才女現る
霞琳は自制を心掛けるようにしていた。
落ち零れと評されていた過去とは一変、今では春雷に重用される立場になった。自分の意見が一つ採用されただけでもつい舞い上がってしまうくらいに嬉しく、彼の役に立てたことを誇らしく感じる。
しかしそれが続けば、いずれは自分の考えを取り立てられるのは当たり前だと思うようになり、驕り高ぶる人間になってしまわぬだろうか――そんな漠然とした不安に駆られることがあった。そして、そうならぬように自分を戒める癖をつけるようにしていた。毎晩眠る前に一日を振り返り、一人で脳内反省会を開催するようになったのもその一環だ。
自分の意見は必ずしも絶対ではない。だからこそ、自分にとっては賛同できぬような意見であっても、それを提起した者の気持ちや理屈の理解に努めることを常としていた。
先頃、憲樹の一件で身分の低い者は教育を受ける機会がないと知った霞琳は、その理由についてラシシュとあれこれ意見交換をしてみた。そこでまとまった考えは概ね以下のようなものであった。
そもそもこの国では、出自によって人生が決まるといっても過言ではない。皇族や貴族に生まれた者は政治や軍事に関わることが決まっているも同然だ。そういった人々に教育が必要なのは当然である。
一方、民や奴隷は為政者や主人に従って生きればいい。そのような生き方に学などなくても構わない。ならば教育を施す必要性自体がないということになる。
いわば教育は貴族や富裕層の特権である。それよりも下位の身分にある者まで教育を受けることができたら、特権の侵害に等しいともいえる。
いかに優秀であっても、民は民であり、奴隷は奴隷である。為政者になどなれはしない。そのような生まれの違いを理不尽だと感じる者もいるかもしれないが、そういった運命もまた天意であると考えられていた。大いなる天の意思なので、人の力で覆せるものではなく、覆そうとするのは不遜なのである。
また、支配者層からすると被支配者層は愚かな方が都合がいい。彼らが賢くなると政治に対する批判や不満が噴出し、最悪の場合は反乱が起こるからだ。
それらを踏まえて、霞琳がやろうとしている宮女に対する教育について、改めて考えてみる。
先の話における支配者層は妃嬪や高位女官、被支配者層は下級宮女と置き換えてみればいい。
後者に教育を施すと、前者はいい気はしなかろう。出自に基づく特権が侵されるからだ。更に、教育を受けたことにより頭角を現す宮女が登場したなら、高位女官は自分たちの立場が脅かされると感じる可能性も高い。
折角女官たちとも良い関係を築いてきた霞琳だが、この件で一気に掌を返されるリスクを背負っているといえる。本来、民心ならぬ女官心を敵に回すのは避けるべきだ。それでも教育を施そうという考えは変わらないが、だからこそ自分が正しいと過信してはならないし、強引に推し進めるのは論外であった。
ではどうしたらいいのか。
一先ず後宮での教育活動も控えめに行い、先ずは憲樹の様子を見て――と思っていたのだが。
(……どうしてこうなった?)
