曹栄節
春雷の即位まであと一月半ほどになってから、霞琳は俄に慌ただしくなってきた。
妃嬪に関連する儀式の事前確認のためということで、各部署からひっきりなしに呼ばれては駆け回っている。儀礼の進行、会場のレイアウト、妃嬪が着用する衣裳、祝宴に招く賓客の一覧、余興の内容に至るまで、今までノータッチでいただけに突然あれこれ詰め込み始めた頭が完全にパンクして湯気が噴き出しそうだ。
全然内容が理解できていないことに酷く不安を覚えはしたが、どこに行くにも付き添ってくれる女官長の話では、立場上、最終確認として形だけ決裁する必要があるのだという。彼女とて全ての事項を完全に把握しているわけではなく、それぞれの部署の責任者がそれで良しとしていればまず問題ないとのことだった。
霞琳は安堵する一方、今度は理解不足の状態で決裁をするのは無責任ではなかろうかと、持ち前の真面目さに起因する恐ろしさが湧き上がって来た。が、
「霞琳様、部下を信頼することも上に立つ者の仕事ですよ。」
笑顔の女官長からそう諭されれば、それもそうかと思い直す。
とはいえ、だからといって各部署の仕事を他人事だとは割り切れない性分のようで、分からないなりに学ぶべく、責任者の女官たちにあれこれと質問をしては返って来た説明をまめまめしく筆記して纏めるようにしていた。
これほど熱心に勉強したことなど未だ嘗てなく、知恵熱が出るとはこういうことかと、元気そのもののはずなのに心なしか熱く感じる額に手の甲を添えつつ、霞琳は小さく息を吐いた。そこがしっとりと汗ばんでいるのは、発熱ではなく単に夏の暑さのせいなのだろうけれども。
幸い厨だけは霞琳がルェイホマを伴って行ったあの日に最終確認を終えていたので、以降は全く声を掛けられていない。あの責任者は例の女官が亡くなった危機感から早めに準備を始めたのもあって、結果的に段取り良く準備を進めたといえよう。素晴らしいことである。
そんな多忙を極めるなか、霞琳はある宮の前に立っていた。
普段は動き易さを重視して胡服のズボンを穿いているが、今日ばかりは礼装として裙を着用している。長めの裾を踏んでつんのめるのを何度耐えたか数えきれない。
女装も楽ではないと改めて泣き言を心の中でだけ零しながら、それでもこの一日をどうにかやり過ごさなくてはならないと、義務感からくる緊張にぴりりと神経を張り詰め続けていた。
――本日何があるのかといえば、とうとう後宮入りした妃嬪となる三人の女性に挨拶をする日なのだ。
霞琳は春雷から、三人の後宮入りにあたっても朝廷で相当紛糾したことを聞いていた。
どの順番で後宮に入るか、後宮に向かう行列の在り方、道々で人々に振る舞いをするかなど、霞琳の感覚ではそんなことで揉めるのかと驚くような内容であるが、妃嬪の後ろ盾となる者にとっては権力や財力の誇示という重要なパフォーマンスなのであるらしい。確かに妃嬪の存在感はないよりもある方が良い。まだ空位の皇后を誰にすべきかという世論の刺激にも一役買うだろう。
といっても派手なことをしたがるのは、やはり劉司徒である。養女の昭光が二番目の位に甘んじねばならなかった分、実質的には最有力の妃嬪なのだと知らしめるがごとく豪勢で華美な後宮入りを演出したいのだ。
そんな劉司徒に対し、治泰は猛反発。そもそも現状では飽くまで後宮に入るだけに過ぎず、まだ正式に妃嬪として封じられたわけでもない。にもかかわらず、過剰な振る舞いをするのは節度を知らず品位に欠ける行為だというのだ。それはそれて一理あるのだが、治泰が劉司徒に実力も財力も叶わぬからこそ、支援している栄節の行列の貧相さが目立ってしまうのを避けたいというのが本音であるに違いない。
エスカレートする議論――というよりも最早単なる口論を止めたのは、やはり春雷の鶴の一声であった。
