現実と理想
「おい、入るぞ。」
許可を出す前に扉が開き、徴夏がひょっこりと顔を覗かせた。
この男は主たる春雷に対してまでもこうである。戸を開ける前に声を掛けるだけ、霞琳を相手にするよりも礼を重んじているのかもしれない。とはいえ世間一般からすると十分に失礼な行為であることは疑いようがない。
にもかかわらず春雷がそれを許容しているのは、二人の関係が主従である以上に金をも断つほどに固く深いものであるからに他ならない。
常ならば更に無遠慮に室内へと踏み込んでくる徴夏だが、今日はそうではなかった。
疑問に感じた春雷が徴夏を一瞥すると、彼は露骨に険を含んだ様子で双眸を細め眉間に深い皺を刻んでいる。その睨み付けんばかりの視線の先は己の傍らに控える男だと悟って、春雷は得心した。
春雷が護衛兼側近として最近取り立てたこの男のことを、徴夏はいたく嫌悪している。それほど不快なら先触れの一つでも寄越してくれれば予め彼を下がらせておくこともできようが、そう提案したところで行動を改めるとは到底思われない徴夏に対し内心で苦笑を零しつつ、軽く振り返って小さく頷きの合図を送った。
まだ春雷に侍して間もないというのに、彼は万事心得たように恭しく一礼して静かに場を後にする。
「……あんなのを傍に置くだなんて、お前の神経が解らねえ。」
男が立ち去り扉が閉まるのを見届けて、徴夏が吐き捨てる。春雷は曖昧な笑みを浮かべることで聞えよがしな独白を軽く流し、目を机上の書物へと落とした。
すると徴夏は今度こそ遠慮会釈なくずいずいと近寄って来て、春雷の手元を覗き込む。
「何読んでんだ?」
春雷は勿体ぶるように口では答えをくれてやらず、表紙を閉じた書物を差し出す。徴夏はそれを受け取り、怪訝そうに首を捻った。
「『治論』?……何だこれ、聞いたことねえぞ。」
「だろうな、これは世間に流通している書ではない。恐らく張家に数冊存在している程度だろう。」
「張家?ってことは、霞琳のもんってことか?」
「ああ、張家領における政の粋が詰まった書物だ。霞琳殿から借りて読んでいたのだが、非常に興味深い。――そしてそれに倣って、私は民にも教育を施そうと思っている。」
「……はあ?民に教育?」
ぱらぱらと頁を捲りながら気のない返事を口にしていた徴夏が、流石に驚いた様子で素っ頓狂な声を上げ、春雷の顔をまじまじ見詰めて来た。気でも狂ったのかと言わんばかりの眼差しを受け、春雷は、そうだろう、これが普通の反応だと内心で納得する。
だが至って正常な春雷は、ちらと書物を見遣る。その所作を、答えはそこに書いてある、と正しく解釈したらしい徴夏は再度書物に視線を落とした。
春雷は彼の邪魔にならぬよう、ただ黙って彼を眺めていた。
徴夏は昨今の政情を本気で憂えているが、民のためというよりも貴族社会の均衡を取るためという傾向が強い。貴族としては極めて一般的な考えである。
この国も長い歴史を紐解けば、派閥争いや無能な佞臣の台頭で政治が混乱した結果、度重なる朝令暮改や過度の搾取に振り回された民が苦しんだこともある。徴夏の目指す所である有能な臣下が取り立てられ整然とした秩序のもと安定した貴族社会が実現すれば、世の中に混乱を与えることもそうそうなくなるので、遠回りながら民の生活に寄与すると言えなくもない。しかしそれは、飽くまで副産物としての結果に過ぎない。
対して春雷は直接的に民のための政を志向しているつもりであったが、それが如何に偏った理念であったか、『治論』に出会って初めて気がつくことができた。才あらば民でも取り立て、そしてその才を磨く場として教育を受ける権利を与える――そんなことは終ぞ考えたことがなかったからである。
春雷にとって、民とは支配される側であり、守られるべきものであり、搾取されるものであり、与えられるものであった。しかし『治論』は、有能であれば民とても支配する側、守る側、搾取する側、与える側へと積極的に組み込むというのだ。春雷がこれまで当然の如く培ってきた概念に大きな一石を投じられたといえよう。
では『治論』は民に肩入れしており、貴族たちの利権を狭め、聖人君子のごとき為政者像を理想としているのかといえば、決してそうではない。極めて現実的に、ある意味では却って冷徹な視線で以て民に対峙している。
それは、大青華帝国の征西の歴史における張家の動向について記した一節を読み解けば見えてくる。
張家が何故人材育成や登用に熱心であるのか――突き詰めると、そうでもしなければ十分な統治ができなかったという切実な事情に他ならない。
どういうことかというと、第一に人材の枯渇が甚だしかったのである。
