ただ才あらば
「ちょっと、白維!る、るえー……まほ、ほま?っぽい、って何よ?意味わかんないでしょ。どうしたらそんな風に発音できるわけ?」
「え?るえーまほでも、るえーほまでもないよ?“ルェイホマ”だよ!」
「だーかーらー、その発音の仕方を教えてって言ってんの!」
傍らの宮女が白維に詰め寄って来る。白維の感覚が分からないと感じたのは、どうやら霞琳だけではなかったらしい。
自分だけが理解力不足だったわけではないと分かり、霞琳は密かに胸を撫で下ろす。
「まあまあ、取り敢えずもう一回言ってみようよ!せーの、――“ルェイホマ”!」
「れ、れいほー!……って、ああ、やっぱりなんか違う……!」
「あ、あのう……あんまり名前を呼ばれると恥ずかしいよ、白維ちゃん……!」
「ルェイホマ!“ちゃん”はいらないってば!」
「は、はいい!」
白維が生き生きと勉学に励む様子は、他の宮女にも良い影響を与えているようだった。態々休憩時間に自主的にここに集まり、和気藹々と勉強会を楽しんでいるのだから、大したものである。
尤も、もしかしたら本人たちは勉学に励んでいるという堅苦しい意識すらないのかもしれない。ただ、仲間と集まって、自分達にとって物珍しい文字やジュゲツナルム語の発音を模す遊びに興じているだけなのかもしれなかった。
(そんな学び方もあるんだなあ……。)
霞琳は新鮮な気持ちで皆を見守っていた。
どうやら先程の宮女は、ジュゲツナルム語の発音をこの場で習得することを断念したようだ。彼女に解放された白維が霞琳に近寄って来て、興味津々といった表情を浮かべながら首を傾げる。
「そういえば霞琳様は、なんで憲樹さんに勉強させようと思ったんですか?」
「彼女が勉強をしたがっていたからです。それに、読み書きできるようになったら仕事にも活かせるでしょう?」
「あー、確かに!この盥の衣服はまだ洗濯してないとか、これは急ぎで洗うとか、覚え書きでもしておいたら忘れずに済みそうですもんね。他のみんなも字が読めるようになってきたから、仕事関係の伝言も書置きで済ませられて便利になりそう!」
「そうですね。それから、仕事の手順をまとめておけば新しい宮女が入って来た時も教えやすくなります。その宮女も字を読めるようになれば、自分で読み返して仕事の仕方を復習できます。憲樹さんは後宮での暮らしが長いから、知っていることも人一倍あるはず。それを皆に共有して、後に続く人達に残していって欲しいと思ったんです。」
「はあー、成程!確かに、それなら憲樹さんが最初に勉強を始めたのも納得です。」
白維の双眸がきらきらと輝く。最初は憲樹を特別扱いしたことに不満を抱いていたようだったが、霞琳の思惑を理解したことによりそれは解消したらしい。
どうやら宮女に教育を施そうという霞琳の計画について、本人たちは乗り気のようだ。高位女官達の心情は一旦横に置くとして、身分の低い宮女達自身に学ぶ気がなければ計画自体を見直さなくてはならないと懸念していただけに、この状況は有難い限りである。
感触は悪くないと受け止めた霞琳は、更に続ける。
「勉強をすることで、皆さんの能力もさぞかし伸びることでしょう。得手不得手もはっきりしてくると思います。――優秀な人がその才能に見合った立場に就き、適性のある仕事を担当できるように、私はこの後宮を変えていきたいと思っているんです。」
途端、皆が顔を見合わせる。
先程までの共感に満ちた雰囲気に後押しされたからこそ自分の理想を口にした霞琳だったが、不意に不安に襲われた。
白維達なら自分の考えを理解してくれる――そう信じていたが、そのような温かな空気は瞬時に霧散してしまったようだ。
「……霞琳様、私達は最下級の宮女ですよ?才能だとか適正だとか、そんなの関係ないですよ。だって奴隷みたいなものだもの、私達。」