宮女たちが集まり楽しそうに勉学に精を出している目の前の情景に、霞琳は頭を抱えたい気持ちになっていた。
事の起こりは少し前。
新帝即位や妃嬪冊立の儀礼も一段落した。憲樹とルェイホマに託していた、使用した食器類の記録を残して片付ける作業もそろそろ終盤に差し掛かっているはずだ。
進捗状況や成果の確認をすべく霞琳が厨に向かうと、生憎と二人は休憩に出ているとのことだった。
待つのも暇なので、二人が休憩しているという柳の大木の木陰に向かう。仕事だけでなく休み時間までも一緒に過ごしているとは、随分と距離が縮まったものだ。二人の相性が余程良かったのだろう。霞琳は自分の人を見る目は悪くなかったらしいと結論付ける。そしてその事実に、安堵と自信を得た。
柳が幾本も植えられた小径、そしてその先にある柳の大木の一帯は、下級の宮女たちのお気に入りの場だ。貴人の宮からも遠く、下働きの者が汗水垂らす仕事場からも適度に離れた閑静な一角で気楽に過ごせるのだと、白維が以前に案内してくれたことがある。
確かに静かで居心地がよく、柳から垂れる長い枝葉が程好く外界を遮ってくれて、喧騒から逃れたい時にはぴったりであった。
霞琳もこの場所を気には入ったが、女官長という肩書がある己がいては彼女たちの休憩に水を差しかねないと考えて、足を運ぶのを控えていた。
因みに、夜になると付近に照明がないので鬱蒼とした雰囲気になり、人が近寄らないらしい。それを逆手にとって時に密会場所として使われることがあるようだ。白維は自分もそんな密やかな恋をしてみたいとうっとりした顔で話していたが、口の軽い彼女にはさぞかし難しいことだろう。
ざ、と風が空気を鳴らす。すっかり秋めいた涼しく心地よい風に誘われて、霞琳は視線を上方へ向ける。
後宮入りをした頃は青々としていた柳の葉は、今では黄色に衣替えをしつつあった。時の流れを改めて感じて、長かったような短かったような不思議な気持ちになる。
躍る風に誘われたように揺られた柳の枝葉がしなやかに舞い、すれ違いざまにさやさやとささめき合う。隣同士の柳が仲良く内緒話に興じ、しめやかな笑い声を立てているかのようだ。
「――ふふふ!」
不意に笑い声が響き渡る。
すっかり雰囲気に酔って夢見心地になっていた霞琳は、それが柳の精の声かと錯覚したのも一瞬のことで、そんなはずはないと直ぐに首を振って意識を現実に引き寄せる。
ならば幻聴かと勘繰って周囲を見渡せば、小径の最果てにある一際立派な柳の大樹の根本に人影が見えた。どうやら笑い声はそこからまろび出てきているようだ。
目的の二人がいるのかと速度を早めるうち、その人影が二人どころではないことに気付いた。
「――あはは!」
明らかにルェイホマではない、うら若い少女の談笑の声が響く。その声には確かに聞き覚えがあった。
「――白維?」
「あ、霞琳様~!」
ようやく人影の正体を視認できる距離までやって来ると、そこには下働きの宮女仲間が集まっていた。例のごとく白維が嬉々として両手を上げている。誰も彼もよく見知った、あの洗濯仲間だ。勿論、憲樹もいる。
唯一の違和感は、そこにルェイホマも混ざっていることである。憲樹とルェイホマが一緒にいると聞いていたので、彼女がいることは理屈上何らおかしくはなく予想済ではあったのだが、絵面的に見慣れない組み合わせだった。
しかもルェイホマは楽しそうにしている。あの大人しくおどおどしていた彼女が、である。心底からの笑顔を浮かべて、白維たちとお喋りに興じている。
「こ、これは一体……?」
「霞琳様!憲樹さんだけ特別扱いなんてずるいですよう~。こんなに楽しいことを内緒にしてたなんて!」
「楽しいこと?」
「文字を読んだり書いたりすることですよ!」
「え?え?」
唇を尖らせて詰め寄ってくる白維をぽかんとして見つめた後、霞琳は状況の説明を求めるようルェイホマに視線を流す。
するとルェイホマはおずおずと口を開いた。
「……あの、いつもここで憲樹さんとお勉強をしていたんです。ある日、偶々そこに白維ちゃんが休憩に来て、自分も習いたいと言い出して一緒にお勉強をしました。そうしたら段々集まる人が増えてきて……。」
「白維ちゃん。」
霞琳は真顔で復唱する。この人だかりが誕生した経緯よりも、人見知りのルェイホマが白維をちゃん付けで呼ぶほど親密になっていることの方が余程衝撃だった。
「んもー、ルェイホマったら!私のことは呼び捨てでいいってばあ!友達でしょう?」
「……うん!」