「既に私の妻である嬌麗は宮中にいるため、後宮入りという行程自体がない。二人だけが仰々しく行列を誂え、都中の人々にその存在を広めるのは不平等だろう。後宮入りは同日に、あくまで控え目にするように。」
春雷にそう言われてしまえば、劉司徒もそれ以上ごり押しできない。妃嬪の地位といい後宮入りといい全く希望が通らない状況は、これまで思うがままに権勢を振りかざしていた彼にとってさぞフラストレーションを溜めこむ原因となっているであろう。周囲の貴族たちも春雷と劉司徒の間に吹く隙間風を察しているに違いなく、劉司徒は自派閥を抜ける者が出やしまいかと焦りも覚えているかもしれない。
一方の治泰はといえば、名誉職ではあれど最高位の太師に就くことが内定していることもあって、順調に政界復帰を果たし、着々と地盤を固めている。今回も春雷が治泰寄りの判断を下したことに満足していると思われる。春雷は治泰がいまだに有する影響力を考慮すると同時、劉司徒の事実上の独裁状態を抑えるための対抗馬として治泰を重用しているわけだが、彼とてもその思惑には気付いているはずで、極めて不安定な二人三脚さながらの関係である。いつどちらが相手の足を引っ張り、その隙に結びを解いて一人で駆け出していくかしれない。
ともあれ春雷の決定を受けて、つい先日昭光と栄節が静かに後宮に入った。同日、嬌麗もこれまで住まいとしていた皇子の妻妾が住まう宮からの移動を完了している。
本来ならば身分が高い順に挨拶に回るべきなのだろうが、それぞれの都合を聞いて調整した結果、まず栄節の元へ伺候することになった。恐らく、荷物が一番少なく整理も短時間で済んだのだろう。他の二人はまだ宮に入ったばかりで落ち着いていないから遅めの時間帯で頼みたい、と言われていた。そんなところから三名の力関係が見えてくるというのは、なにやら切ないものがある。
栄節の宮を前にして、霞琳は少しでも気持ちを解そうと、深く深く深呼吸をする。そして意を決すると歩みを進め始めた。
侍女に訪問を知らせて取次ぎを頼む間、霞琳は改めて栄節の情報を頭の中で整理する。
曹栄節――初代皇帝と皇后の間に生まれた公主が降嫁した曹家の末裔。皇族の子孫にあたるという点で、三人の妃嬪のなかで最も高貴で由緒ある血筋の生まれといえる。
数代前の曹家当主が職務上重大な失敗を犯したために勘気を被り罷免され、以降復活の兆しなく零落していたものの、そのお蔭で王氏の変においては粛清対象にすらならず、家の断絶を免れるという幸とも不幸ともつかぬ状況だった。このたび治泰によって見出されるまでは非常に貧しい暮らしをしていたと聞いている。
「随分と苦労をしたせいか、性格もおとなしいようだ。少なくとも本人は悪さはすまい。」
これが春雷による栄節評である。後宮で平穏な日々が続くよう、問題は起こらないに越したことはない。彼の目利きが正確で、悪さとやらをしない女性であることを願うばかりである。ただ、本人は、という辺りが引っ掛からないでもないが、今は取り敢えず無視を決め込む。
彼女の生い立ちを聞けば憐憫の情を催すのも人として無理はない。加えて初代皇后は張氏であるから、物凄く薄くではあるものの霞琳とは血が繋がっていることもあり、つい応援してあげたくなってしまうが、彼女本人がどうであれ警戒対象である治泰が後ろに控えていることを思うと、気を許すことはできない。
そんなことを考えていると、やがて戻って来た侍女に導かれ、霞琳は宮の中に足を踏み入れる。
女官長に案内されて一度入ったことがある場所とはいえ、やはり今日は空気が違う。古式ゆかしい伝統を感じさせる重厚な装飾が所々に施された室内は、妃嬪となる主を迎えたことにより、一層の格式の高さを醸し出しているようだ。