「そう、皆さんが最下級なのは出自のせいです。でも私は、生まれで身分が決まるのではなく、能力で決まるような制度に変えていきたいと思っているのです。」
この場にいる宮女達は、奴隷として売買されたり貴族から献上されたり、或いは罪を得た者の財産として没収されたりしたような者ばかりだ。そんな自分達に能力があるだとか、出世するだとか、そのようなことはこれまで考えたこともなかったようだ。
見合わせる顔に困惑の色が混じる。
「……霞琳様。私、他の仕事をしたいとは思いません。洗濯の仕事は楽しいし、みんなと気楽にわいわいやってるのが楽しいから。」
「あ、あたしも、向いてないと思います。もし偉くなったら、あたしたちみたいなのを使う立場になるってことですよね?そういうの無理っていうか、……責任重くなるのしんどそうだし、今対等な仲間と上下関係ができるのも気まずいっていうか。」
「今と何も変わらない、っていう選択肢はないんですか?」
霞琳は咄嗟に返事ができなかった。
処遇が上がることに対して誰一人賛同しないというのは流石に想定外だった。
今伝えたことはまだ案の段階で本決まりではないのだとどうにか取り繕ったものの、それを聞いた皆が一様に安堵の笑みを浮かべていたのが余計に霞琳の気持ちを苛んだのだった。
(……私は間違っていたのかな?)
執務室に戻った霞琳は、頬杖を突きながら窓の外を眺めていた。
柳の大木へ向かう途中で見た風景はあんなにも優しく美しいものに感じられたというのに、窓の外で風に揺れる柳の葉は風に流されるまま揺られるだけの頼りない存在で、物悲しく枯れていく途中の侘しさばかりが醸し出されているように映った。
「あれ?珍しくしんみりしてますね、霞琳様。」
「……炎益様。」
仕事の用件でもあるのか、炎益が訪ねて来た。彼を迎える霞琳の表情はまだ落ち込んだまま、なかなかいつもの元気を出せそうにない。
「僕で良ければ、話でも聞きましょうか?」
「ありがとうございます。実は――……。」
いつもと変わらぬへらりとした笑みを浮かべる炎益に気持ちが解れて、霞琳は訥々と宮女達との一件を話し出す。
一連の流れを振り返ったことにより、先程の精神的ダメージを再度受けるような心地に襲われた霞琳の態度は益々しょんぼりと小さくなった。
炎益は静かに耳を傾けた後、片手を顎に添えてうーんと唸る。
「……それはちょっと性急でしたね。直球に行き過ぎた気がします。」
「やっぱりそう、ですかね……まさか皆さんが最下級でいたがっていたとは思わなかったんです。あんなに洗濯を愛していたなんて……。」
「いやいやいや、そういうわけではないと思いますよ?ただ、やっぱり身分は出身で決まるのが当たり前ですから。才能があれば偉くなれますよー、なんて突然言われても、今まで考えてもいなかったことだから理解が追い付かないんじゃないですかね。身分が上がることの利点もよく分からないんでしょう。」
「……そういうものでしょうか。」
霞琳は頭を抱える。
自分が正しいと思い上がらぬよう努めていたはずが、宮女達の賛同を得られなかっただけでこれほどに消沈している。自身を戒めていたつもりであっても、心の何処かには慢心があったのかもしれない。それがどうしようもなく情けなく、自己嫌悪に陥った。
そして宮女達の気持ちや考えを理解しようと試みていたが、あれほどまでに昇進を拒絶する理由が上手く掴めずにいた。洗濯以外の仕事をするのが嫌、責任が重くなるのが嫌、皆と立場が変わるのが嫌――そのようなことを述べてはいたが、だからといって官婢の立場に甘んじていたいものなのだろうか。或いは名門に生まれた霞琳には分からないだけで、最下級の地位はそんなに幸せなものなのだろうか。
「そうですねー……極端な例ですけど、もし僕に才能があるから司徒になれって陛下が命じられたとしたら、やっぱり嫌ですね。」
