劉司徒と劉昭光(後編)
「――時に霞琳とやら。」
不意に劉司徒に名を呼ばれ、霞琳ははっとして双肩を大きく跳ねさせる。
先程まで昭光を熱烈に見つめていたはずだというのに、霞琳の表情の変化にも目敏く気付いていたらしい彼の眼は、極端に細いにもかかわらず尋常ではない存在感を放つよう鋭いぎらりとした光を湛え、こちらを射抜いている。
霞琳は背筋がぞくりとした不穏な空気に襲われるのを覚え、冷や汗が滲む顔を隠すように深々と礼をしながら、声の震えを必死に堪えて返答を紡いだ。
「……はい、何でございましょう。」
一見すると愚物にしか思えない彼を軽く見過ぎていたのかもしれない。
若き頃は才子として皇帝に見出され、その片腕として王氏の変を成功させ辣腕を発揮した人物だ。今はその片鱗が見えないとしても――否、もしかしたら敢えて見せないように遊興に耽っている振りをしているだけなのかもしれない。
春雷が相手にしている得体の知れない敵の恐ろしさを、霞琳は今まざまざと思い知らされている。
「褒琳はいつ我が娘を娶ってくれるのだろうか。このままずるずると先延ばしにされては、娘が行き遅れだと嗤われてしまう。……それとも自然消滅を狙っての振る舞いか?」
「よもや、そのようなことは――……!」
まさか兄の縁談の話が飛び出してくるとは完全に予想外で、霞琳は咄嗟に否定の言葉を口走るだけで精一杯だ。
正蓋が劉司徒を快く思っていないのは事実である。婚儀の日取りを明確にしない意図は分からないが、破談を目論んでいる可能性は十分にあるだろう。兄の許嫁となった女性が、劉家と張家の微妙な関係のとばっちりを受けている点については、霞琳としても同情を禁じえない。彼女はとうに婚約が決まりながらも、妹や劉家の養女たちが一足先に次々と嫁いでいくのを眺めながら、無為に歳を重ね続けているのだから。
褒琳は現在二十歳。この時代の貴族で、二十歳にもなって未婚というのは極めて珍しい。兄の婚約者の年齢までは知らないが、恐らく同世代だろうから、彼女が後ろ指をさされていても可笑しくはない。
周囲から馬鹿にされる行為を受ける辛さは霞琳自身がよくよく知っているだけに、劉司徒と縁戚になりたくはないが、令嬢の気持ちを推し量ると胸が痛む。
「……ご懸念はご尤もでございますが、ご存知のように兄はいつなんどき出陣するとも知れぬ身。婚儀の日取りを決めても守れない可能性がございますので、そのような失礼を犯すまいとしているのでしょう。平にご容赦くださいませ。」
「まあ確かに、戎月国は長らく混乱が続いているからのう。月貴妃が後宮入りした時は王家側が勢いづいて反乱勢力を大分圧迫したようだが、今はまた反乱軍が盛り返しているという。褒琳も何度も出陣しているというから、仕方ないのかもしれんな。」
霞琳ははっとして双眸を丸め、今日一番というくらい劉司徒の話に熱心に耳を傾ける。
思えば後宮に入ってからというもの、外界の情報をリアルタイムで入手する手段は春雷や徴夏の話くらいしかなかったが、ジュゲツナルム王国に関する話題は特段上がった記憶がない。それはきっと、シャムナラ姫を喪い悲嘆する霞琳に配慮してのことだったに違いない。
だからこそ、生理的な嫌悪感を拭えない劉司徒の言葉であっても、久々に聞くジュゲツナルム王国の政情は霞琳にとって極めて重要事項であった。
ジュゲツナルム王国の平和のため、大青華帝国との関係性を深めるべく後宮入りしたシャムナラ姫。その婚姻により王家が優勢になったのは喜ばしいことであり、もし今彼女が生きていたなら、自らを皇帝に献上したことをさそかし誇らしく感じたことだろう。
しかし現実には、シャムナラ姫の命は果敢なく散ってしまった。それを契機として反王政派が活気づき国内を蹂躙しているのであれば、シャムナラ姫という犠牲は完全に無駄になってしまっているも同然だ。
遣る瀬無い思いの迸りを抑えるように、霞琳はぎりりと奥歯を噛み締める。
「しかし戎月国など放っておけばよいものを。月貴妃が亡くなってこの方、国内が落ち着かないとはいえ碌に従属国として朝貢や使節派遣の務めも果たしておらぬ。ならば我が国とて、手を差し伸べてやる義理などあるまい。戎月国が持ち直すも滅びるも、知ったことではないわ。」
そうすれば褒琳と娘の婚姻も成せるのに、と盛大な溜息を零す劉司徒の言葉を受け、霞琳はかっと頭に血が上るのを自覚した。
思わず顔を上げ我を忘れて叫び出しそうになる霞琳の感情をすんでのところで押し止めたのは、優しく美しい声だった。
「嫌ですわ、お養父様。そんな恐ろしいことを仰らないで。もし戎月国が滅びたら、我が国の国境も脅かされてしまうかもしれません。
そうならぬよう張将軍もご子息もお勤めに励んでいらっしゃるのでしょう?戎月国が平和になれば張家の皆様にも安息が訪れ、お姉様の婚儀も成せるではございませんか。」
「おお、流石は昭光。お前のような美しく聡い養女を持って、私は幸せ者だ。そしてそんなお前を妻にできる殿下は、なんと恵まれた御方よの。たっぷり可愛がってもらうのだぞ。」
あの眼光は見間違いだったのかと錯覚するほど、すっと存在感が薄まった目尻を下げながら、劉司徒は再び昭光に向き直り、その華奢な肩や腕を執拗に撫で摩っている。
昭光はといえば、春雷の気持ちに言及するのは畏れ多いなどと顔を赤らめ恥じらう素振りを見せながら、さり気なく劉司徒の手を避けるよう身を捩っている。そして顔を逸らす仕草の流れで霞琳に眼差しを流し、劉司徒には見えない角度で、霞琳を心配し労わるかのように眉を下げつつ双眸を細めた。
(……助けてくれた、ってこと?)
