張慶琳
「慶琳お兄様!」
「……霞琳。」
張家邸庭園の片隅で、慶琳は膝を抱えて蹲っていた。泣き腫らした赤い目だけを動かして妹の姿を確認し、鼻にかかる濁った声で名を紡ぐ。
「慶琳お兄様、またお父様に叱られたの?」
「うん。でも私がいけないんだ、分かってる。」
「お父様は慶琳お兄様に厳しいのよ。褒琳お兄様には、こんなにきつくないもの。」
「それは、兄上が優秀だからだよ。……兄上のように優秀だったら、父上は私にもお優しかったと思う。」
「そうかしら?」
「うん、そう。……以前は私にもお優しかったんだ。政治の勉強が進まなくて悩んでいた時、ゆっくり励めとおっしゃって、頭を、こう、わしゃわしゃって撫でてくださったよ。」
「ふうん……?」
時折ぐずぐずと鼻を鳴らしながらも、いつしか慶琳の顔にほんのりと笑みが浮かぶ。
いぶかし気に首を捻る霞琳の頭を、慶琳はぽんと撫でた。
征西将軍張正蓋には、三人の子がいる。嫡男の褒琳、次男の慶琳、長女の霞琳である。
褒琳は最初の妻の子で、すでに成人し後継者としての扱いを受けている。
代々張家では、嫡男には家や軍を束ねる絶対的な存在感が必要とされ、求心力や統率力、用兵といったものに重点を置いた教育が施されることになっていた。褒琳はもとより素質があったらしい。当時ジュゲツナルム王国では反王家勢力がたびたび蜂起しており、王から援軍を請われてはその都度父子で出陣し、凱旋するのが常であった。戦場では豪胆で勇ましく、普段は寛大で部下や民をよく可愛がる性格であるため、人々から大層慕われている。
褒琳の母が早世した後、正蓋はジュゲツナルム王国の王妹を後妻に迎えた。そして同時に、正蓋の年の離れた妹がジュゲツナルム国王の側室になっている。前述の通りジュゲツナルム王が張家の武力を必要としていたことから、より強固な関係性を築くための政略結婚であった。
正蓋が国王の妹姫との間に設けた子が、慶琳、霞琳の二人である。
張家では、次男には文を重視した教育を施すことになっている。武門の長として君臨する嫡男を支え、領地経営などの政を一手に引き受ける役目を期待されるのだ。事実、正蓋は当主として武名を馳せ、その弟である燈蓋は内政に辣腕を振るい、張家が理想とする体制を実現していたといえる。
しかし、次世代の張兄弟はそう簡単にいかないらしい。
褒琳に問題は一切ない。問題があるのは慶琳であった。こちらは叔父の燈蓋がどれほど指導しても、政治も、経済も、司法も何もかも、努力はすれどなかなか身につかない。辛抱強い燈蓋がとうとう匙を投げる有様だった。
「人間には生まれもっての適性というものがある。張家の次男坊として生まれてしまったばかりに、哀れなことだ。」
燈蓋がそう伝えた時、正蓋は静かに頷いただけだったという。
こうしてまだ十歳そこそこの慶琳に張家次男坊として落第の刻印を捺されてしまってから間もなく、ジュゲツナルム王国で久々に武装蜂起が発生し、例の如く王は正蓋に援軍を求めた。
そこで正蓋は、褒琳だけでなく、慶琳も従軍させることとした。戦が少なくなってきた頃であったため、幼子ではあるものの、慶琳にも貴重な戦争経験を積ませようとしたのであろう。或いは、政治の才にからっきし恵まれていないこの息子に対し戦功を得る機会を与えようとしたのかもしれない。
しかしそこでも慶琳は窮地に陥り、正蓋に救われるという失態を晒した。片や褒琳は正蓋と共に敵軍を壊滅させるという手柄を上げる。
