仔猫と熊と
徴夏と炎益は職務に戻るため、早々に部屋を後にした。
春雷は既に本日の執務を終えているそうで、この後は嬌麗の宮に通うだけらしい。その時刻までまだ余裕があるからと、この場に残って霞琳と茶を共にしていた。
「そういえば、今日は鄧将軍に会ったそうだな。」
「はい、鄧昭儀様がお引き合わせくださいました。」
「鄧将軍は本拠地に帰還するというので私のところに挨拶に来たのだが、そなたに会って感激したと熱く語っていった。余程嬉しかったようだな。」
「そ、そのようなことが……お恥ずかしい限りです。」
例の事件後、嬌麗の宮に引きずられていった霞琳は、彼女の兄である征北将軍鄧魯範と対面した。
小柄でしなやかな白猫のような印象を与える嬌麗に対し、背が高く筋骨隆々とした巨躯を誇る魯範は、よく日に焼けた肌、身嗜みに頓着していないらしく黒々としたぼさぼさの髪に髭、腕も毛深くもじゃもじゃとして、野趣溢れるまるで巨体の熊のような男だった。
強いて言えば目が大きいところは似ている。が、嬌麗の瞳はぱっちりとして愛嬌があるが、魯範のそれは真ん丸で常に瞠目しているかのような迫力があり、大分ニュアンスが異なる。
兄妹は大分年が離れていることもあってか、魯範は嬌麗をその大きな目にどれだけ入れても痛くないという可愛がりようであった。
「お二人はとても仲が宜しいのですね。」
睦まじい二人を見ていた霞琳が故郷にいる妹――即ち本物の霞琳を思い起こして、しみじみと口にするのを聞き、嬌麗は満面の笑みで得意げに頷く。
「ええ、そうよ。私はお兄様が大好きだもの。だからお兄様も私を大好きでないといけないのよ!」
「ぐわははは!!言われずとも俺は嬌麗が大好き――おおっと、いけませんな。私は昭儀様を大切に思っておりますぞ!!!」
嬌麗の無茶苦茶な理屈すら愛らしくて堪らないとばかりに相好を崩し、宮中に響き渡る程の豪放磊落な笑い声を立てた後、身分の違いを思い出した様子で毛むくじゃらの熊が居住まいを正す。
ムキムキの青年がちんまりとした少女に跪く様子はなかなかに不思議な光景だったが、二人の間にはそれが当然といった空気が完成していて、時間が経つにつれ霞琳も段々と慣れてきた。慣れとは恐ろしいものである。
「昭儀様は両親が歳を取ってから生まれた念願の女の子だったもので、父と母も格別に可愛がって育てたのでございます!お蔭で少しばかり我儘になってしまいましたが、そんなところもお可愛らしくてなあ!!」
「嫌ね、お兄様。私はちっとも我儘なんかじゃなくてよ。」
「ぐわっはは!そうでしたな!!」
どうやら二人は同父同母兄妹らしい。遺伝子の神秘である。
嬌麗の我儘を少しばかりと表現するのには違和感があったが、それすらも可愛いと大声で宣うところには霞琳も同意であった。先日徴夏に“自由奔放な我儘女子に振り回されて、仕方ないなあとか思いながら世話を焼いて幸せを感じる性格”と評されたことが不意に脳裏に浮かび、確かにそうかもしれないと些か不本意ながら納得する。そして己と同類だろう魯範について、気が合いそうな男性であると改めて感じる。
「ところで女官長殿は昭儀様の初めての友人になってくださったとか!感謝してもしきれませぬ!!しかも女官長殿は俺が敬愛する張将軍のご息女とのこと、……なんと嬉しいことでございましょうか!!!」
ぐおっと風が巻き起こるかのような勢いで、魯範が霞琳に向かって頭を下げる。声だけでなく一挙手一投足も異様に大きく弾みがついているので、その迫力の凄まじいことといったらない。
しかも裏表のない直情的な性格と見えて、妹に初めての友人が出来たことを心底から喜んでいる様子が窺えるその表情は、厳つさから一変、刮目した瞳をふるふると揺らしたかと思えば、ぶわっと感涙を溢れさせる有様である。
唐突に展開される百面相劇場に戸惑いはしたが、愚直で感動屋な人柄は大変好ましく感じられた。敵味方と人々を仕分けしながら常に気を張った状態で他者と接さねばならない後宮生活に浸かっている霞琳の胸の内を清風が優しく吹き流れ、息苦しさからほっと解放されるような心地を覚える。
そしてそんな彼が父を敬愛していると聞いて、つい反応してしまうのは当然の流れだろう。
「まあ、父をそのように思っていてくださるなんて。娘としても誇りに感じます。」
