投げられた賽
――数日後。霞琳は一人の少女を伴って厨を訪れていた。
そろそろ厨の様子を見に行かねばならないと思っていた所に、折よく責任者の女官から来訪を乞われたのである。曰く、祝膳の確認をするので是非見に来て欲しい、と。
厨に足を踏み入れた霞琳を出迎えたのは、鼻腔を擽る美食の匂いだった。特段空腹でもなかったばずだというのに、呼び覚まされた腹の虫が小さく鳴き出すほどに食欲をそそる。皆が慌ただしく動き回っている騒めきに掻き消えて、その鳴き声が誰の耳にも入らずに済んだらしいことが幸いだった。
試作された豪勢な料理が例の品の良い器に盛られている様は圧巻だ。質実剛健がモットーの張家の食卓に比較すれば普段から後宮の食事は随分と豪華だが、それを更に上回った贅の尽くしっぷりである。
惜しむことなくふんだんに使用された貴重な食材や、繊細な美意識を窺わせる壮麗な盛り付けにと、眺めているだけでも満足を覚えそうな程だ。
料理を用意するばかりでなく、或る者は宴席の会場となる大広間まで要する時間を計算し最適な温かさで配膳を行うタイミングを試行錯誤し、また或る者は国内外問わず各地から調達された美酒の種類や保存状況の確認に走り回り、厨は実に活気に溢れた空間に様変わりしている。
その中心で宮女を取り仕切っているのは、あの責任者の女官である。皆に目配りをして的確に指示を飛ばすそのきびきびとした働きぶりは、先日の頼りなさからは一変、この部署の長を任じられるだけあると納得させるだけの風格を漂わせていた。
部下の仕事を把握していないという一点だけで彼女に厳しい評価をしてしまったことに、霞琳は内心で反省する。誰にでも得手不得手がある。その人のどんな面をどのようにを評価して配置を決めるか、今後は己に掛かって来るのだと思えば、その責任の重さに小さく身が震えた。
気持ちを奮い立たせつつも表情は至って穏やかさを保ったまま、霞琳は宮女たちに労いの言葉をかけて厨を回る。
概ね見終えたところで奥へと進みいき、宴の前の喧騒から切り離されたような静かな一室に辿り着き、漸く目的の人物を発見した。
「憲樹さん、お仕事の進み具合はどうですか?」
「お蔭様で順調でございます。」
先日の気まずさを引き摺るまいと努めて明るく声を掛けた霞琳に、憲樹は器を磨く手を止め、丁重に頭を下げて挨拶を返す。その表情はいつものように淡々として感情は読めないが、少なくともこちらを嫌悪しているようには見えない。
霞琳は胸を撫で下ろすと、表情を引き締めて静かに頭を下げた。
「……霞琳様?」
「先日の非礼、お詫びさせてください。貴女に不快な思いをさせてしまったことと思います。」
「……。」
視線を伏せているために憲樹の表情は見えないが、明らかに困惑しているようで空気の揺らぎがが感じられる。それはそうだろう。一介の下働きに過ぎぬ宮女に対し女官長となる女性が頭を下げるなど、普通では到底考えられないはずだ。
しかしその行動は真心から生じたものであり、尚且つ誰にも不利益を齎すものではない。故に常識から幾ら逸脱していようとも恥じる必要はなく、寧ろこの後宮を変えるためにも積極的に起こすべき振る舞いだと、霞琳はそう確信していた。
「そして図々しいことは承知ですが、頭を下げた理由は謝罪だけでなくお願いがあるからです。――器の件、やはり記録は残しておかねば、今後に支障を来すと思うのです。」
「そのことは――……。」
読み書きのできない自分には無理だ――そう口にされる前に霞琳はさっと顔を上げ、彼女の口の前に掌を添える。屈辱的な内容を二度も口にさせはしない、そう心に決めて。
にこりと笑みを浮かべた霞琳は、自分の後ろに隠れるように付いてきていた少女の背に片手を添えて前に進ませる。
「この子は荀黎苞――元は月貴妃様の侍女だった、戎月国出身の女官です。まだ幼いですがとても覚えが良くて、侍女たちの中で最もこの国の言葉に通じています。この黎苞を補佐に就けるので、憲樹さんが器を整理して、その内容を黎苞に記録させてください。」
「よ、宜しくお願いいたします……!」
背が低くほっそりとした小柄な少女は、人見知りの強い性格も露わに落ち着きなく視線を地面に彷徨わせながらおどおどと頭を下げた。
荀黎苞――本名はルェイホマ・エグシャグラ・ジユングァという。彼女はシャムナラ姫が祖国から連れて来た者たちの中で、唯一主より年下の侍女だった。侍女として世話をするというよりも、気の許せる友か妹のような存在としてシャムナラ姫の心を慰める役割を期待して、国王が人選したのだろう。
しかし幼くして侍女に選ばれるだけあり、非常に優秀で飲み込みも早く、とりわけ言語学については天賦の才があったらしい。大青華帝国の公用語を短期間で習得したルェイホマが操る言葉は、大青華帝国で生まれ育ったのではないかと錯覚するほどに発音も明瞭且つ流暢で、訛りもない。
しかし、引っ込み思案で自信のない性格に加え、おっとりとした所作が見ようによってはどんくさく気が利かないと判じられたようだ。異民族の出自であることも相俟って、女官たちから粗略な扱いを受けることが常態化していたようで、時折物陰でひっそり泣いていたらしい。
