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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
27/93

李治泰

「――おぬしが張霞琳か?」

「は、はい!?」


 気が緩んだところで突如掛けられる声ほど動揺するものはそうそうない。

 咄嗟に上擦った返事を口にしながら焦って振り返ると、威厳を伴った白く長い眉と髭が印象的な、質素だが相応の衣類を身に纏った細身の老人が立っていた。


(男性?……まさかこの方が、治泰様……。)


 後宮は原則男子禁制ではあるが、医師や普請の人夫など必要性ゆえに命じられた者のほか、正式な手続きを経て許可を得た者も条件付きで入ることが許される。これは主に后妃の親族や後見人が利用する制度である。

 出で立ちや外見年齢からいって、この人物は治泰で間違いないだろう。すっかり油断して間の抜けた姿を晒してしまった状況に嫌な汗が背を伝う。


「……ふん、礼儀のなっていない女子よ。張家の娘というから妃嬪に推そうとも思ったが、止めておいて正解だったようだな。」

「……はい?」


 男性はじろじろと値踏みするような視線で霞琳の頭の先から爪先まで何往復も眺め回した後、鼻で嗤って呟きを漏らす。

 その内容の予想外さに再びぽんこつな相槌しか出て来ず、男性は益々眉根を寄せながら片手を軽く下方へ振る。それを頭を下げろという意味だと解釈して、今更ながらに霞琳は慌てて礼をした。

 目上と思しき人物を前にぽかんと突っ立っていたのでは、確かに礼儀のなっていない人間と判じられても反論できない。この男性もやたらと居丈高でどうかとは思うが、相手がそうだからといって自分が非礼を行ってよい道理はない。恥ずかしさに顔から火が出そうだ。


「ご、ご無礼いたしました。――恐れながら、李治泰様とお見受けいたします。ご明察の通り、私が張霞琳でございます。ご挨拶が遅れ、申し訳のうございます。」

「うむ、私が李治泰である。頭を上げるが良い。」

「忝のうございます。」


 丁重な態度を示したせいか、治泰の振る舞いが若干軟化したようだ。

 顔を上げると、矍鑠とした体を僅かに踏ん反り返らせながら髭を撫でつける仕草が見て取れた。


 大青華帝国では、皇帝の血を引く者は“皇族”と称されるが、特別待遇を得られるのは皇帝の子――皇子ないしは公主までである。皇子の子孫は“皇族”ではあるが待遇は一貴族扱いになる。つまり、徴夏のような“皇族”はそれなりにいるが、現在、皇子は春雷とこの治泰しかいない。そういう意味で、彼が他の追随を許さぬ貴種であることは間違いない。

 治泰は、時の皇帝――春雷の曾祖父の長子であった。母は当時の貴妃であったため後継者として期待され、本人もそのつもりだったようだ。しかし後に皇后が男子を生み、結局その皇子が次の皇帝となった。治泰は掴みかけた帝位がするりと指の隙間から零れ落ちる喪失感を覚え、彼を次期皇帝などと調子の良い阿諛追従を並び立て媚び諂っていた者たちには一斉に掌を返されるという屈辱を味わったに違いない。そんな幼少期の経験から自尊心に歪みが生じ、兄という立場から喧しく弟たる皇帝の言動に逐一口出しを行い、それは更に次の皇帝――春雷の父帝の代にまで及んでいたという。その煩わしさを想像するだけでも、王氏の変に託けて彼を排斥した皇帝の気持ちも理解できそうになってしまう。

 そしてそんな治泰が返り咲き、春雷に同様の振る舞いをしようとしている。いつまで経っても変わらない辺りが厄介なものだが、拗らせたプライドを数十年にわたり維持し続けているというのもある意味では称賛に値し、ある意味では憐れな老人なのかもしれなかった。


 そしてその老人が今、聞き捨てならないことを口にした以上、霞琳は勇気を出して問わずにはいられない。


「……あの、失礼を承知お伺いしたいのですが、お許しいただけますでしょうか?」

「構わぬ。申せ。」

「ありがとうございます。……先程のお言葉、不肖の私を妃嬪にとお考えになったことがおありだったのでしょうか……?」


 自分で口にしながら、霞琳は些かぞっとする。装いこそ女だが、今でも心は男である。それが春雷の妃嬪になるなど、悪い夢でしかない。

 そんな霞琳の気持ちなど知る由もない治泰は、霞琳が妃嬪になれなかったことを惜しんでいると勘違いしたようで、髭を撫でながらにやりと口端を持ち上げる。


「まあ、ほんの一時だがな。現在も官職に就いている由緒正しい家は最早張家のみ。加えて丁度良い年頃の息女がいるとなれば、候補として考えるのも当然であろう?

