絆の形
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……!もう駄目、私は本当になんてことを……!」
王皇太后の宮から戻る道すがら、徐々に興奮が冷めていくにつれ霞琳の顔は生気を失っていった。
平静を取り戻すなり、王皇太后に対する有り得ない言動の数々が頭の中をリフレインする。彼女にとっては叱責に相当する評価を喜び、誇りとする父への称賛に浮かれ、つい箍が外れた――などという言い訳が通用するはずもない大失態である。
私は馬鹿か!
――はい、馬鹿です!
私は阿呆か!
――はい、阿呆です!
流石は張家の落ち零れだな!
――はい、落ち零れです!
自分を責める自分と、自分に責められる自分――二人の自分が脳内で繰り広げる不毛極まりない遣り取りに頭を抱えこの場で転げ回りたい気持ちを堪え、人目を気にして背筋だけはしゃんと伸ばして常態を取り繕う。
化粧という名の仮面により一見すると生命力に溢れた顔色のお蔭で、回廊で擦れ違う宮女達は霞琳の異変に気付くことはなく、普段通りにこやかに挨拶を交わしていく。
もしもここにラシシュがいたならば、仮面の下に隠れた真っ青な顔色を容易く見破ることだろう。そして必ずや心配してくれるに違いない。
しかし、理由を言いたくない。言えるわけがない。
いかなる愚行であってもラシシュはきっと励まして慰めてくれるはずだ。だから執務室に戻りたくない。彼女の優しさが今ばかりはかえって胸を抉るのだ。
そんなわけで、霞琳はうろうろと長時間さ迷い歩いていた。だだっ広い後宮の敷地を行ったり来たりしたせいで脚が疲れて来た気もするが、まだ帰りたくない。
ならば休憩をと、一人になれる場所を求めて後宮の外れへ向けて歩いていた。主のいない宮が建ち並ぶ一角は人気もなくしんと静まり返り、ただ涼やかな秋風が駆け抜けていくばかりである。
その一番最果てにある目的地――シャムナラ姫の住まいだった宮の近くまできたところで、霞琳は足を止めた。
ほんの数か月前の悪夢のような出来事が脳裏を過り胸がちくりと痛んだが、もう涙が出る程ではなくなっていた。肌寒い季節になったからだろうか、募る侘しさが人恋しさを助長するようで、苦しみよりも彼女を恋しく懐かしむ気持ちが勝る気がした。
ざ、と空気を揺さぶる風に煽られた柳葉の簾が舞い踊る。先程まで垂れ下がっていた葉に遮られて見えなかった前方に、人影があることに気が付いた。
その人物は、宮から庭先に下りられるよう配置された階に腰を下ろし、うとうとと上体を揺らしながら眠っているようだ。
(――陛下!)
こんな場所にいるはずのない人物を映し出した目を疑い、両手でごしごし擦ってから再度そちらを見遣る。
結果は同じだった。そこにいるのは春雷で間違いない。
起こさぬよう気を配りながら、忍び足でそちらに近寄る。
傍らに屈んで覗き込むと、いつものように美しい顔立ちがそこにあった。普段なら少し見るだけでも畏れ多くすぐに視線を外してしまいたくなるが、今日は春雷が眠っているのをよいことに、隣に屈みこんで暫く見つめてみる。
長い睫毛。
すっと通った鼻筋。
どちらかといえば色白でするんとした肌。
珍しく隈ができていて、目の下がくすんでいる。即位して一層多忙になり、睡眠時間が足りていないのだろうか。心配になる。
「……霞琳殿?」
「あ、申し訳ございません。起こしてしまいましたか?」
まるで芸術品と称しても過言ではないほどの端正な顔が僅かに歪み、ゆっくりと開かれた黒曜の瞳がこちらに向けられる。
穴が開くほどじろじろ視線を注ぎ過ぎたせいで起こしてしまったのかもしれない。咄嗟に目を伏せて恐縮のあまり身を縮めるが、春雷は気にするなと言うように首を振り、両腕を空に伸ばして軽い伸びをする。
これほど気が緩んでいる春雷の姿は珍しい。寝起きの少し枯れた声といい、この振る舞いといい、普段は隙がない彼の無防備な様子はなにやら可愛く感じられて、先程までの絶望的な気分が徐々に薄れていくように思った。
「……そういえば、今日は母上にご挨拶へ行ったのだったな。」
ようやく和らいできていた霞琳の表情がぴしりと固まる。それを知ってか知らずか、春雷が続けた。
「そなたは随分と母上に気に入られたようだ。」
「……え?」
全く予想外の、しかも妙に確信的な春雷の言葉に、霞琳は間の抜けた声を出してしまう。
彼の口ぶりから察するに、王皇太后は霞琳との面会後に春雷と会っていたようだ。その後、春雷はここへ来て居眠りをしていたということになる。