そんな場面を偶々見付けたラシシュがルェイホマを気に掛けていたので、その劣悪な環境から救い出す意味も込め、霞琳は今回彼女を憲樹のパートナーとして抜擢することにしたのである。
差別を受ける辛さを知るルェイホマならば、官婢だからといって憲樹を軽んじることもないだろう。そして憲樹もまた、年齢や民族を理由に目上のルェイホマを侮蔑することはないはずだ。
「……恐れながら、女官の方を私めなどの補佐になさるのはいかがなものかと。」
「ならば表現を変えましょう。記録係である黎苞が的確に記録を残せるよう、憲樹さんが協力してください。」
「ご下命とあらば。」
「いいえ、命令ではありません。お願い、です。」
憲樹は明らかに困惑している。普段の無表情さがすっかり崩れて、眉間に皺が寄っている。一見不快そうな面持ちに見えるが、生真面目な彼女のことなので、きっと霞琳の本心を図りかねて難しく考え込んでいるのだ。
しかし、それは当たり前の反応だろう。命令された仕事を忠実にこなす――それが憲樹の役目だ。最下位の立場なので、上位の者から命令ならぬ“お願い”などされたこともなく、それ故に断るという選択肢を与えられたこともないに違いない。
霞琳は今、そんな憲樹の概念に罅を入れようとしている。
「そもそも厨のお手伝い自体、本来は憲樹さんの仕事ではないのです。それでもきちんとやってくれているのに、更に一方的に仕事を増やそうなんてしませんよ。――だからこその、お願い、です。勿論、お礼はします。」
「礼……?」
「はい、お礼です。といっても、受け取るかどうかは憲樹さん次第ですけれど――文字を学ぶおつもりはありませんか?」
憲樹の深い深い眉間の皺が一瞬にして消え去り、目を瞠って固まった。その姿に、霞琳は確信する――憲樹は学んでみたいのだと。
先日、読み書きができないと口にした憲樹の表情にはどこか影が差していたように感じた。奴婢はそれが当然だというのなら、無教養であることを恥じる必要などない。だとすれば、彼女が個人的に思う所があるのではないかと推測したのだが、当たっていたようだ。
これほど優秀な仕事ぶりを発揮している彼女が勉学に無関心だとは思えない。ただ立場上、教育を受ける機会などなかったに違いない。そして、それを望むという発想すらもなかっただろう。
やがて我に返った憲樹の顔が、段々と歪んでいく。必死に涙を堪えるように双眸を細め、掠れた声を絞り出す。
「霞琳様、大変有難くは存じますが、そのような過分な待遇は……。」
「過分ではありません。まだ試案の段階ですが、いずれこの後宮に誰もが学べる場を設け、優れた者はより能力を発揮できる役目に就いてもらおうと考えているのです。憲樹さんには一足先にそれを体験してもらって――なんて言うと、お礼というより実験台になってほしいというお願いみたいですね。お願い事のお礼がまたお願い事だなんて、図々しすぎるでしょうか?」
憲樹が恐縮しすぎないようにと、うふふと笑いに紛らせ軽口で締める。無意識に出たその笑い方はシャムナラ姫のようだと、口にした後で気付いた。仕方がないなあと苦笑しながらも相手がつい受け入れてしまうような、柔和で頑なな意志を込めた、あの笑みだ。
暫く黙っていた憲樹だったが、やがて小さく頷く。それを目にして、霞琳はようやくほっと息を吐いた。
そして霞琳が声を掛けようとするより早く、傍らの少女がすっと憲樹の方へと歩み寄った。
「私、上手くできるか分からないけど、一生懸命お教えしますね!そ、それで……いつか、私と一緒に本を読んでください!」
ぺこぺこと玩具のように繰り返しお辞儀をするルェイホマに面喰ったようだったが、憲樹は了承の意を込めて黙礼を返す。ぱあっと顔を輝かせたルェイホマの周りには花が舞っているかのようだ。
内気な彼女が自ら声を掛けるという意外な行動に驚いたのは霞琳もであったが、ルェイホマが憲樹に何らかの縁を感じて勇気を出せたのであれば、それは喜ばしいことである。
そういえばラシシュから、ルェイホマは読書好きだが同好の士がいないのだと聞いていた。きっと今後は憲樹が良き読書仲間となってくれるだろう。その証拠に憲樹の表情も珍しく柔らさを帯びている。
“一、人事において最も肝要なる事は相性なり”
(適材適所は勿論だけれど、相性の悪い者同士が集まって良い成果を上げられるはずがない――そういうことですよね、叔父上。)
まるで祖母と孫のような二人を微笑ましい心地で眺めながら、霞琳の頭の中には厨の仕事も宮女教育も何もかもが上手くいくような明るい展望が見え始めていた。
無論、壁はある。分厚いそれをすぐに打ち崩せるとは思わないが、何も成さねば何も変わらない。自らの意志で賽はたった今投げてしまった。後は己が望む目が出るように転がしていくしかないのだ。
(やってみよう、やれるところまで。これが私の“政”の第一歩なんだから――。)
霞琳は左手首に右手をそっと添える。その決意に応えるようにナルムチアの腕輪が揺れ、しゃらんと涼しげな音が小さく空気を揺らしたのだった。




