綾なす不穏
「お前、私のことを侮辱しているの!?」
「一体どうやって責任を取るつもり!?」
「ふざけるのも大概になさいよ!」
今にも宦官の胸倉に掴みかからんばかりの勢いで怒り狂う嬌麗。傍に控える侍女が制止するような振る舞いを取っているが、全く効果はないようだ。
そんな彼女たちに気取られぬように距離を取り、葉が生い茂る木の枝を両手に掲げ持つという古典的なカモフラージュを装いながら、霞琳、炎益、ラシシュの三人は植え込みの陰に屈みこんで様子を窺っていた。
大分離れているというのに、余程頭に血が上っているのか嬌麗の甲高い声だけは明瞭に響いてくる。相手の宦官はひたすらに頭を下げたり恐れおののいたりしている様子は見て取れるが、一体どんな釈明や謝罪をしているのかまでは聞こえてこない。
「――とまあ、こんな感じなんですよ。鄧昭儀様の唯一無二のご友人であらせられる霞琳様なら止められるんじゃないかなー、と思って助けを求めた次第なんですけど。後のことはお願いして良いですか?」
「いやいやいや、良くないです!全然駄目です!経緯が全く飲み込めてないですから!丸投げにも程がありますよ、炎益様!」
「あー、やっぱり?さすがの霞琳様でも難しいですかあー。」
「当たり前ですってば!……それで、鄧昭儀様は一体どうして宦官にご立腹なんですか?」
つい先程、「ちょっと助けてもらえませんか?」と執務室にやってきた炎益に連れ出され、訳も分からぬまま渡された枝を握り締め、言われるがまま盗み聞き同然の状況に陥っていた霞琳は、小声で問いかける。
嬌麗のヒステリーを目の前にして困惑しきっている霞琳に対し、元々春雷の側近なだけあって彼女のこんな振る舞いは見慣れているのか、普段と何ら変わりないのらりくらりとした態度の炎益。ラシシュはそんな二人を見遣って、どうしたものかと途方に暮れているようだ。
「……まあ、簡単に言うと陛下の即位を祝して下賜された品が一つ足りなかったらしいんですよ。鄧昭儀様の侍女の分が。で、責められてるのは下賜品の手配を担当した宦官ってわけです。」
「侍女の分の下賜品が足りないことに憤るだなんて、鄧昭儀は侍女思いの優しい主なんですね。」
「あー、霞琳様的にはそういう解釈になります?僕は単に、『自分の宮に届けられた下賜品の数が誤っているのは自分が蔑ろにされているからだ』っていう卑屈な考えで自尊心が傷ついちゃっただけだと思ったんですけどね。」
「それは……なくもない、かもしれません。」
仮にも妃嬪に対して失礼な言動は慎むべき――霞琳はそう窘めようとしたものの、嬌麗の性格に鑑みると炎益の推測が正しいような気もして、結局言い淀んでしまう。
霞琳は昨夜春雷から直々に下賜品を受け取ったが、他の者は今朝がた一斉に配布された。霞琳の執務室にも宦官がやって来て、ラシシュの分をきちんと届けてくれたのを確認している。
後宮に起居する女性の数は非常に多い。人間のやることである以上、本来あってはならぬこととはいえ、下賜品の配布数を誤ったとしてもやむを得ないように感じる。
「全体数が正しいなら、どこかで一つ余剰が出ているはずですよね。それは見つからないのですか?」
「それが今のところ、余っているという申し出はどこからもないんですよ。妃嬪の侍女や高位の女官に下賜する品なので対象者は限られてますし、虱潰しに当たれなくもないんですけどね。……折角の慶事がぶち壊しになるので、極力しない方向で。」
「そうですね、私もそれが良いと思います。疑われる方も気持ちが良くないでしょうから。――では、全体数が誤っていたという可能性は?」
「それはないでしょうね。陛下の即位に関わることなので万に一つも間違いがあってはならないって、必要数も発注数も複数人で何度も確認してますから。更に言うと、配布するための仕分けだって、数が多いので宦官総出で作業して何度も確認してるんです。少なくとも昨夜までは確かに合っていた。……正直、鄧昭儀様のところだけ数が合わないなんて有り得ない。意図的に誰かが仕組んだことでない限りは。」
「意図的に仕組む……。」
不意に真面目な面持ちになる炎益の横顔を見つめて、霞琳は絶句した。普段はおちゃらけた雰囲気の炎益がこれだけ厳しい表情をするのだから、宦官たちの仕事に間違いはなかったのだろう。
そうであれば、昨夜行ったという最終確認が済んだ後、誰かが下賜品を一つ抜いたのだ。
「……犯人に心当たりはあるのですか?」
「さあ、そこまでは。下賜品は厳重に管理されていたといっても保管場所の鍵を取り扱える宦官は僕を含めて何人もいますし、鄧昭儀様の宮に届ける途中でくすねたなら配布を担当した宦官が怪しい。それに鄧昭儀様の宮に届けられた後に侍女が盗んだ可能性だって否めない。」