その一連の出来事が全て、霞琳が後宮内をうろつき回っていた間に行われていたわけである。執務室に戻りたくなかったからといって、いかに長い長い時間を歩き回っていたか自覚し、霞琳は自分が少し情けなくなった。嫌なことから逃げるのにも程があるだろう。
落ち込んだ様子で俯く霞琳の態度を、王皇太后とのやり取りを振り返って消沈しているとでも解釈したようで、春雷は「あの母上に気に入られるとは流石だな」と励ましのように再度口を開く。
その表情は優しく緩んでいて、まるで自分のことのように喜んでくれているのがわかった。
しかし、霞琳はといえば心当たりが全くない。王皇太后の怒りを買った記憶しかない。
「あの、陛下は皇太后様から始終をお聞きになっていらっしゃるのでしょう?お目に掛かれたのもほんの僅かな時間だけでしたし、お叱りを頂戴してしまいました。お気に召していただけたとは全く思えないのですが……。」
「そうだな、母上はそなたが去った直後に私を呼びつけて『あの小娘はなんだ』と大変息巻いていらっしゃった。」
「それは嫌われているのでは……。」
霞琳は低い声で漏らしながら肩を落とした。
しかし春雷は首を左右に振り、柔らかく細めた双眸を向けて来る。
「母上があのように感情を露にされる姿はそうそうない。父上や兄上がお亡くなりになった時も、私の即位の際も、眉一つ動かさなかった。――しかしそなたは、普段何事にも無関心な母上の心を揺さぶったのだ。仮にその感情が怒りだったとしても、母上の琴線に触れるものがそなたにあったということだろう。」
霞琳は益々戸惑いを深くした。
家族の不幸や慶事にも感情を欠片も表さないほど、王皇太后の心が鉄壁だとは知らなかった。そんな彼女の心の壁を破るような出来事が、今日の目通りにおいてあっただろうか?全くわからない。
「そもそも母上が目通りを許すこと自体が珍しいのだ。」
「そうなのですか?」
「ああ。嬌麗が輿入れした時、一瞬だけ目通りを許してはくださったが、一言も口をきかなかった。」
「一瞬ですか?それは口をきく暇すらなかっただけでは……。」
「いや、逆だ。口をきく気すら起きなかったから、一瞬で追い出したのだろう。」
霞琳は驚きに双眸を瞬かせる。息子の妻にすら会いたがらないのに、自分には顔を合わせて言葉も交わしてくれた。その事実に鑑みれば、王皇太后が霞琳にはなにかしらの思いがあったことは確かなのかもしれない。
「……そういえば、父の話題が出ました。私が皇太后様と同じく、建国期功臣の一族の出身なのでご配慮くださったのかもしれません。」
「それもあるかもしれないな。だがそれだけではなく、霞琳殿に興味があるのだと思う。母上は引きこもっておいでではあるが、後宮のことはそれなりにお耳に入っているはず。そのうえで、今回後宮入りした二人に至っては目通りすら必要ないと仰っているのに、霞琳殿には対面されたのだから。」
「ええ!?」
王皇太后が、王氏を滅ぼした劉司徒の養女である昭光に会わないというのは分かる。
だが、栄節すら目通りを許さないというのは解せない。彼女も霞琳と同様、建国期功臣の末裔である。そして王氏とも親しくしていた治泰が後見をしている妃嬪なのだから、拒む理由が見当たらない。
その点について春雷が推測するところでは、新たに後宮入りした二人の妃嬪を同列に扱うためだろうという。王皇太后はそういうところは筋を通し、贔屓や苛めなど決してしない方なのだそうだ。
それを聞いて、霞琳は王皇太后のことを立派な女性だと素直に感嘆した。
一方で、妃嬪に会わないなら女官長にも会わないのが筋であろうに、霞琳には目通りを許した。春雷が言うように、霞琳は王皇太后にとって余程興味をそそられる人間だったのだろうか。
霞琳は、自分のなかにも王皇太后に対する興味が芽生えてくるのを自覚した。もっと彼女のことを知りたい。いや、知らねばならない。
「……あの、一つお伺いしても宜しいですか?」
おずおずと問いかける霞琳に、春雷は鷹揚に頷く。霞琳は声を奮い立たせて、続きの語を発した。
「先帝と皇太后様、皇太后様と亡き皇太子殿下や陛下は、どのようなご家族だったのですか?」
他人の、それもこの国で最も高貴なる存在の私的な面に踏み込む質問をしていいのかどうか、霞琳は迷いに迷った末に口にした。
巷の噂では先帝と皇太后の夫婦仲は最悪だと、専らの噂である。
しかし、前女官長も二人に交流はないとは言いながら、それでも先帝が王皇太后を愛していると確信していた。ならやはり二人の間に通じるものがあったのかもしれない。