家中の者からの褒琳に対する賛辞は止まるところを知らず、一方で慶琳に対する評価は元々高くはないというのに、この件で完全に地に墜ちたのだった。初陣だったというマイナス要素を差し引いたとしても、この兄弟には大きすぎる能力の差がある――それが皆の一致した見解であった。
ジュゲツナルム王国からの華々しい凱旋後、慶琳は正蓋から初めて厳しい言葉を受けた。
「お前には為政者としての才も、将たる者としての器もない。政もできぬ、戦もできぬ。情けない。」
己の未熟さに奥歯を噛み締めることしかできない慶琳を冷たい目で一瞥し、正蓋はその場を後にした。それ以降、正蓋が慶琳の部屋を訪れることはなくなり、顔を合わせる度に叱責を受けることが常になったのである。
そんな慶琳のことを、いつしか誰ともなく陰口を叩くようになった――”名門張家の落ちこぼれ”と。
そしてそのような状況は五年経った今も変わらない。
今日もまた、慶琳は正蓋に出来の悪さを指摘されたところだった。厳しい言葉をかけられると、必ず独りぼっちになれる場所で思い切り泣き、気持ちをすっきりさせるのが決まった流れだった。誰にも知られていないと思っていたが、兄想いの妹は気づいていたらしい。
不名誉な呼称をつけられていることについて、慶琳は知っていた。使用人たちの噂話を耳にしてしまったからである。しかしその呼称の通りだと思ったから、慶琳はただ黙って受け入れることを選んだ。それでいいのだ。仕方がないのだ。張家の次男としての務めも果たせず、戦下手まで発揮して、父の気遣いを無碍にしてしまったのだから。
そのような才のない自分に対しても、兄や妹は優しい。張家の者として能力不足であっても、家族として受け入れてもらえるのなら、二人のために出来ることは誠心誠意努めたいと決めていた。
「あ、そうだ。慶琳お兄様。姫様の縁談の話なんだけど……。」
「え?」
慶琳の胸が反射的に高鳴った。この二人の間で姫様といえば、シャムナラ姫のことに他ならない。
慶琳の初陣以来、この五年の間にジュゲツナルム王国内では繰り返し反乱が起こっていた。それゆえにジュゲツナルム王家が一層大青華帝国を頼みとし、張家との連携を更に強めようとしていることは周知の事実であった。
ジュゲツナルム国王の子で未婚なのは末っ子のシャムナラ姫だけ。必然的にその相手は慶琳に違いないと、半ば公然と囁かれていた。褒琳はすでに大青華帝国最有力貴族たる劉司徒の娘と縁談がまとまっているからである。
加えて慶琳がシャムナラ姫に想いを寄せていることは誰の目にも明らかであったし、シャムナラ姫もまた慶琳の気持ちを拒む素振りは全くなかった。シャムナラ姫の母――即ち慶琳の叔母も、娘と数日違いで生まれたこの甥のことをいたく気に入っていて「叔母上ではなく義母上と呼びなさい」などと本気とも冗談ともつかぬ発言を繰り返し、そんな妻の言動をジュゲツナルム国王も止める気配がなかったのである。
とうとうか、と期待する一方、シャムナラ姫の縁談について自分よりも妹が先に知っているという状況に慶琳は不安を覚えた。
「私を侍女というか、教育係というか……とにかくそんな感じで、連れていきたいんだって。父上も承諾したみたいなの。」
シャムナラ姫の方が霞琳よりも年上だというのに、教育係とはいったい何だろうか。いや、それよりも――霞琳を”連れてい”くということは、シャムナラ姫が嫁入りをする場所は張家ではないということに他ならない。
(……嘘だ。)
慶琳が頭を殴られたような衝撃に、目眩がしそうだった。
「か、霞琳!」
突然大声を出す慶琳に驚いた様子で、霞琳がきょとんとした顔を向ける。
「その、姫様の相手は……。」
「え、皇帝陛下よ。知らなかったの?」
(――皇帝陛下!?)