「ちょ、ちょっと待ってください。侍女が盗むなんてありますか?鄧昭儀様にお仕えしてるのに?」
「霞琳様、後宮で他人を安易に信用しちゃ駄目ですよ。主は侍女を選べますが、侍女は主を選べないんです。もし侍女が嫌々仕えていたら、主に害を成そうとしてもおかしくない。そうでなくても、心根の卑しい侍女なら金目の物に目が眩むかもしれない。はたまた誰かに買収されてたり、元々別の主に仕えていて間諜紛いの使命を与えられて送り込まれてたり、なんてこともあるでしょう。
単純に考えれば、鄧昭儀様を快く思わない人物は他の二人の妃嬪とその後ろ盾の方々。特に劉司徒は、その派閥に与する家と縁のある宦官や宮女も少なくないですから、仕込もうと思えば幾らでもできるはずですよ。……まあ、単なる可能性の話ですけどね。」
「そう、ですか。……心に留めておきます。」
いつになく生真面目な顔つきで説く炎益を見つめていた霞琳は、衝撃の余りそれだけ返すのがやっとだった。
張家にいた時分、忠義に厚く父を慕う者ばかりで、陰口を叩かれることはあっても張家の子息である自分に手出しをするような者などいなかった。現在も、傍にいるのは自分に誠心誠意仕えてくれているラシシュだけ。春雷、徴夏、炎益といった面々も自分に好意的で、いつも助けて導いてくれる。今だって炎益は、嬌麗の件に託けて、後宮の恐ろしさや劉司徒の人脈の豊かさを遠回しに指南してくれているのだ。
そんな風に人間関係に恵まれすぎているせいか、霞琳は周囲の人間に疑いの目を向けるということが不慣れだった。だが、後宮で生き抜くためにはそれもまた必要な術なのだろう。
「私を馬鹿にするのも好い加減に――って、お前は……何よ、何の用なの!」
ふと嬌麗の一際甲高い声が変調を来す。
何事かとそちらに視線をくれると、昭光が侍女を従えてやって来たのが見えた。昭光が嬌麗に何か話しかけているようだが、やはりその声は聞き取れない。
霞琳は焦った。こんな場面で妃嬪同士が出くわすのは望ましくない。況してや今、炎益の指摘から嬌麗が陥れられようとしている可能性に思い至ったところなのだ。ただでさえ宦官に高圧的な態度を取る嬌麗の評判が落ちても可笑しくない場面で、これ以上彼女に不利な出来事が起こってはいけない。
「……炎益様、不足していたのは高位女官にも下賜される品というお話でしたね。それはラシシュに下賜されたのと同じものですか?」
「あ、そうですね。藍朱さんのと同じです。」
「なら良かった。――ラシシュ、悪いけれどあなたの下賜品を急いで持って来て!」
「畏まりました!」
ラシシュが枝を足元に置き、一礼して駆け出す姿を見送る。そうして後、霞琳はじわじわと嬌麗たちに近寄って行った。必死に耳を澄まし、辛うじて宦官や昭光の声が聞こえる場所までにじり寄る。
「……――まあ、では鄧昭儀様の侍女の下賜品が一つ足りなかったのですね。それは災難でございました。」
「そうよ、春雷様が即位されておめでたい気持ちだったっていうのに、最悪よ!」
「お気持ちはお察しします。……が、このような騒動でおめでたい雰囲気を壊してしまわれては、陛下もさぞお心を痛められることでしょう。宦官の方も手違いだったのでしょうし、そう責めては可哀想ではございませんか。」
昭光が美しい形の眉を下げ、哀れみを込めた視線をちらと傍らに投げる。それを受けた宦官は、まるで突如降臨した救世主に縋るような眼差しを向けながら両手を合わせている。昭光の扱いが最早神仏の域だ。
対して嬌麗は、こちらもまた整った形の眉を吊り上げ、益々怒りの形相を濃くする。突然入った横槍にみすみす刺されてやるような性格ではないのだ。
「何よ、お前は私が悪いって言いたいの!?」
「滅相もございません。ただ、ここは穏便に済ませるのが宜しいかと拝察したまでのこと。いかがでしょう、わたくしの侍女への下賜品を鄧昭儀様の侍女にお譲りするというのは。」
「はあ?ならお前の侍女はどうするのよ。」
「わたくしの侍女にはお気遣いくださいますな。下賜品一つと引き換えで陛下のご厚意に水を差さずに済むというなら、皆喜んで差し出すことでしょう。無欲で献身的な者ばかりですので。」
にこり、と昭光が浮かべる優雅な笑みに誤魔化されてしまいそうになるが、彼女の言葉は遠回しに嬌麗やその侍女たちを強欲と評し、春雷の即位に傷をつけるも同然の騒動を起こしていると批判しているに等しいのではないか。
「お前――!」
「――これはこれは鄧昭儀様に劉昭容様、このような場所でいかがなさいましたか?お二方がご一緒されているのは珍しいですね。」
昭光の嫌味を即座に理解した嬌麗が堪えきれずに手を上げたところで、霞琳の声が割って入った。
