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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
36/93

濤の前

 春雷を招き入れると、霞琳は拱手して深々と頭を下げようとしたところを片手で制された。その所作に従い顔を上げたままではあるが、向かい合う位置で足を止めた彼に心からの祝辞を丁重に伝える。 


「改めまして、ご即位おめでとう存じます。」

「ああ、そなたもこれで正式な女官長だな。これからも期待している。どうか私を支えてほしい。」

「過分なお言葉にございます。――それで、何か火急のご用でも?陛下もお疲れでいらっしゃるでしょうに、このような夜更けに態々ご足労いただくだなんて……。」

「そうだな、本来なら女性の元をこのような時刻に訪ねるものではない。が、どうしても今宵の内に、そなたを労っておきたかったのだ。」


 春雷は懐から取り出した小さな箱を霞琳に差し出した。

 霞琳はきょとんとした表情を浮かべたが、受け取れと視線で促され、おずおずと両手を伸ばす。蓋を開けてみると、中に鎮座するのはいかにも高級品らしい白磁の器。更にその蓋を開いて、霞琳の双眸は真ん丸になった。


「これは、……香辛料、ですか?」

「そうだ。そなたが以前、戎月国では茶に香辛料を入れるという話をしてくれただろう?それを好きだと言っていたから、調達してきた。――妃嬪の迎え入れから冊立の儀礼、そして祝宴に至るまで、本当によく働いてくれたな。」

「そんな、仕事ですから当然のことです。このようなお気遣いをいただくわけにはまいりません。」


 春雷の気持ちは嬉しい。が、職務を全うするのは宮女として当たり前のことだ。その当たり前を日々こなしている者が、後宮にはごまんといる。それなのに自分だけが特別扱いをされるのは違う気がする。

 そんな生真面目な態度を崩さない霞琳の性格を好ましく感じている春雷は微笑みを浮かべ、片手を立てる仕草により飽くまで返却は受け付けないという意思を示した。


「受け取ってくれ、霞琳殿。――実を言うと、それは即位にあたり宮女たちに下賜する品だ。私がそなたに対し気遣いをしたというなら、この度の働きを称賛し、どうしても自分の手で一刻でも早く下賜品を渡したかったというだけのこと。」

「左様でございましたか。……そういうことでしたら、ありがたく頂戴いたします。」


 新帝の即位を祝し、妃嬪やその侍女、宮女たちに記念の品を下賜するという話は聞いていた。その準備は宦官たちの担当らしく、宮女の数が余りに多いため調達も管理も大変だと炎益が愚痴を溢していたほどだ。

 春雷の説明によると、下賜される品は身分によって異なるという。妃嬪には遥か異国で採掘される宝石を用いた装飾品、女官長たる霞琳には香辛料、侍女や宮女は地位に応じて小物から異国の菓子に至るまで、多様な品を用意したらしい。その話を聞いて、霞琳はふと気づく。


「陛下、それらはいずれも西域から取り寄せたものではございませんか?」

「ああ、戎月国との交易で入手した。異国の品は貴重だから、皆が喜ぶと思ってな。」

「はい、きっと喜ぶでしょう。平時にもまして、今は一層希少な物ばかり……ありがとうございます。」


 霞琳の言葉にラシシュも春雷の意図を悟ったようだ。これ以上ないというほどに頭を低く下げて礼をしている。

 現在、ジュゲツナルム王国の内乱はかなり深刻な状態になっているという。それはつまり、ジュゲツナルム王国を西域への入口としている大青華帝国にとって、西方からの文物の供給が乏しくなることに等しい。

 それでも入手しようとすれば、内戦中という事情を無視し従属国たるジュゲツナルム王国に負担を強いて献上させるか、通常時からは考えられないほどに高騰した対価を支払うかの二択になる。敢えて後者を選択した春雷の目的は、交易という正当な手段によりジュゲツナルム王国に多額の資金を流して王家側を支援し、尚且つその態度を国内にも明示することでジュゲツナルム王国との外交関係を切り捨てようとしている群臣を遠回しに牽制することだろう。

 大国である大青華帝国の皇帝が、張家という軍事力、そして交易による資金をジュゲツナルム王国に投入して反乱を抑えようとしている。霞琳やラシシュにとって、これほど心強いことはない。シャムナラ姫もきっと喜んでいるに違いない。


「――あの、陛下。この度の儀礼に叔父の燈蓋が参列していたように思うのですが。」

「ああ、気付いていたのか。正蓋殿と褒琳殿が戎月国に出征中のため、名代として燈蓋殿が出席した。本拠地の惇興を余り長く留守にはできないからと、祝宴の前に帰ってしまったが。」

「……そうでしたか。少しでも会えないかと思ったのですが、残念です。」

「私も直接話す機会は得られなかったので、残念だ。『治論』を著した燈蓋殿には教えを乞いたかったのだが。」


 ジュゲツナルム王国の話題が出た流れで、霞琳は気になっていたことを聞いてみた。春雷の答えは凡そ予想通りで、燈蓋が上京したのはやはり正蓋たちが出陣していたためなのだとの確証を得る。

 いつも華々しく凱旋していた父や兄の姿を思い起こし、きっと今回も勝利を飾って帰還してくれるに違いないと信じてはいるものの、やはり彼らの身を案じて無意識に溜息が漏れる。

