宴の後
「あああああー、疲れたあー……!!!」
任官の儀で精神力を大幅に消耗した後、霞琳は妃嬪冊立の祝宴の準備に追われる後宮の中を駆け回っていた。妃嬪たちの更衣を確認し、調理の進捗状況を見ながら会場の準備や女官たちの差配に気を回しているうちに、あれよあれよという間に早くも開宴の時刻を迎える。
春雷は勿論、劉司徒や治泰以下主要な群臣を賓客に迎えて盛大に宴が進行する裏で、なおも配膳や酒類の提供のタイミングを見計らい、はたまた余興として催される楽や舞の一座の対応もこなし、漸くお開きになる頃には心身ともに疲弊しきって床にへなへなと座り込んでしまった。
偶々最後まで会場に残っていた徴夏に見つかり、立ち上がれなくなるほど疲れ果てた不格好な姿をからかわれたり、その一方ではいつものように素直さに欠ける遠回しな言葉で大きな任務の達成を褒められたりしながら、なんだかんだで世話を焼いてくれる彼に力の入らぬ体を抱きかかえられて自室まで戻る――はずだった、のだが。
「本当にお疲れ様でした。まさか後片付けまでお手伝いなさるなんて。」
「だって、見てるだけなんて何だか申し訳なくて……。」
「ええ、承知しております。目下の者とも苦楽を分け合ってくれる、それが霞琳様の良さですものね。そんなところに感銘を受けて、霞琳様のお役に立ちたいと奮起する宮女も多いのですよ。」
「そうなの?」
徴夏に抱き上げられた状態で通りかかった厨の前で、憲樹やルェイホマたちに出くわした。憲樹はいつも通り無表情で感情が読み取れないが、ルェイホマは明らかに目を回して頬を上気させていたから、余程忙しく働きまわっていたのだろう。聞けば、酒宴で出た大量の残飯の処理、食器洗い、調度品の片付けなど、まだまだ仕事が終わらないのだという。
そんな話を耳にしてしまったら、彼女たちの上に立つ者として、体力や気力がないなどと言ってはいられない。結局自ら手伝いを買って出て、力仕事は徴夏を巻き込み、彼の存在に色めき立つ宮女たちを叱咤しながら後始末を終えたのはつい先程のことである。
既に頂点を通り過ぎ傾き出した月が照らすなか、完全に力尽きる寸前の霞琳を再び抱きかかえ、巻き添えにされた不平不満を零しつつも部屋まで送り届けてくれた徴夏はやはり良い人だと思う。
ぐったりとした体を椅子に預けながら、霞琳は室内を見回した。
広い部屋。
高い天井。
質の良い調度品。
これまでいた部屋に比較して格段に待遇が上がった。正式な任官に伴い、上級女官の部屋から女官長の部屋に移って来たのだが、なんとなく他人の部屋に上がり込んだようなそわそわと落ち着かない気持ちになる。
今まで宛がわれていたのは一部屋だったが、今度は一棟丸々自分のものとなった。といっても無論妃嬪の宮に比較すれば矮小なもの。そのうち私的な空間は一部に過ぎず、執務室や応接間といった職務のためのスペースが大部分を占めている。
それでもこの建物の主になったのだと思うと、自分の能力からは分不相応な気がして居心地が悪いような、春雷にの期待に応えられるよう精一杯努めなくてはならないと決意を新たにするような、相反していながらも確かに共存しうる感情が頭の中をぐるぐると渦巻く。
「霞琳様、少しお休みになってください。宜しければ、こちらを。」
「有難う、ラシシュ。……これ、香茶?」
物思いに耽っていたのを、疲労でぼんやりしていると勘違いをさせてしまったのだろうか。よく気が利くラシシュの心遣いを有難く受け取るべく勧められた茶の器を手にするや、立ち上る独特な香りが鼻腔を擽り、霞琳は驚いたように顔を上げる。
ラシシュは嬉しげに双眸を細め、どこか得意げに頷いた。
「はい、香茶でございます。勿論、厨での検査も済ませたものですのでご安心ください。――香茶がお好きだと、以前に仰っていたのでご用意してみました。」
「うん、大好き。でも香辛料を入手するのは大変だったんじゃない?」
「月貴妃様の侍女として後宮入りする際、父が持たせてくれたものです。異国でも故郷の味を懐かしめるようにと。」
「そんな大切なものを、良いの?」
「大切なものだからこそ、です。」
香茶はジュゲツナルム王国で飲まれる茶だ。大青華帝国では出回らない代物である。
茶葉自体は香茶も大青華帝国の茶も同種のものだが、気候の差や摘む頃合い、葉の乾燥のさせ方といった工程が全く違うので、同じ植物だとは思えぬほどに異なる風味や香りが出る。
香茶はそのままでも十分に美味だが、好みで山羊など家畜の乳を足すこともある。ジュゲツナルム王国は多民族国家だが、その人口の多数を占めるジュゲツナルム族のルーツは遊牧民であったことから、今でも家畜を飼い生計を立てる者も多く、庶民の間でも生乳やヨーグルト、チーズといった乳製品が出回っているのだ。