大青華帝国が西へ西へと国境を押し上げ領土を広げてきた過程において、必ずしも平和的手段のみが取られてきたわけではない。戦わずして勝つのが最良だとは理解していても、相対する敵が戦という手段を頑なに放棄しないのであれば、武力による制圧も当然行われた。寧ろそれが主であった。
戦いがあれば、兵と民とを問わず死者が出るのは当然だ。故に制圧地における人口は必然的に減少する。広がっていく領地を治めようとすれば、張家やその家臣、地元の有力者たちだけでは役人の数すら満足に揃えられない。しかも出自のみを重視して採用すれば、人間性の良からぬ者や無能な者が紛れ込み、政治が乱れるに決まっている。
相応の人間で数を揃えるには身分を問わず登用する必要があり、そのためには教育を施して有能な者を発掘ないしは育て上げねばならなかったのだ。
第二に、円滑な支配のため懐柔策を採らねばならなかったのである。
制圧地の大半は、異民族が立てた小国や集落が存在していた地域だ。このような異民族を相手に大青華帝国の統治を行き渡らせるには、言葉や礼儀をはじめとする教育が必要だった。しかし元々敵対していた人々にとって、そのような同化政策はアイデンティティーを奪われるに等しく、反発は必至である。
そこで張家では、異民族を被支配者層に押し込み抑圧するのではなく、支配者層に成り得る権利を与えた。支配する側の一員として取り立てられれば、少数民族であろうとその主義主張を政に反映させることができる――そんな甘い飴玉を放り、自民族の権利を守るため支配者層に伸し上がろうとする人々を集め教育を施すことによって支配を行き届かせ、同時に異民族から才ある人材という牙を引き抜くという方針を採ったわけだ。
その結果、張家領は多民族が平和的に共存するようになり、大青華帝国内では類を見ない多様性に溢れた独特な地域が誕生したわけである。
つまり、張家が極めて先進的な施策を推し進めているかのように見えるのは、結果論であって本質ではない。
人口不足および他民族の支配という二つの重い課題に対し、導き出した一つの答え――厳しい統制を確実に進めると共にその実務を担う人材を確保する代償として、被支配者層の権利拡充を図った政策が結果的に功を奏したに過ぎない。
無論、その成功には難題の解決に心血を注いできた歴代の張家当主による腐心と努力、現代においては正蓋の求心力と燈蓋の類まれなる政治感覚や指導力の賜物といえる。
このあたりの事情について、『治論』を読み込めていない霞琳は理解していなかったのだろう。だから先日、民や異民族に教育を施し取り立てる理由を霞琳はうまく説明できなかった。
当然、春雷には全く理解できなかったし、想像するにも難儀過ぎた。
それもそのはず、動乱の時代を経て初代皇帝が天下統一を果たした後、帝国の中心部に位置する都周辺はすぐに安定期に入ったからだ。張家領のように国境付近では戦が起こっても、徴兵は原則として四征将軍の管轄地で行われていたこともあり、都周辺はそれ以上人口が減少することもなく、寧ろ戦地から避難してくる人々も加わって貴族も民も比較的早く人口が回復し、人材不足に陥ることなどなかった。
故に春雷は、態々貴族階級以外に人材を求め育成するなどいっそ偽善的なまでの善政を敷く張家に対し、軍事貴族として名を馳せた家門のイメージと懸け離れ過ぎていて首を捻らざるを得なかったのだ。
張家は度重なる戦の凄惨さに倦んだ結果、誰もが幸福になれる理想郷のごとき絵空事にでも邁進しまったのか、或いは異民族を取り込んで大青華帝国への背反でも目論んでいるのか――春雷はそんな疑心暗鬼を催しかねないところだったのだが、『治論』のお蔭でそうではないとよくよく理解して、心安くなった次第である。
「――あー、まあ、なんだ。お前の狙いが何となく見えた。」
徴夏の声が耳に届き、春雷の意識が深い思案から呼び戻される。
流石才気煥発と評されるだけあり、流し読みであっても張家が行う教育の背景と目的を解し、春雷の意図をも的確に汲んだようだ。春雷が正気で安心したとでも言いたげな、普段の面持ちに戻っている。
「だけどなあ、時間が掛かり過ぎだろ。まあ行く行くは味方が増えるわけだから反対はしねえが、速効性に欠ける。」
予想通りの意見に、春雷は頷くのみだった。事を急く彼から賛同が得られないのは織り込み済みである。ただ、反対されねば十分だった。
春雷の意図――張家と同様、人材確保である。
口にすれば徴夏から猛反論を受けるだろうから黙っているが、春雷は実は父帝を一定程度評価していた。若き日の皇帝の事跡を追うと、名君と称された所以もよく解る。だが、彼は潔癖過ぎたのだと、春雷は思っている。