また、王皇太后が先帝を嫌っていたのだとしても、自身が腹を痛めて生んだ息子との関係は別だろう。
とはいえ先程の春雷の話からすると、息子の死や即位にも動じない性格のようだ。だが表に出さないだけで、本心は嘆いたり喜んだりしているのかもしれない。そんな些細な機微も、息子の春雷なら感じ取っているかもしれない。
手に汗をかくほどどきどきしながら覚悟を決めて問を投げた霞琳に対し、春雷は呆気に取られたよう、暫しきょとんした顔をしていた。
やがて視線を空に投げて考え込むも、彼が口にした返答ははかばかしいものではなかった。
「……父上と母上が不仲だったのは、そなたも承知していると思っていたが。」
「それはそうですが、所詮は世間の噂でございます。前女官長からは、先帝が本心では王皇太后様を慈しんでいらっしゃったとお伺いしました。」
「父上が母上を?」
驚いたように声を上げてこちらに向き直る春雷の所作に、演技じみた雰囲気は全く感じられない。どうやら彼も本当に両親の夫婦仲が芳しくないと認識していたようだ。
「飽くまで前女官長のお考えですので、事実かどうかは分かりません。お二方の御子であらせられる陛下になら、感じ取れる何かがあったのかもしれないと思ったまでにございます。」
「……期待に添えずすまないが、思い当たる節はなにもない。父上と母上が共にいらっしゃるところを見たこともないし、二人は私にとって“親”というよりも“皇帝”と“皇后”でしかなかった。更にいえば、母上については、皇后位にありながら一切の責任を手放した単なる女性としか感じてないほどに。」
「左様でございましたか。……あの、陛下は先帝や皇太后様と私的なお時間を過ごされたことは?」
「記憶にない。私にとって家族といったら兄上だけだった。兄上は父上と母上が仲睦まじくなさっていた頃をご存知だったから、仲の良い家族だった時期の話を聞かせてくださったことはあるが……所詮は表向きの関係だろう。父上は王氏を油断させるために母上を尊重する必要があったし、母上にも王家の娘としての自負があったのだから。」
霞琳は絶句した。
自分の父である正蓋も極めて厳格な性格で“父”というより“将軍”という印象が強いため、春雷が先帝を“父”というより“皇帝”と捉える感覚は分からなくもない。しかし霞琳は、それでも正蓋を“父”と慕う特別な感情がある。
結果的には叱責されてしまったが、正蓋に碁の指南をしてもらったことを思い出す。それは教育の一環だったのだろうが、子を教え導こうとするその姿は、確かに“父親”だった。
片や春雷には、先帝との間にそんな時間すらなかったようだ。皇家が特別であることは霞琳とて無論承知しており、家族の在り方も一般的なそれとはかけ離れているのかもしれない。だが、春嵐に両親と楽しく暮らした思い出があったのなら、やはり皇家であろうと夫婦や親子として情を交わす時間を持つのは普通であるはずだ。それが春雷の場合、王氏の変が契機となり家族の在り方が一変してしまったために両親の愛情を受けることなく成長してしまったのだろう。
両親について語る彼の口調がいつも淡々として、まるで興味がない他人について論じているかのような印象を感じさせるのも、きっとそのせいだ。
霞琳はふと、以前に春雷が嬌麗を妹のように感じていると話していたことを思い出す。
その発言の真意は、春雷が嬌麗を一人の女性として見られないというだけの話ではなく、そもそも夫婦の在り方を知らないということだったのではなかろうか。
春雷は“夫”が“妻”――皇帝の妻は皇后のみで、妃嬪は女官に過ぎないことは今はおいておく――にどんな感情を抱き、どんな風に接し、どんな会話をするのかを知らない。だから嬌麗を“妻”と認識することも難しい。
だが春嵐との関係は良好だったお蔭で、“兄”と“弟”の在り方については良く知っていた。だからその延長線上で嬌麗を“妹”のようになら捉えることができたのではないだろうか。
霞琳は喉の奥になにかが詰まったような心地になる。
春雷を心から恋い慕っている嬌麗を思うと、“夫”が彼女を“妻”として見る日が来ないだろうことに胸が痛む。
そしてそれは春雷に非があるともいえず、寧ろ彼もまた幼少期に享受すべき幸せを与えられなかった被害者だともいえる。愛情不足が春雷の人間らしい感情の一端を欠落させてしまったのだ。