「その理由をお聞きしても宜しいですか?」
「僕は内侍省にずっと身を置くものだと思ってますし、司徒なんて責任重すぎますし、徴夏様や霞琳様より偉くなるなんて違和感ありまくりだからです。」
「…………。」
炎益が口にした理由は、つまり宮女達の言葉と同じ内容であった。
内侍省とは宦官が所属する部署である。宦官として仕官した以上、他の部署に異動することは通常有り得ない。幾ら栄誉ある三公のトップに就任するとしても、内侍省を出ることなど考えたこともないせいで戸惑いが大きいということだろうか。
そして、皇帝や后妃の身の回りの世話が主要な任務である宦官から、急に政治の表舞台に立つという役割の大転換により降って来るプレッシャーが大きすぎるであろうことは想像できる。
更に、これまで目上だった人物が目下になったら、非常にやりにくいだろう。霞琳は兎も角、もしかすると徴夏とて宦官の炎益が上役になったら良い気はしないかもしれない。そこから人間関係に亀裂が入る可能性は大いにある。
「……ありがとうございます、炎益様。物凄くよく理解しました。」
「あはは!ご理解いただけて何よりですよ。」
理解した。嫌という程に理解した。
炎益の譬えは余りにも極端ではある一方で非常に卑近なものであるが故に、妙にリアルで自分事として捉えることができた。それは確かに昇格を拒絶したくなる気持ちもわかる。
白維達にとっても、身分が上がるということはそれくらい違和感が大きく不安なことなのだろう。
「とはいえ、僕は霞琳様のやろうとしてることは素晴らしいことだと思いますよ。高位女官も馬鹿っぽいのが結構多くて、宦官も結構困ってるんですよねえー。優秀な人を相手にできるなら、その方がありがたいです。」
「ちょ、言い方……!」
「宮女達もね、ちゃんと話をすれば分かってくれる人がいると思いますよ。さっきの例でいくと、陛下がどうして僕に司徒が務まると考えたのかちゃんと説明してくれて、司徒に就く重圧を少しでも和らげるために経験豊富で有能な文官を指導役か直属の部下にしてくれて、これまでの関係に罅が入らないよう徴夏様や霞琳様にも予め話を通しておいてくれるような、至れり尽くせりの対応を取ってくれるならその気になるかもしれませんし?」
「……ふふ、それをご多忙な陛下に期待するのは少々贅沢かもしれません。ですが、何となく見えてきた気がします。」
不遜とも言えるほどの高望みを冗談混じりに話す炎益に、霞琳はつい笑い声を立てた。その表情に、先までの懊悩はない。
これまで最下級の宮女として雑用や肉体労働ばかりをやってきて、これからもずっとそうなのだと漠然と決めてかかっていた彼女達に対し、やはり霞琳は先走り過ぎてしまったのだ。自分の夢を語る前に、すべきことがあった。
霞琳はまず彼女達と対話をし、そのうえで身分を引き上げると決めたなら彼女達が能力を発揮できる環境を整えなくてはならなかった。
才ある者を取り立てるといえば聞こえは良いが、霞琳が自分の望みを叶えるために人事権を振り回していると見做し反発する者もいるに違いない。特に、己の希望しない人事異動を突然突きつけられた者はそう感じるはずだ。
そうならぬように、宮女達が自分の将来をどのように描いていて、やってみたい仕事があるのか、本人が認識している特技や長所は何なのか、きちんと耳を傾ける必要があるのだろう。霞琳が宮女の資質や適性に合った仕事をしてもらいたいと考えるのと同じように、彼女達もまたそれぞれが望む仕事や環境があるかもしれない。
霞琳と白維達では立場が正反対なので、互いの話が交わらなくても止むを得ない。霞琳が彼女達の望まぬ仕事や立場を一方的に押し付けても、やる気を削いでしまい良くない結果になるかもしれない。かといって彼女達が才能を持て余すような仕事しか望まず、それを肯んじるばかりになってしまっては大きな損失だ。