 その一方で、燈蓋と話してみたかったという春雷の言葉を耳にして、彼が張家領の統治を評価してくれていることを誇らしくも感じた。


「叔父とどのようなお話をなさりたかったのですか?」

「それはもう、話題は尽きぬ程にある。取り敢えず喫緊の課題としては、教育について伺ってみたかった。」

「教育ですか?」

「ああ、そなたも後宮でやろうとしているだろう?私も志ある者に広く門戸を開いて、優れた者は取り立てていきたいと思っている。政を正すためには多くの味方が必要だ。劉司徒や大伯父上の派閥に対抗するためにも、私の力となってくれる者を集めなくてはならないからな。……ただ、問題がある。」

「問題といいますと?」


 春雷にしては随分と高揚した声で語り出すのを聞いて、彼は三度の飯より女性より何よりも政治が好きな人なのだなと、霞琳は改めて感じる。政に意欲のある賢帝の誕生は、己を含むこの国の人々にとって大きな希望になることだろう。

 霞琳は双眸を細めながら春雷を見つめていたが、端正な顔が不意に陰る様子に首を捻った。


「まずは師となる者の選定だ。私が目指す政に親和性の高い思想を持つ者を招聘したいと考えている。それから数も揃えねばならない。質と量の確保が第一の課題だ。

 そしてもう一つは、費用の調達。教育を広めるためには広範囲に可能な限り多くの施設を用意する必要がある。そして師となる者への報酬も発生することに鑑みると、一時的ではなく恒常的に相応の予算を立てられるだけの費用を捻出できるよう財政を見直さなくてはならないだろう。」

「師と費用、……――陛下、僭越ながら後者については私に案がございます。」

「なんだって?」


 霞琳の反応が完全に予想外だったらしい。目を瞠る春雷を前に、霞琳は緩く握った片手を口元に添えて思案に耽りながら言葉を続ける。


「先帝にお仕えした妃嬪とその侍女が去り、後宮の人数は大分減りました。彼女たちのためにつけられていた予算は浮く見込みです。

 そして貴人が少なくなったということは、その世話や雑用を担当していた宮女の業務量が減ることを意味します。ならばいっそのこと、人手を削減しても問題ないでしょう。宮女が減れば彼女たちの衣食住に関する経費も圧縮されます。

 これまで毎年費やされていた相当な額が、今後は発生しなくなるのです。その分を教育に回してはいかがでしょう?」

「ふむ、後宮の予算を……。確かに、私がこれ以上妃嬪を迎えなければ必要経費が増加する懸念もない。」

「……それから師の方ですが、張家に命じて、叔父の薫陶を受けた者を数名借り受けてはいかがでしょうか。陛下の目指すものが『治論』に近いのであれば、『治論』で学び、『治論』の理念を正に実現させている者を招聘するのが最も手っ取り早く確実かと存じます。ただ、叔父が承諾するかどうかは判じかねますが……。」

「やはりそなたもそう思うか。私も燈蓋殿に頼みたいと考えてはいたが、今回という絶好の機を逃してしまった。……それでも何もしないより、改めて申し入れるしかなさそうだな。

 派遣してもらった者に、まずは数名の者を育成してもらう。彼らが十分に成長したら、更に後進を育てさせる。時間が掛かる上、質の良い師が育つ保証もないのが懸案であるが。」

「はい。ですが何事も最初から順調に進む保証などありませんし、最善を尽くすしかないかと。」


 今度は春雷が思考を巡らせながら紡ぐ言葉に、霞琳が頷きを返す。

 何事も一人で思い悩むより、口にしてみると考えの整理もでき、それが他者の前でなら新たな意見も得られるというものだ。今の春雷も正にそれで、先程まで浮かべていた悩ましげな表情は綺麗に消え失せ、進むべき方向を見出し決意に満ちた面持ちに変わっている。


「霞琳殿、礼を言う。そなたはいつも私に新しい道を示してくれるな。」

「お役に立てたなら光栄にございます。――ところで陛下、さぞかしお疲れでございましょう。少しはお休みなさってはいかがですか?宜しければラシシュにお茶の用意でもさせますが。」

「そうだな。では言葉に甘えよう。……――時に霞琳殿、それは以前に話してくれた香茶というものか?」


 それ、という言葉と共に春雷の視線が飲み掛けの香茶に向けられる。

 一見すると茶器に盛られた香辛料の山としか解釈できないそれを、春雷がなぜ香茶だと推測できたのかは分からない。しかし関心を持ってくれたのならば、ジュゲツナルム王国の食文化に触れてもらう良い機会になるだろう。


「はい、ラシシュが淹れてくれました。陛下もご希望であれば、この国のお茶ではなく香茶をご用意いたしましょうか?」

「成程、これが香茶というものなのか……すまぬ、まさかこれほど香辛料を使用する茶だとは思わなかった。そなたに下賜した香辛料の量では、一杯か二杯分にしかなるまい。……香茶とは、とてつもない贅沢品なのだな……。」

「い、いえ!あの、それはちょっと……事情が!そう、事情がありまして!」


 完全に勘違いをしたようで、片手を口元に添え真剣な表情で呟く春雷。

 霞琳流の香茶をもう一杯用意したら実家から持参した香辛料が跡形もなくなるだろう事態に顔を引きつらせるラシシュ。

 そんな二人に挟まれ、慌てて弁明を始める霞琳。


 霞琳が春雷の誤解をどうにか解くことができたのは、眠りに就く月が目覚めた太陽と入れ替わろうという頃だった。

 窓から差し込む眩い陽光を受けながら、霞琳と春雷はのどかに異国の茶を味わい、傍らに控えるラシシュが二人を微笑ましく見守る。――この日に起こる波乱など、まだ誰も予感すらしていなかった。


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