凛とした雰囲気に気が引き締まる心地を味わいながら、霞琳は栄節の御前に進み出て膝を着いた。
「曹栄節様におかれましてはご機嫌麗しゅう。このたび畏くも女官長を拝命することになっております、張霞琳と申します。宜しくご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。」
「…………。」
返答がない。
深く垂れた頭は許可があるまで上げるべきではないため、霞琳はじっとその姿勢を保つ。
「…………。」
「…………。」
まだ何も言われない。
霞琳はなおも頭を下げ続けるしかない。
「…………。」
「…………。」
全く許可が出ない。
男性だった頃よりも長く伸ばした髪を結い上げ、複数の簪で飾り立てた頭が重い。髪型や装飾品で豪奢に飾り立てる女性はさぞ首の筋肉が鍛えられているのだろうな、などと下らない考えで気を紛らわせなくては耐えられない程、首が限界を訴えてきている。
「……あ、あの、どうぞお顔をお上げください。」
「はい、畏れ入ります!」
やっと顔を上げられる――喜び勇んで返事をしながら頭を持ち上げると、視線の先には小柄な少女が椅子に座っていた。顔立ちも平凡、体型も平凡、衣類も平凡という三拍子揃っている。
皇帝の目に留まり人生の一発逆転を狙うべく、可能な限り美しく化粧を施し着飾る下級女官も少なくない後宮において、華美な装いを端から放棄しているかのような栄節の姿は異様といってよい空気を醸し出していた。
生家は貧困に喘ぎ、そして後援者である治泰もまた長年に亘り無位無官で収入が途絶えていたためなのだろうが、身に着けている物に奢侈な品が一切見当たらない。後宮内では控えめを通り越して誰にも気づかれない石ころのようだと嗤う者が現れそうなほどに質素で薄い印象は、彼女が意図してのものなのか止むを得ずなのか判別しかねるが、その平凡で飾らない感じが男心には寧ろほっとするような安らぎを灯してくれるようで、霞琳には悪くない気がした。
「あの、霞琳様。こちらが栄節様でいらっしゃいます。」
先程と同じ声が響く。先の言葉は栄節本人のものかと思ったが、そうではなかったらしい。隣に控える侍女が恐縮しきった様子で語りかけてきた。
「栄節様はずっと霞琳様にお顔を上げられるよう仰っていましたが、生来内気なご性格ゆえに、お声が届かなかったようで……。」
「そ、それは失礼いたしました!私も耳が遠いようでして……!」
離れているという程でもない距離にいるのに、全く聞こえなかった。まさか声を掛けられていたとは露も思っていなかった霞琳が慌てて無茶苦茶な謝罪を紡ぐと、栄節は自分の声の小ささを恥じているのか、もじもじと身じろぎながら隣の侍女を見上げている。もしかしたらまた何か言っているのかもしれなかったが、全く声になっていない。
(どうしよう、全然話せない……!)
縋るように見上げた霞琳と目が合って、侍女がおどおどしながら栄節と霞琳とを交互に見遣る。妙に似ている主従だ。
「……あ、あの、霞琳様!」
「は、はい!」
緊張しているのかどもりながら、勇気を振り絞っていますと言わんばかり真っ赤になった顔で侍女が呼びかけて来るものだから、霞琳にまで張り詰めた空気が伝播してくるようで、此方も言葉を閊えさせながら応じてしまう。
「栄節様が、こ、此方こそ宜しくお願いしますと仰っています!」
「あ、ありがとうございます!」
侍女という拡声器を介し、挨拶だけという最低限の会話にしては随分と長い時間を掛けた顔合わせがようやく終了し、霞琳はどっと押し寄せる疲労感に苛まれながら宮を出た。
意思疎通は少々まだるっこしいが、確かに悪い女性には見えなかった。恥ずかしがりやの女の子だと思えば可愛いものかもしれない。そればかりは幸いだ、と霞琳は胸を撫で下ろしたのだった。