しかし春雷は、そんなふうに人として大切なものが喪失していながら、それを理性や行動で容易く覆い隠せてしまう器用さがあった。故にどこか常人離れした雰囲気を纏い、妙に人を惹きつけてしまうのかもしれない。
霞琳もまたその魅力に引き寄せられた人間の一人であるわけだが、恐らく春雷自身も気付いていない欠陥を察してしまったからには、ただ彼を慕ってついていくだけではいけないような気がした。
欠点など一つもなさそうに見える春雷も、やはり人間なのだ。足りない部分を補う人間が必要なはずである。大それた願いではあるが、霞琳は自分がその役目をほんの僅かでも担いたいと思った。
霞琳にできることがあるとすれば、春雷に真心を向けることだけだ。裏表のない態度で接し、親愛の情を惜しみなく注ぐ――そうして普通の家族のそれにも劣らぬ絆を紡ぎ、彼の後に従うのではなく隣を歩めるように信頼を寄せてもらえる存在になりたい。
「……陛下。先帝と皇太后様がどうだったかは分かりませんが、世の中には心から慈しみ合う夫婦もたくさんいます。例えば鄧昭儀様が陛下をお慕いするお気持ちは、嘘偽りない純粋な愛情だと拝察いたします。」
先帝と王皇太后の間にあったのは愛情ではなく打算や体面だとでも言いたげだった春雷に、無償の愛情もあるのだとやんわり伝えたくて、差し出がましくも一言返してみる。
いつかは嬌麗を“妻”として意識して欲しいという願いも込めて彼女を引き合いに出してみたが、その名を耳にするや春雷ははっとしたような表情を浮かべ、口許に拳を添えて何やら考え込み始めた。
「……嬌麗といえば、霞琳殿、彼女に何か言ったか?」
「はい?鄧昭儀様とはお話しする機会が多いもので、色々と申し上げたことはございますが……。」
「私が嬌麗の美しさに釘付けだとか、なんとか。」
「……あ!」
思い出した。言った。確かに言った。
皇帝陛下は勿論、本日ご出席なさっている群臣の皆様も、嬌麗様の御姿に釘付けになられることでしょう――嬌麗が正式に妃嬪となったあの日、霞琳は彼女の美しさをそう讃えた。
「そうか、それでか……。」
「何か問題がございましたでしょうか?」
「……懐妊中で夫婦の営みができない分、代わりに言葉で愛情を伝えて欲しいと毎夜せがまれている。」
『春雷様、私、霞琳から聞いて知っているのよ。春雷様が私の美貌に釘付けだって!』
『今までそんなことを仰ってくださらなかったけれど、遠慮なさっていたの?でももう私は知っちゃったわけだから、そんな遠慮は不要よ!』
『だから思う存分仰ってくださって良いのよ?私が綺麗だ、可愛い、美しい、最高だって!ねえ、もっと、もっとよ!おほほ!』
「――という感じで、朝方まで寝かせてもらえないのだ。徴夏に教えてもらった女性が喜ぶ誉め言葉を使い果たしてしまっても許してもらえず、同じ内容を繰り返し繰り返し日が昇るまで、……今日も碌に眠れず政務に支障を来しそうだったから、少し昼寝をしていた。ここに人が来ることは滅多にないから、息抜きに丁度よくてな。」
「……え、えええ!?」
なんということだ。春雷の隈の原因は膨大な政務ではなく、嬌麗のご機嫌取りにあったとは。そして更にその原因は、霞琳の何気ない賛辞だったとは。
(“美しさに釘付けになるでしょう”って予測は口にしたけど、“既に釘付けになっている”なんて断言はしてないよ……!)
嬌麗のポジティブ過ぎる曲解っぷりに頭を抱え、霞琳は春雷への申し訳なさでいっぱいになる。
嬌麗は懐妊中だから、春雷は彼女の宮に通う期間、添い寝だけすればいい気楽な気持ちだったはずだ。それがよもやこんな事態になっているとは誰が予想できただろうか。霞琳の罪悪感が最高潮に達し、階から庭先に飛び降りるや平身低頭の姿勢を取る。
顔を地に伏せているので、霞琳の振る舞いにぎょっとした様子の春雷の表情も視界に入らない。
「私の発言からそのようなことになり、誠に申し訳ございません、陛下!鄧昭儀様には私の方から、夜はお二人とも良くお休みになられるようお願い申し上げてまいります!」
「いや、それは――……霞琳殿!……行ってしまったか……。」
勢いよく一方的に捲し立てると、春雷の制止も耳に入らぬ様子の霞琳は即座に立ち上がって駆け出した。
目指すは嬌麗の宮に違いない。直情的で、普段は思い悩む時間が長い割に一度決心したなら猪突猛進――そんな霞琳の背中を、春雷は肩を竦めながら見守った。全く以て面白く、見飽きることのない人物だとでもいうように。
一体何をどのように説得したのかは分からないが、その晩に春雷が嬌麗の宮を訪ねるとすぐに寝かせてもらえたというのはまた別の話である。