「武人ならば常勝将軍と名高い張将軍を尊敬するのは当たり前でございましょう!私もあの御方のようになれるよう日々精進しております!!――今回初めてお目に掛かれるのではと期待しておったので、それが叶わなかったのは残念ですが……こうしてご息女の女官長殿にお会いできて、その悲しみも吹き飛びましたぞ!!!」
「私などでは父の代わりにもなれませんが、少しでも鄧将軍のお心をお慰めできたのならばなによりでございます。」
張家にいた時分、親子として良好な関係であったとは言い難いものがあったとはいえ、霞琳もやはり正蓋を慕う人間の一人である。父の熱狂的なファンらしい魯範の言葉に気持ちを昂らせながら、頬を緩めて応じる。
そして同時に、魯範が正蓋に憧憬の念を抱く理由が分かった気がした。
この国は極めて平和である。現在の領土が確定してからというもの、唯一国境が接している隣国のジュゲツナルム王国と友好関係を結んでいることもあり、戦らしい戦に見舞われたことがないといっても過言ではない。
ただ、稀に北方で異民族の反乱が起こる。大青華帝国の建国当初――つまりこの国が今よりだいぶ狭小だった頃、北から西にかけては遊牧民が暮らしていたエリアだった。その地域を制圧した時、北方にいた部族は当時の征北将軍の支配下に入り、圧政の下で随分と苦しい生活を強いられ差別的な扱いを受けていたという。
因みに西方にいた部族の一部は当時の征西将軍の支配下に入ったが、大部分は更に西へ追われていき、ジュゲツナルム王国の前身となる小国を形成した。張家がジュゲツナルム王国と良好な関係を結ぶことに成功したのは、支配下に置いた部族を例の飴と鞭方針で巧みに取り込み、彼らの伝手を活用して王家の警戒心を解くと同時に確たる外交ルートを築くに至ったからである。
話を北方の異民族に戻す。
かつての征北将軍が採った強硬路線による抑圧的な扱いの名残がいまだに尾を引き、度々異民族の蜂起が起こっている。魯範も何度かその戦闘の指揮を執っており、大抵はすぐに鎮圧できているのだが、時に苦戦を強いられることもあるようだ。
それは決して魯範の実力が足りないわけではない。寧ろ彼の将軍としての能力は一流なのだが、一つには平和の代償とでもいうべきか軍隊そのものの実戦経験や兵士の心構えの不足、もう一つは異民族もまた単に敗戦を重ねて来たのではなく反省を活かして着実に力をつけてきたとともに、最近では部族長やその周囲の人物に有能な者が増えて来たという経緯がある。
国家的な目線からすると小規模な反乱にも手古摺ることのある魯範だからこそ、同じ四征将軍の一人でありながら他の追随を許さぬ圧倒的な強さを誇る正蓋を崇敬しているのだろう。況してや正蓋の戦場は異国で、もし反乱軍が勝利すればジュゲツナルム王国が転覆するほどの重要なものであり、その戦果は国家間の外交面にも多大な影響を及ぼす。そのような戦いに繰り返し出陣しては圧勝して帰還する正蓋に憧れるのは当然なのかもしれなかった。
ただ、正蓋の子に過ぎず武功一つない霞琳に対してまでも顔を合わせただけで感動するのは大仰な気もしないではないのだが。
何はともあれ、魯範は霞琳と対面していたく感激したようだった。
そして嬌麗も、兄と初めての友人とが親しくなったことに満足したらしく、「ねえ、霞琳。お前、お兄様の妻になってあげてはどう?」などと本気とも冗談ともつかぬことを笑顔で言ってくる有様である。
流石にどう答えるべきか詰まったが、霞琳が口を開くより早く魯範の方が真っ赤になりながら本気で焦ったように辞退してくれたので助かった。
「いやいやいや!確かに私はいまだに妻も迎えられずにいるのですが、それは女性の扱いも分からぬ無骨者だからこそ!!そんな男に女官長殿のような女性は勿体ないというものです!!!私の妻など雌熊くらいで丁度よいかと!!!!」
「い、いえ、そのようなことは……鄧将軍にはいずれ素晴らしい奥方が見つかるものと存じます!」
どうやら自分が熊っぽいという認識はあるようだ。が、幾らなんでも妻が熊で良いことはないだろう。それでは子も生まれない。
確かに外見は熊のようだが、その真っ直ぐで豪快な人柄は魅力に違いない。嬌麗の話では、軍の者たちからは随分と慕われているとのことだ。いつか彼の良さを認めてくれる女性が現れることを切に願うばかりである。勿論、熊ではなく人間で。
――そんなやり取りがあったことを伝えると、春雷は途中まで楽しそうに笑っていたが、最後ばかりは僅かに考え込むような顔になった。
「いかがなさいましたか?」
「いや、……そなたが誰から見ても素晴らしい女性になったのだなと、改めて思った。」