反射的に声の主を振り返る嬌麗と昭光の視線を受け、偶然の邂逅を装った霞琳がにこやかな笑みを浮かべつつ丁重に礼を返す。今しがた戻ったばかりのラシシュもその後ろに続き、整わない息が露見せぬよう深々と頭を下げて静かにゆっくりと深い呼吸を繰り返していた。
「まあ、女官長。これは偶然――。」
「霞琳、良い所に来てくれたわ!ちょっと私の話を聞きなさい!」
嬌麗は激情に駆られるまま昭光の言葉を遮るように勢い込んで話し始めながらも、信頼する霞琳の登場により徐々に落ち着きを取り戻したようで、振り上げた片手をわなわなと震わせたままではあれど拳状に握り締めて下ろしていく。
挑発したのは昭光の側といえども、物理的に手を出してしまっていたら嬌麗の方が咎めを受けるのは確実だったろう。宦官も心情的に昭光寄りであろうから、彼女に有利な証言をするに違いない。
昭光、ひいては劉司徒の優位性を高めかねない暴力沙汰を寸でのところで防げたことに霞琳は胸を撫で下ろしつつ、嬌麗の金切り声の訴えに耳を傾ける。経緯二割、感情八割がぐちゃぐちゃに入り乱れた彼女の説明だけだったなら極めて理解が困難であったろうが、炎益と盗み聞きをしていたお蔭で状況は全て把握済である。
それでも初めて聞いたと言わんばかりに双眸を丸めて驚いてみたり、嬌麗の気持ちに寄り添うように同情的な表情を浮かべてみせたりしているうち、彼女も鬱憤を吐き出しきって段々とすっきりしてきたようだ。
「それは誠にお気の毒なことでございました。――ですが、こちらでお会いできたのは何よりだったようです。」
「それは一体どういうこと?」
怪訝そうな表情を浮かべるのは、嬌麗のみでなく昭光もだった。霞琳はそんな二人に微笑みを向けてから、肩越しに背後のラシシュへと視線を投げる。
ラシシュは心得たように一礼して進み出ると、嬌麗へと身を屈めて下賜品の箱を恭しく差し出した。
「実は私のところに届いた下賜品が一つ多かったので、お返しに参ったのです。お話を伺った限りこちらは鄧昭儀様のところに届けられるべきだった品のようですので、このままお渡ししても宜しいでしょうか?」
柔らかな表情を崩さぬまま、霞琳は嬌麗と宦官を交互に見遣る。
嬌麗はぱあっと顔を輝かせ、従えていた侍女に指示してさっさと下賜品を受け取った。
宦官も否やはないようで、涙目で何度も繰り返し首を縦に振りながら霞琳に手を合わせている。
昭光だけは穏やかな顔つきが全く動かないので何を考えているか読めなかったが、「不足の下賜品が見つかって大変宜しゅうございました」という旨の言葉を残して早々にこの場を後にしていった。
霞琳は昭光の背を見送りつつ、騒動を収束させられたことに小さく一息吐き出した。下手な芝居を見抜かれまいかと冷や汗ものだったが、どうにかなったようで一安心だ。
さて、用件は済んだので戻ろう――そう思った刹那、がしっと腕を掴まれて双肩を跳ねさせる。
「ありがと、霞琳!やっぱりお前は頼りになるわ!――折角だから私に宮にいらっしゃいな。この後、お兄様が訪ねて来てくださることになっているのよ。お前に会わせてあげるって約束だったし、丁度好いわね!」
「え、ええ?今すぐですか!?」
「当然よ!私が呼んだら、お前は来ないといけないの!」
すっかり上機嫌になった嬌麗は、霞琳の返事も聞かずずるずると引き摺るようにして帰途に着く。
嬌麗の侍女とラシシュは互いに困ったような表情で顔を見合わせて肩を竦め、慌ててその後を追うのだった。
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「――劉昭容様、こちら、いかがなさいますか?」
己の宮に戻った昭光は、侍女を振り返る。その手に乗っているのは下賜品――劉司徒との縁がある宦官に指示して、嬌麗の宮に届けられる荷の中からくすねさせたものだった。
もう役に立たないそれを興味なさげに一瞥し、昭光は感情の消えた表情で前へ向き直った。
「処分しておきなさい。決して誰の目にもつかぬように。」
「承知いたしました。」
立ち去る侍女の靴音を背にして、昭光は冷めた色の瞳を窓の外に向ける。赤や黄といった温かみのある色に染まり始めた木々の葉を見上げた。
養父の野心を満たすため、一日も早く最有力の妃嬪として躍り出なくてはならない。
取り立てて長所が見当たらぬ栄節は、今のところ相手にする必要がなさそうだった。
故に標的としなくてはならないのは、名家ではないものの軍事力を有する実家を後ろ盾に持ち、春雷の最初の妻として幅を利かせている嬌麗だ。
そこで彼女に恥をかかせると共に自身の評判を上げるべく、まずは小手調べとのつもりで他愛ない謀を仕掛けたのだったが――。
「……張霞琳。妃嬪でもないあの女が、意外にも一番手強そうね。」
小さく呟き、重たげな瞼をそっと下ろす。
視界を染める闇が、さざめく心を鎮めてくれるようだった。




