新たな波紋(前編)
「――随分と機嫌が良いようだな。今日はさぞかし気疲れしているだろうと思ったが、存外そうでもないようだ。」
「春雷様!……と、徴夏様も。」
「俺はおまけか、おい。」
自室まであと少し、というところで掛けられた声により、友人を得た喜びにふわふわと舞い上がっていた霞琳の意識が急速に現実へと引き戻される。
はっとして前方に視線を向けると、春雷と徴夏、そして初めて目にする男性が二人からやや離れた場所に控えていた。
雑な扱いに不平を口にする徴夏を無視することに決め込み、急ぎ春雷に駆け寄ろうとする――と、裙の裾を踏みつけて態勢を崩し、
「――うひゃっ!?」
「霞琳殿!」
「霞琳!」
盛大に前方へつんのめる霞琳が貴族令嬢にあるまじき悲鳴を上げるが早いか、春雷と徴夏がほぼ同時に焦った声を上げて手を差し伸べて来る。しかしあとほんの僅か、二人の指先は届かない。
(――転ぶ!)
霞琳は観念して固く双眸を閉ざす。が、覚悟していた衝撃は全く襲って来なかった。
「……?」
恐る恐る瞼を持ち上げると、視界いっぱいに誰かの胸元が飛び込んで来る。次いで両肩に節ばった指や大きな掌の感触を覚え、霞琳は誰かが自分を助け支えてくれているらしいことを理解した。
「……ご無事でいらっしゃいますか?」
「は、はい!有難うございます!」
耳に心地よく響く落ち着いた声は、妙に機械的な平坦さがあった。
それが霞琳には直感的に、自分に向けられる不快感の表れのような気がして、強張らせた体を起こし相手を見上げる。自分を助けてくれた割には心配している風でも無く、端正ながらただただ無感情な顔つきをしている男性だった。しかし目が合った次の瞬間、霞琳の背にぞっとしたものが走り、恩人に対し無礼にも咄嗟に顔を横に背けてしまう。
彼の瞳は黒々と艶やかで美しく、苛烈なまでの存在感に溢れている。だが、その眼差しに込められた感情は極めて冷ややかなものに感じられたのだ。強い目力を持つ者から注がれる視線を受け止めるのはただでさえ緊張するというのに、嫌悪のようなものが見え隠れする、射抜かれんばかりのそれと真正面から対峙するほどの胆力は、霞琳にはなかった。
「……いつまで触ってんだよ。霞琳はあんたが気安く触れて良いような人間じゃねえ。」
すっかり竦んで動けなくなっていた体が突如伸びて来た腕にぐっと引かれるや否や、これまたあからさまに不機嫌極まりない低い声色で吐き捨てる徴夏の腕の中へとすっぽり収められていた。
「ちょ、徴夏様、あの方は私を助けてくださっただけで……!」
「――李司隷大夫様の仰る通りです。お助けするためとはいえ、高貴な女性のお体に触れてしまいましたこと、平にご容赦願いたく。」
「い、いえ、私こそ不注意でお手を煩わせてしまいました。誠に申し訳ございません。」
(……ていうかこれ、どういう状況?)
謝罪の言葉を口にしながら、霞琳は自分を挟んで対峙する二人の男性の様子を交互に窺い見る。
春雷と徴夏が一緒にいるのはいつものことで、その点には何ら疑問はない。もう一人の男性は初対面だが、ここまでの遣り取りや二人からやや離れた位置に控えていたところから察するに、徴夏よりも身分が低いのだろう。春雷の新たな従者なのかもしれない。
しかし、よりによって春雷の傍近く仕える者たちが不仲――正確には徴夏が一方的に彼を嫌っているだけなのかもしれないが、いずれにせよそういう状況は望ましくないのではなかろうか。
そして霞琳には、今何よりも気になって仕方がないことがある。――徴夏の手だ。
霞琳を守るためなのだろうが、しっかりと腰に回されている手の感触に落ち着かない心地を覚える。
霞琳の体はまだ少年らしさを残していて、女性のように柔らかみもなければ曲線的でもない。随分と硬くて寸胴な体だと徴夏に揶揄されるのは構わないが、そのような体型の特徴から自分が女でないことが露見したらと考えると、冷や汗が背筋を伝う思いである。
かといって、固まって動けなかっただけとはいえ誰とも知らぬ男性の腕の中には暫し大人しく収まっていながら、徴夏の腕の中からはさっさと抜け出そうとしたならば、それはそれで不自然であろうし、徴夏に失礼である。
困った――と思った矢先、霞琳の体は再びぐいっと引かれて徴夏の腕から脱していた。次に収まった先は春雷の腕の中であると気付き、霞琳は焦って彼を振り返る。
「春雷様!?」
「徴夏、そなたも余り女性を抱き締めていては失礼になるぞ。そうだろう?霞琳殿。」
「え?ええっと、あの……?」
「ちゃっかり霞琳を抱き寄せておいてそういうこと言ってるお前は何なんだよ、春雷。」
「私は良いのだ。そうだろう?霞琳殿。」
「え?ええっと、あの、……すみません余り良くありません!」
「……だとよ、春雷。可哀想にな。」
「おや、これは手厳しい。」
おかしそうに笑う春雷の腕の中から抜け出して、霞琳は先程転倒しかけた拍子に着崩れた衣類を手早く正す。主に対して失礼な態度を取ってしまったことにばつの悪さを覚えながら彼をちらりと横目で盗み見るが、霞琳の振る舞いについては全く気にしていないらしい、というよりも想定通りのようで平然としている。
