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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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当たり前の交錯(後編)

「春雷様!……って、どうしてお声掛けくださらずに入って来ていらっしゃるのですか……。」

「徴夏はいつもこうだというから、真似をしてみた。」

「そこ、真似する必要あります?」

「必要はないが、徴夏よりも私の方がそなたと親しいつもりだったからな。徴夏だけ特別扱いされているようで、少し羨ましくなったのだ。」


 悪びれずに答える春雷のほんわかとした雰囲気に飲まれ、霞琳は毒気を抜かれてしまう。

 徴夏のように明らかな悪戯目的であるなら文句の一つも言えようが、自分と親しく接したいという純粋さを隠さない発言には、最早腹を立てることすらできない。


「……とはいえ、扉を開けたところで直ぐ藍朱に気付かれてしまったから、入る時にはちゃんと声を掛けたぞ。作戦は失敗に終わったも同然だ。尤もそなたは本に夢中で聞いていなかったようだが。」


 作戦ってなんだ。無言で扉を開けるだけの行為に作戦もへったくれもないだろう。

 心の中でそんな突っ込みを入れるのもそこそこに入口の方を顧みると、ラシシュが恭しく頭を垂れている。その礼の尽くし方は、最早皇帝に対するのと遜色ないほどだ。


(……そうだよね、この人はもう事実上皇帝陛下だもんなあ。)


 そりゃあ何をしても許される存在なわけである。でもやはり黙って戸を開けるのは勘弁願いたい。うっかり着替え中で、うっかり痛々しい局部が全開だったらどうしてくれるのだ。いや、扉に向かって着替えなんぞしないけれども。

 でも、だからって、そういう問題じゃあ――などと胸の中で悶々とする霞琳の無言を憤り故と解釈したのか、春雷は反省した様子で表情を曇らせた。整った顔立ちに憂いが滲む様は、冷たくあしらうなど到底できない気分を催させる。もしかしてそこまで織り込み済なのではないかという疑念を持つのは、穿ち過ぎだろうか。


「……駄目だったろうか。次から戸を開ける前に声を掛けるので、今回ばかりは目を溢してはくれないか?」

「……承知しました。もしもまた同じことをなさったら、口を利きませんからね。」

「ああ、分かった。許してくれるだけで十分だ。約束は守ろう。」


 嫋やかな美に影を差していた憂慮がすっと消え、安堵に目許を綻ばせながら霞琳の頭をぽんと撫でる春雷。

 霞琳はそんな彼を視線のみでちらりと見上げると、ついつられて笑顔になってしまいそうな顔の筋肉を懸命に引き締めた。


(溢します。溢しますよ。溢すに決まってるじゃないですか!年頃の女性なら誰もがころりといきそうな綺麗な顔でそんなこと言われたら、決して面食いではない上に心は男の私だってころりですよ!)


 ラシシュとは対照的に不遜な態度を取ってしまったが、それは心の叫びを堪えるためなのだから仕方ない。恨むならこの凄まじい顔面偏差値を有して生まれた春雷自身を恨んで欲しい、などと脳内で繰り広げられる霞琳の無茶苦茶な思考とは裏腹に、春雷は恨んでも怒ってもいないようで、平生と変わらぬ調子で問うてきた。


「それは兎も角、張家では奴婢にも教育を施していたというのはまことか?」

「は、はい。使用人には仕事で必要な知識――その基礎となる読み書きは必須で、教育が義務付けられていましたから。」

「それでは下手をすると、民よりも奴婢の方が教養があるということにならぬだろうか。」

「民の教育は義務ではありませんが、希望する者を集めて教育を施していました。張家領にはいろんな民族がいますが、彼らも勿論同様です。内容は使用人に対するものよりも充実していましたし、そこで学び役人に取り立てられた民や異民族の者もたくさんいます。」

「民や異民族の者が役人に?……いや、しかし教育を受けるには費用が掛かるだろう。富豪層に限られていたのではないか?」

「え、どうしてお金が掛かるのですか?ただ皆で集まって、先生――といっても叔父の配下なのですが、その話を聴くだけですよ。」


 当たり前のことだと言わんばかり、心底不思議そうにきょとんとした表情を浮かべる霞琳を前に、春雷は絶句する。


“一、生まれ育ち、身分、民族その他の事柄によらず、望む者には広く教育を施す事”

“一、生まれ育ち、身分、民族その他の事柄によらず、才ある者は積極的に取り立てる事”