王氏の変を起こし、王氏やその派閥に属する者たちを徹底的に政界から排除した後、念願の実権を手に入れた皇帝は意欲的に親政を推し進めた。法治主義国家を目標としていたようで、特に法整備に力を入れ、なかでも違法行為に対する厳罰化の傾向が顕著であった。とりわけ民から過剰な徴収を行っていた官吏たちを重罰に処し、不当な収入の恩恵に与ったのは本人のみならず一門全員であるという理屈で、一族共々追放するようなことも多かったようだ。
そういった毅然とした態度は当初民から喜ばれたが、王氏ら要職に就いていた者から末端の実務官吏まで多くの者が短期間に次々排斥されてしまえば、行政の停滞が生じたのは必然の流れであった。
数多の官職が空いてしまい人員が不足した状態では、折角新たに制定した法も規定通り運用することが困難になる。無理矢理ポストを埋めようとすれば、王氏と繋がりの薄い――言い換えれば家柄も能力もぱっとしない貴族たちから人を登用するしかない。そういった貴族たちを取り込むため、皇帝は様々な家から妃嬪を後宮に迎え、劉司徒は無節操な姻戚関係を構築したのであった。しかしそのような努力の末に官職を与えた者たちは無論実務未経験であり、元々皇帝の理念に共感しているわけでもないため、結局政の質は低くなった。
そんなふうに志半ばで挫折したためか、皇帝は若き時分の熱意を失って政治を疎かにするようになり、晩年は酒色に耽る日々を過ごした。事実上最高権力者となった劉司徒は甘い汁の味をしめてしまったようで、嘗て自身が弾劾した王氏よりも目に余るほどの賄賂政治を展開し、その袖の下を調達したい貴族たちによる過酷な搾取に耐えかねた民の疲弊が限界を迎えていると、春雷は見ている。
だからこそ、春雷は改革の必要性を強く感じていた。そのためには劉司徒から実権を奪取しなければならない。しかし、王氏から実権を奪いながらも結果的に失敗に終わってしまった父帝の二の舞になっては意味がないのだ。
春雷はこう見えて完全なる現実主義者である。現実を見ているからこその穏健派なのだ。忍耐強く時を待ち、必要ならば妥協や譲歩も織り込んで、緩慢でも着実に目的に向け前進できれば良いと考えている。どれほど時間が掛かろうと、自分の信念を貫けるだけの頑なさもある。
片や徴夏のことは理想主義者だと判じている。彼の理想はさぞかし美しい貴い世界なのだろうと思う。それは現状との落差が激し過ぎて、尚且つその夢のごとき世界に相応しからぬ異物は徹底的に排除せんとするがため、荒々しい手段をも要さねばならず、急進的に事を運ぼうとするのだ。そんな所は皇帝に似ているとも感じていた。絶対に本人には言わないが。
朋友である二人が目指しているものは安定した治世――それは共通している。が、その具体的な内容については違うものを見ているのだと、春雷は認識している。その乖離がいずれ自分たちを引き裂かぬように努め、時に彼を抑えるのが己の役目だとも考えていた。
だから春雷は、どれほど徴夏が請うてこようとも、劉司徒および近頃の台頭著しい治泰、その派閥の面々を一気に取り除くことには決して肯んじていない。それが徴夏を焦らせていることは百も承知だが、こればかりは春雷が絶対に譲れぬところであった。
徴夏を押しとどめている春雷とて、本当はそうしたい。だが出来ない理由は、ひとえに人材の枯渇による混乱が懸念されることだ。
だがその懸念を払拭しうる一つの方法を、霞琳と『治論』が齎してくれたのである。それは春雷にとって太い一条の光明といえた。それを徴夏が積極的に肯定はしてくれなくとも、一応の同意を得られただけで十分だと思っていた。
「勿論、比較的早く効果を見込める策として、劉司徒や大伯父上の派閥の切り崩しは行っていくつもりだ。だが、まだ何の実績もなく、世間からは期待されていない私に靡いてくれる者などそうあるまい。
人材の育成に年月を要するのは解っているが、教育を施すなかで私たちの理念に共感し、共に努めてくれる者が現れることだろう。未来への投資だと考えてほしい。」
「ああ、分かった。――にしてもお前、本当に楽しそうだな。霞琳と出会ってから、嫌になるくらい生き生きしてやがる。」
「ふふ、そうだな。霞琳殿は天が私に与えてくれた無二の存在だと思っている。良くも悪くも私の常識を覆し、新たな知見を授けてくれる彼女がいれば、自信を持って前に進んでいけそうな気がするのだ。」
「……お前、霞琳のこと――。」
「何だ?」
「……いや、何でもない。」
春雷は不思議そうに双眸を瞬かせたが、徴夏は首を左右に振るだけで、それ以上口にしなかった。
普段女性に全く興味を見せず冷静そのものの春雷が、霞琳のことを話す時だけは至極穏やかながら迸りを滲ませた表情をしている――それを春雷の無自覚な遅い初恋なのではないかと、霞琳の性別を知らない徴夏だからこそ誤った勘繰りを起こしてしまったことなど、春雷は微塵も気づいていなかった。