 ……だが、張将軍が乗り気でなかったのだ。それに女官として傍に侍りながら春雷の手が付いていないと聞いた。であれば女としての魅力がないのだろうから、妃嬪には不向きだと判じたまでよ。」


 後半部分の女性に対し極めて不躾な発言はこの際措いておくとして、どうやら治泰は正蓋に打診して断られていたようだ。当たり前である。正蓋は霞琳を身体的に健全な男児であると思っているだろうから、態々霞琳(息子)を妃嬪にして自らの首を絞める所業に同意するはずもない。

 結果的に妃嬪に推薦されることもなく済んだとはいえ、霞琳は自身が――より正確にいえば、“張家の娘”という存在が、朝廷内の権力闘争における駒の一つとして見做されていることを自覚した。

 これまで霞琳は、朝廷といえば春雷や徴夏が劉司徒や治泰と対峙する舞台であり、観客になる資格すら与えられない無縁の場所だと認識していた。霞琳にとって、あくまで自分の戦場は後宮だという考えであった。しかし、自分自身が直接関わることが許されない朝廷までもが、自分にとっての戦場なのかもしれない。少なくとも治泰に利用されかけたということは、劉司徒もまた霞琳の価値を探り、転がすなり潰すなり画策していてもおかしくはないということだ。

 昭光の宮にはこの後に挨拶へ行く予定だが、栄節の宮に治泰もいたのだから、もしかしたら劉司徒も来ているかもしれないということに、はたと思い至る。


(何も知らず劉司徒にいきなり出くわしたらこの程度の動揺じゃ済まなかったろうし、教えてくれたも同然の治泰様には感謝しよう……。)


 ただでさえ妃嬪への挨拶は緊張するというのに、更に劉司徒にも会うかもしれないとあらば胃の腑が痛むような心地に、眉を下げつつ片手をそっと胸に添える。

 その仕草は、傍目には先程の治泰の言葉を受け己を真摯に省みる女性的な振る舞いに映っているなど、霞琳は知らない。しかし治泰は、おやとばかり微かに眉を持ち上げて、ふんと鼻腔から息を抜いた。


「――女としては不足のようだが、女官としてはまあ悪くはないようだな。」

「……え?」


 散々霞琳を扱き下ろしておきながら、一体どういう気の変わりようなのだろう。

 霞琳は驚きと警戒で訝しげに治泰を見上げると、彼は穏やかさを湛えた双眸を宮に向けていた。霞琳も釣られてそちらを見遣る。


 霞琳がこの宮を栄節に宛がった最大の理由は、彼女の先祖にあたる公主が嘗て起居していたという所縁ある建物だからだ。

 後宮の中でも最初期に建設された宮の一つであるため、非常に年季が入ったこの建物は、質実剛健を好んだという初代皇帝の性質を反映してか、伝統美を意識した装飾が最低限のみ施されている。その佇まいは、華やかさには欠けるが歴史や気品を感じさせ、三人が住まう宮の中で最も格調高いものといえよう。その点は保守的な治泰の意に適うとも、霞琳は考えた。

 強いて欠点を上げるとすれば、元々いずれは降嫁する公主の一時的な住まいとして建てられたためか、同時期に設けられた后妃の宮に比べるとやや手狭ではある。しかし後代に追設された妃嬪の宮よりは広く、生活に不自由はないはずだ。


「……栄節に相応しい宮を見繕ったことは評価する、と言っている。有難く思え。」

「――はい、過分なお言葉、感謝申し上げます!」


 褒め慣れていないのか、礼を言い慣れていないのか、どこまでも尊大な治泰は顔を逸らしながら一言添えると、足早にその場を立ち去っていく。

 面喰った霞琳はその背中を見送りながら、僅かに遅れて謝辞を紡いだ。

 治泰に聞こえるようにと張り気味にしてしまった声に対し、「女が大声を出すなどやはり品がない」などと手厳しい呟きが風に乗って聞こえて来た気がしたが、そのまま流れる空気に任せて捨て置くことにする。

 治泰のあの様子では、霞琳が栄節のためにこの宮を選定した理由もきちんと察しているのだろう。初仕事に対する評価としては十分だ。

 まだ強敵の劉司徒が残っているとはいえ、一先ず治泰に認めてもらえたことは素直に喜ばしく感じられ、自然と緩みそうになってしまう頬を両手で押さえ引き締めようと試みながら、霞琳は次の宮へと向かったのだった。


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