 霞琳の手にある冊子は、ちょうどそんなことが書き連ねられている頁が開かれていた。


「……その書物、少し見せてもらえるだろうか?」

「勿論です。どうぞ。」


 霞琳は『治論概略』を差し出す。受け取った冊子の頁を繰りながら、春雷がこの書物の何たるかを尋ねて来たので、霞琳は正直にありのままを答えた。

 そして『治論』がいわば本編である旨を伝えると、そちらも見てみたいと言われたので、素直に分厚い書物を手渡した。

 春雷の面持ちから普段の穏やかさはすっかり消えて、鬼気迫る表情で暫く黙ったまま書物に視線を走らせている。


「……同じ国内のことだというのに、これほど異なるとは。」


 やがて独白のように零れた春雷の言を受け、霞琳を不意に不安が襲った。


「……あの、その書物に問題がございますか?朝廷の意向に沿わないとか。」

「そんなことはない。国法に触れることもない、というよりも法に規定のない部分についてきめ細やかに述べている。それが都では聞いたこともない内容ばかりで非常に興味深い。」


 春雷の話によると、辺境支配について朝廷は地方長官をはじめとする中心人物数名程度を任命する程度で、彼らの下で勤務する現地採用の小役人の登用や人事、当該地域の行政に関する権利は一括して長官に付託されているのだという。故に長官は、国法に反しない程度で自由に統治を行うことが可能なのだ。

 四征将軍は軍事権のみならず地方長官としての性格も有しているため、張家領においては正蓋が行政の長たる責務をも負っていることになる。よって張家が領内でどのような施策を取っていようが構わないのであるが、どこも中央と然程変わらないだろうと漠然と考えていた春雷にとって、『治論』の記述は聡明な彼の頭の中にある常識を覆し渾沌に陥れる程に衝撃的だったらしい。


 それを聞いた霞琳は、張家の領地経営は問題どころか高評価を得られたと解釈し、安堵と誇らしい気持ちとが胸を満たす。

 そして熱心に『治論』を読み耽る春雷に、「ご希望でしたらお貸しいたしますので、どうぞごゆっくりお読みください」と伝えると、彼は礼と共に大層嬉しげな笑みを浮かべながら両手で書物を大事そうに抱える。どうせなら『治論概略』も併せてどうぞと添えたら、『治論』だけで問題ないとの返事が戻って来た。……ですよね、あの小難しい『治論』を理解できるなら『治論概略』は簡単過ぎですよね。いらないですよね。あはは。


 まだ『治論』の読解に難儀する霞琳は情けない気分を味わいながらも、それでも『治論概略』を理解できるようになった己の成長を前向きに捉えることとして、春雷に一つの提案をしてみた。


「春雷様、私は後宮で叔父の教えを実践してみたいのです。優秀なのに身分のせいで不遇な者、民族の違いにより差別を受ける者――そのような不合理を排し、宮女が能力をきちんと評価されて適切な立場に就き、活き活きと働けるような、そんな場所にしていきたいと考えております。お許しいただけますか?」

「それは妙案だ。本来後宮は皇后が管理する場だが当面空位、加えて皇太后となられる母上もその役目は今後も放棄されるとのことなので、女官長となるそなたが実質的にその任を担うことになる。――大事は私に判断を仰いでほしいが、小事についてはそなたに一任しよう。私は霞琳殿を信じている。」

「忝のうございます。ご期待に添えるよう誠心誠意努めます。」


 霞琳はぱっと明るい表情を浮かべ、深々と頭を下げて謝意を示した。

 具体的に何をするのか問われるかと思いきや、春雷は些末にこだわらないらしい。それが自分に対する信頼故であるなら、霞琳にとってこの上なく喜ばしく、また仕事に臨む活力を与えてくれるというものだ。

 そんな霞琳に穏やかな笑みを向け頷いていた春雷だが、ふと顔付きを改めて最後に一言だけ添えるのを忘れなかった。

 

「燈蓋殿の考えは素晴らしいものの、残念ながら現在の後宮の常識からは逸脱しているということを必ず念頭に置くように。改革を強引に推し進めれば反発を買い、折角これまでそなたが築いてきた信頼も一瞬で瓦解しよう。急がずゆっくり、皆がその変化を当たり前だと感じられるように段階を踏むのが肝要だ。」

「心得ましてございます。『治論概略』にもこうありますから、しかと胸に刻みます。」


 春雷からの助言に力強く首肯を返した霞琳は、手にした書物を開き一節を指し示す。


“一、政の最大の味方にして最大の敵は民心なり”


 今度は春雷が満足げに頷き、二人は顔を見合わせて互いに微笑んだのだった。




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