面映ゆさげに、しかし心から嬉しそうな満面の笑みでルェイホマが頷く。それは年相応の女の子の顔で、霞琳にとって初めて目にするものだった。
彼女にこんな表情をさせる白維は、本当に人の懐に入り込む天才のようだ。すっかり感心していたが、彼女の才能はそれだけではなかったらしい。
「霞琳様、白維は凄いんです。漢字を覚えるのが早いんですよ。それにほら、私を呼んだ時もジュゲツナルム語の発音が綺麗だったでしょう?」
言われてみれば、白維は当然のようにルェイホマを本名で呼んでいた。発音は滑らかで、たどたどしさや訛りもない。
「確かに……凄いですね、白維は。勉強が得意だったなんて知りませんでした。どうやってそんなに早く覚えたのですか?」
「えへへ、そんな凄くはないんですけどね?ちょっとしたコツがあるっていうか~……。」
霞琳に褒められて満更でもなさそうな白維は、両手を腰の左右に添えて胸を張り、鼻高々といった態度で得意気に続ける。
「ルェイホマが最初に教えてくれたのは、私の名前の書き方だったんですよ。初めて自分の名前を見て感動しちゃって。
それだけじゃなくて、『白は明るくはっきりとした清潔感のある素晴らしい色、維は繋ぐ、支えるという意味だから、明るく真っ直ぐな性格で皆と直ぐに仲良くなって人と人とを繋げてくれる白維にぴったりな名前だね』ってルェイホマが褒めてくれたんです!」
話しながら当時の興奮が甦ってきたのだろうか、白維の瞳がきらきらと輝きを放つ。初めて自分の名前の表記を目にし、その字義を知った感激振りが手に取るように分かった。
そんな白維の姿を目にして、霞琳は自分の時はどうだったろうかと記憶を辿る。が、特にどうとも感じた記憶がなく、小さな落胆を覚えた。貴族の子弟にとって勉学は規定路線であり、名前の書き方も漢字の意味も義務のように学んだだけなのだから、当然といえば当然であった。
白維は勉強熱心というよりも興味が湧いたものに貪欲なだけなのだろうが、学びに貪欲になれるとは些か羨ましい気がした。自分もそうありたかったと、今更ながらに思う。
「それで、コツというのは?」
「それはですね、色んな人や物を連想することです!」
「連想?」
白維曰く、文字だけ覚えようとすると単なる暗記になるので、つまらないし記憶しにくいらしい。身近なものやイメージに結びつけることによって、印象に残りやすくなるのだそうだ。
「実は、霞琳様の名前の書き方もルェイホマに教わったんですよ!
霞は霧や靄で遠くがぼやけて見えることを意味していて、山に霞がたなびく景色は神秘的で綺麗だな~って想像しました。琳は美しい玉がぶつかって鳴る澄んだ音のことらしいですね。
私たちとはどこか違う遥か遠くにいらっしゃるような雰囲気で、お顔が綺麗で、お声が美しい霞琳様にぴったり!」
「――え。ええ!?」
きらきらとした瞳に真っ直ぐ見つめられながら恥ずかしげもなく言い切られると、寧ろこちらの顔から火が出そうになる。
自分の美貌に自信がある女性なら誉め言葉も素直に受け入れられるのかもしれないが、残念ながら霞琳はそうではなかった。父親には余り似ていないので、全く覚えていない母親に似たのだろう造りのお蔭で女装をしても違和感なく見えるらしい顔立ちは、まだあどけなさが残り、美しくもなく可愛らしいとまでも言い難く、精々愛嬌がある程度。
成長期を迎える前に男性機能を失ったせいか今のところ声変わりも来ておらず、少年の声といえばそうも聞こえ、落ち着きのある女性の声といえばそうとも聞こえるとラシシュに評された声は、とてもではないが美しいとは言えないのではないだろうか。
だが、白維にとって霞琳の姿がそう見え、声がそう聞こえるというのであれば、彼女の感性をわざわざ否定する必要もないだろう。慣れない絶賛の言葉を受けて妙に気恥ずかしくなる心地を誤魔化すように、続けて問いかけた。
「では、ルェイホマの名はどうやって覚えたのですか?発音が流暢で吃驚しました。」
「んー……何となく?うん、この子はルェイホマっぽい!と思って。発音は戎月人になったつもりで、思いっきり舌を巻いてみたり、大袈裟に抑揚をつけてみたりしたんです。そうしたら、ルェイホマがそれで合ってるって言うから。」
わからん。
さっぱりわからん。
ルェイホマっぽいって何。
霞琳には理解不能であったが、白維には白維なりの理屈があるのだろう。或いは理屈などなく、感覚的なものなのかもしれない。
白維がその手法でぐんぐんと吸収して成長していくのなら、それが彼女にとって最適な勉強法なのだろう。ならば霞琳が言うことは何もなかった。