「……それ、褒めてます?それとも貶してます?」
「無論、褒めている。後宮にいながら男性ではないかと疑われるようでは、そなたの身に危険が及びかねないからな。といっても、好んで女性として生きているわけではないそなたには不本意なことかもしれないが……。」
じとりとした視線を向ける霞琳に対し、春雷は神妙な面持ちを返す。その言葉には霞琳を心底慮る気持ちが窺えて、これ以上不躾な眼差しを送るわけにはいかないと肩を竦めた。
「……陛下、もうそのようなことはお気になさらないでください。そもそも男の身で後宮に入ったのは私の罪、それを咎めて男性としての体を失わせたのは先帝。陛下は私が張家に戻ることこそお許しくださいませんでしたが、代わりに私の罪を許し、先帝の所業を背負われ、私にこうして生きる道を与えてくださった。今ではそれがとても幸せなことに思えるのです。」
「……幸せ?後宮のような平穏とはかけ離れた場所で、女性として生きることがか?」
理解しがたいといった様子で眉を顰める春雷に、霞琳は柔らかに笑って頷く。
「とても幸せです。ですがそれは後宮で女性として生きることが、ではなく――月貴妃の遺志を継げること、そして陛下のお役に立てることが、です。性別はもうどうでもよくなってきてしまいました。」
「どうでもいい?」
「はい。確かに気持ちは今でも男性寄りで、“男性でないとできないこと”ができなくなってしまったことを残念に思う気持ちもあって、徴夏様が羨ましくなる時だって少なくありません。
でも一方で、“男性にはできない方法”で陛下のお役に立てることもたくさんあって、それは私の役目なんだと思うととてもやりがいがあるというか……。突き詰めていくと、私は私にできることをやっていけば良いだけなのだと気付いたんです。その点において、性別は余り関係がないって。
――考えようによっては、性別を失い、名前まで変わって、それまでの自分とはいい意味で決別するきっかけになったのかもしれません。だとしたら、その転機を与えてくださったのはやはり陛下ですね。」
ありがとうございますと告げながら頭を下げる霞琳を前に、春雷は暫く鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたが、ややあってから小さくふっと噴き出した。
「そなたは私が思っていたよりもずっと逞しかったようだ。――わかった、そなたがそう言ってくれるなら私ももう必要以上に罪悪感を背負うことは止めにしよう。」
「はい、そうしてください。――あ!そろそろ鄧昭儀様の宮に向かわれなくては。きっと陛下の訪れを楽しみにお待ちになっていると思いますよ。」
「ああ、もうそんな時間か。」
春雷が腰を上げるのに合わせて、霞琳も立ち上がる。恐らく外には志文が控えているはずなので、霞琳の役目は彼の元まで春雷を見送ることだ。
先日、徴夏から志文が范淑妃の弟だと聞いてから、霞琳の心には小さな靄が渦巻いている。シャムナラ姫を毒殺した范淑妃の縁者を傍に置くことについて、春雷のことだからきっと考えがあるのだと信じる気持ちがある一方、やはり春雷の意図が全く推測できず問い詰めてしまいたくなる衝動に駆られる時もあれば、所詮一介の女官に過ぎない自分が出過ぎた真似をするのもいかがなものかと自制する理性も存在して、無意識に表情が暗くなっていたらしい。
「……霞琳殿、どうかしたか?」
心配そうな春雷の声を受けて、霞琳ははっと我に返った。やはり志文のことを口にするのは躊躇われて、大したことではないと告げる代わりに首を左右に振る。
「いえ、鄧昭儀様のことを考えておりました!鄧昭儀様は母親似、鄧将軍は父親似なのかなあと……!」
あはははー、と誤魔化し笑いを浮かべる。
適当に引っ張り出した話題にすらも生真面目な面持ちで考え込む春雷の姿を見ていると、嘘を吐いたことに対して小さな罪悪感が湧き立つが、それを敢えて胸の奥にしまい込む。
「……いや、嬌麗は父親似、鄧将軍は母親似だな。彼女の両親とは婚姻の際に会ったきりだが、そのように記憶している。」
「え。ええええええ、えええー!?!?」
「霞琳様、どうなさいました!?」
「失礼いたします!陛下、女官長殿、何事ですか?」
絶叫に近い驚愕の声に驚いたラシシュが奥から、志文が外から、それぞれ飛び込んでくるのも目に入らぬ程の動揺に陥った霞琳は、罪悪感も思考力どころか魂までが吹っ飛び抜け殻のように立ち尽くすばかりだったのだった。