徴夏が駄目で春雷は良い――その春雷の理屈は、何も知らぬ他人からすると無茶苦茶な理論であろうが、霞琳には理解できた。霞琳の性別を知っているか否か、それがその判断基準であるに違いない。春雷はその秘密を守るため、女性慣れしている徴夏の手許から霞琳を救い出し、そして妙に息が詰まる雰囲気になってしまった場に態と冗談を差し込んで和ませようとしたのだろう。その甲斐あって、つい今しがたまでぴりぴりとしていた徴夏の雰囲気も緩みはしたが、なぜか春雷を憐れむ視線を送ると同時に女性の扱い方がどうのこうのと懸命に説法を開始してしまったようだ。それを春雷は笑顔のまま、明らかに興味がなさそうに適当な相槌を打ちながら聞いている。
春雷が霞琳に懸想している――徴夏がそんな誤解をしているなどとは微塵も知らぬ霞琳は、手応えのない反応しか返さない春雷に焦れたように徴夏の熱弁がヒートアップしていく様を、首を傾げつつ眺めていた。暫くそうしていたが、自分を助けたせいで興味のない内容の押し売り講座を受けさせられ続ける春雷が可哀想になって来る。
「――あ、あの!ところで春雷様は私にご用がおありだったのでは?わざわざ足をお運びくださったのですよね?」
「ああ、そうだ。すっかり忘れていた。」
「忘れんなよ、お前。大事な用件だろうが。」
そうだったと言わんばかりに掌を拳で打つ春雷に突っ込みを入れる徴夏。そんな二人を目にした霞琳は、すっかりいつもの調子だと安堵の息を吐いた。
「きっとお待たせしてしまったんですよね。中でお待ちくださればよかったのに、……ラシシュはお招きしなかったのでしょうか。」
「いや、藍朱は中で待つよう勧めてくれたが、私が外で待つと言ったのだ。少しでも早くそなたの顔を見たかったから。」
「えっ……!」
美しい顔を柔和に綻ばせた春雷の手がぽんと頭に乗り、霞琳は瞠目して言葉を失う。
春雷はれっきとした男性だが、そこらの女性では比較にならぬ程に嫋やかな美貌を誇る微笑み、そして労わるように撫でてくる優しい手つきを受け止めたら、譬え男性であっても何も感じずにいられる者はいなかろう。
少なくとも霞琳は、不覚にもじわじわと頬に熱が集まって来るのを自覚し、彼を直視できずに頭を左右に振りながらとうとう面を両手で覆い伏せてしまった。
(春雷様、美貌の無駄遣いっぷりが凄まじいです……!)
もしも春雷が女性だったなら、霞琳は間違いなくときめいてしまっていた。そんな仮定の話を思い浮かべるだけでさえも、心に決めた唯一の女性に対する勝手な罪悪感が湧き上がって悶々とする。
そんな霞琳を他所に、
「――徴夏、これで良いのか?そなたが先程力説していた通りに振る舞ってみたのだが、霞琳殿の様子がおかしいような……。」
「いやいやいや、おかしくない、あれでいい!よくやった、春雷!」
聞いていないようでちゃんと耳を傾けており、これ以上の煩わしい説法を避けるべくちゃっかりと教えを実践してみせる春雷と、彼の初恋――といっても完全なる誤解であるが――を応援したい徴夏が達成感に満たされた清々しい面持ちで、身を寄せ合い小声でひそひそ話している。
「――お取込み中のところ誠に畏れ多きことにございますが、皆様そろそろ中にお入りになられてはいかがでしょうか。お茶のご用意も整っております。」
収拾のつかない空間に一石を投じたのはラシシュのよく通る穏やかな声色だった。
外から話し声が聞こえ始めたので霞琳の戻りを察したようだが、いつまで経っても誰も入って来ないので自ら扉を開けて招き入れることにしたようだ。
まだ朱が引き切らぬ顔をぱっと上げ、霞琳はラシシュに対し救いの女神でも見つめるような双眸を向ける。
「ラシシュ、ありがとうございます!――ということで、皆様お入りください!春雷様、大切なご用事を伺わせていただかなくては。」
「ああ、そうだな。志文、そなたは此処で待機するように。」
「承知仕りましてございます。」
志文と呼ばれた男性――即ち先程霞琳を助けてくれた人物は、やはり春雷たちから若干の距離を置いた位置に控えていたが、拱手と共に恭しく頭を垂れた。依然として無表情のまま、力強い瞳は伏せがちの長い睫毛に隠して存在感を薄れさせているようだ。
(――志文様、と仰るのか。)
霞琳は入口に向かいながら、ちらと横目で彼を見遣る。春雷が室内にまで連れて行かないということは、身分が低い者なのだろうと考える。
先に部屋に入った春雷の背中に視線を向け直す時、自分と同じく志文を一瞥していたらしい徴夏の姿が視界に入った。徴夏は眉間に深く皺を刻み、敵意を隠そうともしていない。良くも悪くも好き嫌いがはっきりしている徴夏だが、ここまで嫌悪感を露わにするのも珍しいように思う。
と、徴夏もまた前方に向き直るに合わせ、霞琳と目が合った。途端、表情に懊悩が滲み、“後で”と唇が動くのを見て取る。一体何を聞かされることになるのか分からないが、春雷の耳に入らぬように伝えられた以上は余程重要な内容なのだろう。霞琳は戸惑いながらも小さく首肯を返した。
そこはかとない不安を覚えながら、霞琳はもう一度志文を振り返って頭を下げ、改めて春雷と徴夏の後を追い自室に入ったのだった。