慶琳は、今度は呆然とした。確かに立場だけを考慮すれば、婚姻相手としては至上の相手である。皇帝以上の者などいない。
しかし皇帝とシャムナラ姫では親子ほども年齢が異なる。皇帝の長男である皇太子はシャムナラ姫よりも年上だったはずだ。
皇太子の生母である皇后との関係が冷え切っている皇帝は、彼女を蔑ろにして若く美しい妃嬪を多く集めているという。中でも范淑妃への寵愛は甚だしく、つい先ごろ二人の間に皇子が生まれたと公式発表があった。寵妃の子はやはり特別可愛いらしく、皇太子の変更まで検討されているとの噂まである。若い頃の皇帝は見目麗しく優秀な為政者だったというが、どう贔屓目に考えてもその面影はもう感じられない。
こんな皇帝がシャムナラ姫に相応しいだろうか?特段可もなく不可もない噂しか聞こえてこない皇太子の方が、まだ相手として納得できるというのに。
(姫様の幸せを考えれば、私の方が余程――……)
そこまで考えて、慶琳ははっとした。確かに、自分ならシャムナラ姫だけを愛する自信はある。しかし、”名門張家の落ちこぼれ”がシャムナラ姫の夫として相応しいかと自問すれば、
(……相応しいわけが、ない。)
慶琳は下唇をきつく噛み締めた。本当に愚かだった。張家の男児としての才や矜持を諦めた時、同時にシャムナラ姫が手の届かない存在になるということにも気づかず、落ちこぼれの自分を許容してのんきに生きていた自分は、もはや救いようのない存在ではないか。
(恥ずかしいほど己惚れていたんだなあ……。)
いつか結ばれると思い込んでいた。もし慶琳が優秀だったなら、その未来はあったかもしれない。しかしその可能性を自ら潰してしまったのだ。
「……霞琳。」
「なあに、慶琳お兄様。」
「教育って、何をするんだ?」
「たぶん、この国の言葉や慣習なんかの手解きだと思うわ。公の儀式とかでは特有の言い回しやいろんな作法があるじゃない?姫様は日常会話くらいなら余裕だけど、改まった場の心得までは十分じゃないと思うから。」
「お前もそんな経験はないんじゃ……」
「……そう、ないのよ。」
「「…………。」」
兄妹は互いに胡乱な表情で見つめ合い、同時に嘆息した。
現在の張家は国境警備やジュゲツナルム王国への支援が主な役割になっているため、都から遥か西方に離れた街――惇興に拠点を置いている。
惇興は燈蓋主導の優れた統治により、活気にあふれ治安のよい地方都市の様相をみせてはいるが、やはりどこか国都とは流れる空気の質が異なっているという。お蔭で子女は他の貴族の子弟と交流することもなく、都会の洗練された文化や流行に触れることもなく、国家行事に参列する機会もない。霞琳がシャムナラ姫に手解きせねばならないのであろう内容は、二人にとって全くの未知なのである。
「……ないから、ね。自信がないのよ。」
俯いて、心細げな声を出す霞琳。
まだ幼い少女の華奢な双肩には重すぎる荷を負い、さぞかし不安を覚えているに違いない。慶琳は兄として、妹の心中を推し量った。
「自信がなくて当然だ。霞琳を遠く離れた都に送り出すだけでも心配なのに、……私が代わってやれたらいいのに」
「でしょでしょ、そう思うでしょう!ね?ね?」
「!?」
瞬時に活力に満ちた勢いで食い気味に同意を求めてくる霞琳。
虚をつかれて呆然とする慶琳は、絶句して肯定も否定もできないまま目を白黒させた。
「さっきまでのしおらしい妹はどこへ……?」
「私もね、慶琳お兄様が代わってくれるのが一番だと思うの!」
「無視かよ!」
「だから、代わりましょう。」
「!?!?!?」
今度は突然真顔になった妹の言葉は、覚悟を秘めた重みがあった。
それはそのまま、慶琳の心の底にぐっと沈み込んでくる。
恐らくこの妹は、兄の恋が成就しないことを悟りながらも、せめて傍にいさせてやろうと腹を括ったのだ。
しかし、事はそう簡単ではない。
「待て、霞琳。姫様の側仕えに男がいたら――」
「男じゃないわ、姫様にお供するのは”霞琳”よ。慶琳お兄様は体調を崩して張家の別邸で療養するの。」
「……待て、霞琳。」
「というわけで私はこれから熱を出す準備をするから、姫様のことは頼むわね――…じゃなくて、頼んだよ、霞琳!」
「嘘だろ、霞琳……」
「違う!――”嘘でしょう、慶琳お兄様……”だろ。もう一回!」
「……”う、嘘でしょう、慶琳お兄様”」
「うん。よくできました、霞琳!」
もはや考える気力もなくなった慶琳は、こうして”霞琳”としてシャムナラ姫に同行することとなったのである。