更に上流階級の間では、西域との交易で入手した香辛料を添えることがブームであった。今回ラシシュが用意してくれたのも、茶に香辛料を入れたもの。生乳は保存がきかないので、残念ながら入っていない。しかしそれでも十分に美味しく、主張が強すぎない香辛料の存在がじわりと胃の腑に沁み込んでいくようだった。
「美味しい……。」
「香辛料の量はいかがでしょう。少ないようでしたらこちらをお使いください。」
「有難う、じゃあ使わせてもらいますね。」
ラシシュが差し出す小振りな容器の蓋を開け、霞琳は嬉々と顔を綻ばせながら匙を手にする。
一杯。
二杯。
三杯。
匙に山盛りの香辛料が茶器に降り注いでいるが、霞琳の手はまだ止まらない。香茶に入れる香辛料の分量は好み次第だが、匙半分~一杯程度が一般的で、掻き混ぜたらほとんど見えなくなるものである。
「か、霞琳様、入れ過ぎではございませんか?」
「……あ、ごめん!貴重なものなのに、こんなに貰ってしまってはいけませんよね。ごめんなさい!」
「いえ、そういうことではなく……。」
確かに貴重なものなので、故国から持参した量は然程多くはない。が、それよりも気になる茶器の中身にラシシュがおずおずと視線を向ける。
浮いてる。
漂ってる。
寧ろもうお茶が見えない。
――黒や灰、茶色といった小さな粒の山が茶を覆い隠して、こんもりとしている。これではお茶を飲む前に香辛料が口の中に流れ込んで噎せ返ること必至だ。
「……あの、霞琳様はそんなに香辛料がお好きなのですか?」
「うーん、好きは好きだけど、何ていうか……私にとって香茶といったら、これなんですよね。」
「……一体どちらでこのような香茶を召し上がったのでしょう。」
「――姫様が。」
「え?」
「姫様が淹れてくれた香茶が、こんな感じだったんです。」
あれはまだ幼い頃、正蓋がジュゲツナルム王国を尋ねる際に連れて行ってもらった時のことだ。
滞在期間中、シャムナラ姫、慶琳、霞琳の三人は子供同士仲良く遊んで過ごした。
慶琳と霞琳は手土産として自国の菓子を持って行き、おやつの時間に三人で食べた。霞琳がもっと食べたいと兄に駄々をこね、慶琳が己の分を半分譲ってやる。
すると今度はシャムナラ姫ももっと食べたいと我儘を言い出すので、慶琳が泣く泣く残りの半分を差し出そうとしたが、彼女はそのうちの半分だけを受け取って「私ってなんて慎ましやかで優しいのかしら。流石はお姫様よね、そう思うでしょう?」とおしゃまな言葉と共に半分は返してくれた。そんな軽口に笑い合ったのは懐かしい話だ。
そしてシャムナラ姫はお菓子のお礼にと、香茶を淹れてくれたのである。
慶琳と霞琳の前に出された茶の容器には液体が全く見えないほどの香辛料が盛りに盛られており、これまで香茶を目にしたこともなかった二人は、そういう飲み物なのだとすっかり信じ込んでしまった。
初めて味わう香茶なるものにわくわくしながら慶琳が器に口を付けるや、咥内に香辛料が雪崩れ込んできて噎せ返ったのは当然の流れである。暫く咳き込み涙ぐむ慶琳を見て、楽しそうに笑い転げていたシャムナラ姫のあどけない表情は今でも鮮明に思い出せる。
とはいえ当時は、いくらなんでも酷かろうと恨みがましい視線を彼女に向けたものだが、「大事なお客様だから高級な香辛料を多めに入れて歓待の気持ちを表そうとしたのに、失敗しちゃったみたいね」などとしれっと言われてしまっては、慶琳は怒ることもできなかった。本気とも戯言とも判じかねる以上、もし前者だったなら彼女の優しい心遣いを蔑ろにしてしまう可能性があると思ったからだ。
まだ落ち零れ扱いをされる前、張家では若君として皆にかしずかれ大切に扱われていた慶琳にとって、無遠慮に、そして自由奔放に振る舞い、自分を翻弄してくるシャムナラ姫の存在は衝撃的だった。
思い返してみれば、この香茶事件が生まれて初めて恋に落ちた瞬間だったかもしれない。
なお、慶琳と霞琳はその後に正しい香茶を味わう機会を得て、シャムナラ姫が用意してくれたものはやはり常軌を逸した飲み物だったことを理解した。が、それでも慶琳にとっては、香茶といえば、今でもなお彼女が淹れてくれた茶――というより山盛りの香辛料なのだ。
そんな話をしながら匙を置いた霞琳は、茶器を手に取り口に運ぶ。軽く揺すってから静かに静かに傾け、黒や灰の層の下から姿を見せる茶と、その流れに乗って来た香辛料とを同時に咥内に迎え入れて、懐かしい味わいに舌鼓を打った。不用意に吸い込みさえしなければ香辛料が器官に入ることもなく、噎せることもないのだ。シャムナラ姫の香茶のお蔭で、こんなところだけ妙に器用になっていた。
ラシシュも霞琳とシャムナラ姫の思い出話に感じたところがあるらしい。なんとなくしんみりとした雰囲気に包まれたが、不意にその空気を打破する物音がこつんと響く。
扉から聞こえてくるその音を受け、反射的に身を翻したラシシュがそちらへ向かった。
「――陛下!」
「夜分遅くにすまない。入ってもいいだろうか?」
開いた戸の向こう側に佇んでいたのは、春雷であった。