また、霞琳や宮女達の意思とは無関係に、部署の要員の過不足は発生する。互いに望まなくとも、その場を凌ぐための配属を強いられる場合もあるだろう。
だからこそ宮女達を尊重し言葉を尽くして、少しでも人事に対する理解を得て、可能であれば納得して新たな仕事に邁進してもらえるように努めなくてはならない。
そしてそのために、初めての仕事にも安心して臨めるように指導役や補佐役をつけたり、身分の低い者が高位に就くことを快く思わない者による妨害や悪意を抑えるために手を回したりするのも、自分の役目なのだ。
霞琳自身が本気で改革に取り組んでいるという姿勢を見せ、自身が取り立てた者が存分に才能を発揮するためのフォローをしなくては、態々自ら火に飛び込むような真似に同意する宮女もいるまい。
炎益が言いたかったのは、つまりそういうことだろう。
なんとも難しい話だが、この壁を乗り越えなくては霞琳の理想も実現しない。やるしかないのだ。
「随分お話に熱が入っていらっしゃるようですね。少し休憩されてはいかがでしょう。」
話が一段落した絶妙なタイミングで、ラシシュがお茶を乗せた盆を抱えて現れる。
彼女が淹れるお茶は絶品だ。頭を使った後には持って来いだと、霞琳は歓喜する。
「あ、藍朱さん。丁度いい所に来てくれましたね。ちょっと良いですか?」
「はい、何でしょうか?」
「藍朱さんが優秀過ぎて女官長の部下なんて立場じゃ勿体ないからって、貴女に霞琳様が皇太后様付きを命じ――。」
――がちゃん!
命じようとしたら、どう思いますか?――炎益が例え話を終える前に、ラシシュの手から滑り落ちた茶器が床と出合い頭に割れて破片が弾け飛び、茶の水溜りがじわじわと広がる。
普段のラシシュならこんな粗相は有り得ない。もしやらかしたとしても、直ぐに謝罪を口にして片付けを始めるだろう。
だというのに、今日ばかりは微動だにせず動かない。霞琳は心配してラシシュの顔を覗き込み、ぎょっとした。なんと彼女ははらはらと涙を零しているではないか。
「ラ、ラシシュ、大丈夫!?」
「大丈夫では、ない……です。――どうして、どうしてですか?私は霞琳様のお役に立ちたいから、優秀な女官であろうと努力を重ねています。この国の言葉や作法も日々勉強して、霞琳様のお好みに合ったお茶の淹れ方も毎日練習して、霞琳様が気持ちよく過ごせるようにこまめに掃除もして、後宮内での情報収集も欠かさずに、お仕事のお手伝いができるよう決裁書類にも目を通して励んでいるのに……急に皇太后様付きだなんて……。」
「ええ、そうだったの!?」
知らなかった。いつも一緒にいるのに全然知らなかった。
ラシシュは優秀だから色々なことを簡単にこなせてしまうのだとばかり思っていた。しかし実際には、人知れず血が滲むような努力をするタイプだったとは。
「霞琳様、どうかお傍に置いてください。優秀だと霞琳様にお仕えできないと仰るのであれば、私、懸命に無能になる努力をいたします!愚かになればお傍にいられるのですよね?」
「ち、違うの、ラシシュ!誤解だから!ていうか無能って努力でなれるものなの!?おかしくない!?」
「いいえ、なれます!なってみせます!そのくらいのこともできなくて、どうして霞琳様にお仕えできましょうや!」
「それ、優秀な人の台詞……!」
泣き崩れてひれ伏さんばかりに床に這うラシシュに慌てて駆け寄り、霞琳は必死に説明を試みる。
常ならばそんな様子を眺めて笑い転げているだろう炎益も、流石にラシシュが相手では罪悪感を覚えでもしたのか、気まずそうな顔をしながら一緒に宥める側に回る。
ラシシュの誤解が解けるまで暫く摩訶不思議な会話が続き、霞琳は不本意な人事を強いられる者の悲嘆の深さをよくよく理解したのだった。




