情を浮かべながら片手で髭を撫でつける。ちらと横目で兄の様子を窺うが、いつもの無表情で思考は読み取れない。
燈蓋は敢えて返事をしない。ただ、扉を開けて部屋を後にする際、背を見せたまま片手を上げてひらひらと振った。
正蓋は弟の背をじっと見つめて送り出す。扉が閉まりその姿が見えなくなっても、暫くの間その場に佇んでいたのだった。