劉司徒への憤りは収まらない。
そして、劉司徒の養女でありながら霞琳への配慮を滲ませる昭光の心の内が読めない。
――が、昭光の助け舟に乗らなければ女官としてあるまじき失態を犯しかねず、それは春雷の不利益になってしまうに違いない。
霞琳はもう一度、固く固く奥歯を噛み締める。激情ごと噛み砕いて飲み干すために。
「昭光様の仰せの通り、早く平和が訪れることを私も願っております。私も一日でも早くお義姉様を張家にお迎えできる日を待ち侘びておりますので。
――御多忙な御二方のお時間を長らくお割きくださり、誠に有難う存じます。これ以上お気遣いいただくのは心苦しゅうございますので、そろそろお暇を頂戴いたします。」
小さく深呼吸をして、霞琳はにっこりと笑みを顔に貼り付ける。
劉司徒はそうかと適当な相槌を打つのみで、霞琳には全く興味を示さず、やはり昭光を褒めそやすのに夢中になっている――振り、なのかもしれないが、最早霞琳にとってどうでもいい。
昭光は改めて、不慣れな後宮生活で女官長を頼りにしている、どうか宜しくと挨拶を添え、優美な微笑と共に霞琳を送り出してくれた。
丁寧に一礼した霞琳は、振り返ることなく真っ直ぐな足取りで宮を後にする。
時間が経つに連れ、腹の奥から憤懣が沸々と蘇ってくるようだ。
周囲に誰も居ないのを確認し、霞琳は耐えに耐えた感情を爆発させて表情を歪める。悔しさから涙も滲む。流石に声を上げるのは抑えたが、代わりに唇に立てた歯が皮膚を破って血が滲んだ。
劉司徒は長きにわたり朝廷の中枢に陣取っている人物で、貴族たちの情報など十分すぎる程に承知しているはずだ。況してや娘の嫁ぎ先の張一族について無知なはずはなく、霞琳の母親がジュゲツナルム国王の妹姫であることくらいは当然把握しているに違いない。しかも霞琳はシャムナラ姫の侍女として後宮に来たという経緯がある。
それを承知の上で、よくも霞琳を目の前にしてジュゲツナルム王国の存亡を軽視した発言ができたものである。つまりそれだけ、彼にとって霞琳など取るに足りぬ存在だと言外に示しているのだ。
もしかしたら霞琳だけでなく、張家までをも侮辱していたのかもしれない。そしてその事実を霞琳に認識させるために態と挑発していた可能性もある。
考えれば考える程、込み上げる激情が収まらなかった。
いずれにせよジュゲツナルム王国との外交関係を些事とする劉司徒の政は、自分にさえ災禍が及ばなければ何処で戦が起こり如何程の兵や民、ひいては貴族が命を落とそうが、一切を省みないものである。
それは霞琳や春雷の目指す道と交わることは決してない。
(劉司徒と私たちは相容れない。絶対に負けられない……!)
シャムナラ姫の想いを無駄にしないために。
命を賭して戦場を駆ける父や兄のために。
そして新たな世を創り出そうとする春雷のために。
霞琳は決意を新たに胸に刻みながら、目許を拳で強く拭い、涙を止める。
唇に指先を這わせると、皮膚が濡れた赤に染まった。ぷっくりと丸く膨れ、僅かな振動にさえも崩れそうに震えるそれを舌先で舐め取り、今日を忘れないと己の血に誓う。
まだ目許は赤かろうが、移動しているうちに落ち着くだろう。
霞琳は険しく強張る頬を両手で勢いよくぱんと挟み、掌でぐりぐり解してやる。
そうしてから口角を持ち上げて唇を弧状に緩め、目許を綻ばせてみる。一連の顔の筋肉の動きは違和感がなく、霞琳は自分が笑顔を浮かべられていることを確認した。
強くなった、と思う。
張家の落ち零れだと自認して何もかもを諦めるのが得意だった頃よりも、最愛の女性を喪い死にたいと嘆くばかりの無気力な日々を送っていた時よりも、遥かに。
そのきっかけをくれた春雷の役に立つため、自分は今ここにいるのだ。
霞琳は肺一杯になるまで大きく深く息を吸い込み、しっかりとした足取りで最後の宮へ向けて歩を踏み出す。
凛然とした双眸を真っ直ぐ前に見据えたその横顔に、先程まで泣いていた痕跡はもうどこにも見当たらなかった。




