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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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当たり前の交錯(前編)

 厨から自室に戻った霞琳は、すっかり消沈して椅子に腰を下ろしていた。

 ぼんやりと窓の外に投げた視線の先は、青々と澄み渡る空。その明るく美しい様は、自分の気持ちを一層惨めにさせてくれる。


「……ラシシュは知ってたんですね。下働きの宮女は読み書きが出来ないって。」

「……確信していたわけではありませんが、まずそうだろうと思っておりました。特に雑用や肉体労働が主のものは、官婢でしょうから。」


 彼女の口振りから察するに、奴婢に教育など施さないというのはジュゲツナルム王国では当たり前のようだ。そして無論、大青華帝国でも同様であることは先程の顛末が物語っている。

 その常識を弁えていない己の無知さもさることながら、憲樹に態々人前で無教養ぶりを口にさせてしまった自身の愚かさが心底恨めしかった。

 あの後、記録の件は保留になったが、憲樹が厨の応援に入ることは確定している。故に業務は恙無く進むだろうが、あの場にいた厨の女官たちと共に働く憲樹の心中を思うと居た堪れず、霞琳は重苦しい息を小さく吐き出した。


 そもそも責任者が頼りなさ過ぎる、と半ば八つ当たり気味に霞琳が溢すと、ラシシュは僅かに首を捻った。


「責任者は担当者ではありませんもの。彼女が実務を全部把握していないのは止むを得ないかと。霞琳様とて女官長になられたら、後宮の仕事を委細漏らさず把握するのは困難でございましょう?」


 ラシシュの言葉に、霞琳ははっとする。そうだ、その通りだ。これまで宮女の手伝いを色々とさせてもらったが、その内容は多岐にわたっていた。しかもそれは後宮の仕事のほんの一部に過ぎず、未知のものがまだまだ数多くあるはずなのだ。上長なら全て把握していなくてはならないというなら、それはまず自分が女官長失格だという特大ブーメランに他ならない。


「……確かに。でもせめて、器の場所が分かる女官がもう一人くらいいても良いと思ったんです。」

「仰せの通り、一人だけに器の管理を任せていたのは責任者として良くはないのでしょうが、世の中ではよくあることではありませんか?」

「そう、なの?」


 仕事が良く出来る者、長く携わっている者にばかり業務が集中し、その人にしか分からないことが増えていくのは当たり前――というのが、ラシシュの考えであるようだ。彼女の実家でも、長年仕えている使用人ほどその傾向があったという。


「じゃあ、その人がいなくなったら困るのではありませんか?」

「辞める時は後任者に引き継いでいくでしょう。」

「今回の女官みたいに、急に亡くなったら?」

「そのようなことは可能性が低いですから。」

「じゃあ、その人がもしも不正をしていたら?」

「誰も気付かないかもしれませんね。ですが、発覚した場合の危険に鑑みれば、それを冒す可能性も低いでしょうから。」

「譬え可能性が低くても、備えておく必要はないのでしょうか?」

「極めて低い可能性に備えるよりは、より重要なことに注力した方が人手も経費も効率的に使えるかと思いますけれど。」

「うーん……。」


 何故だか、霞琳の頭の中はもやもやとしている。

 平生なら、霞琳は聞き分けの良い部類に入る。人の話に素直に耳を傾け、そういう考えもあるのかと受容する姿勢を備えた人間だ。

 それが今日に限っては妙に食い下がる霞琳に、ラシシュは困惑を露わに眉を下げた。


「霞琳様、一体どうなさったのですか?」

「なんだろう、すっきりしないんです。いつか誰かとこんな話をしたような、……ううん、寧ろ私が聞かされたような気がして。でも、思い出せないのがもどかしくて。」


 こんな霞琳の態度は面倒臭がられても仕方のないところだが、ラシシュは主にとことん付き合ってくれるつもりになったようだ。本当に心優しい娘である。


「そういえば霞琳様は、下働きの者も読み書きが出来ると思ってらっしゃったのですよね。それはどうしてですか?」

「それは、張家の使用人は皆そうだったからです。奴婢でも簡単な読み書きはしていたし……。」

「まあ、それは凄いですわ!」

「どうなんでしょう。私にはそれが当たり前だったから、どこでもそうなのかと思っていました。」

「読み書きはどなたかが教えていたのですか?」

「元々いる使用人が、新たに入って来た者に教えていたはずです。仕事で使う言葉を中心に指導していたのだと思います。」

「そういう制度が整っていたのですね。恐らくそれは張家独自の方針なのではないかと思いますけれど、そういうことをお決めになりそうな方といったら、燈蓋様ではありませんか?」

「叔父上、……そうだ、叔父上の教えにあった気がします!」


 ラシシュの巧みな誘導を受けて、霞琳の記憶が唐突に蘇る。もやもやとしたものが一気に晴れ渡り、雲一つない青空が祝福してくれているかのような心地になった。

 霧中から脱した気持ちに突き動かされるまま、勢いよく椅子から立ち上がった霞琳は自邸から持参していた荷物を引っ張り出す。

 妹が貸してくれた女物の衣類を取り出して以来全く開いてなかった葛籠は、最早室内の片隅で装飾品の如き存在と化していた。それが埃にまみれることなく綺麗な状態を保っているのは、ラシシュがこまめに掃除をしてくれていたお蔭であろう。よく気が付く彼女には感謝してもしきれない。


 霞琳は元々シャムナラ姫や侍女たちの手解きが終われば張家に戻る予定だった。短期間の後宮滞在に要するものなど殆どなかったから、葛籠は小さめのもので、蓋を開けてみても荷物は大して入っていない。

 その少ない中身をひっくり返すと、一番底の片隅に重ねられた書物が二冊鎮座していた。


 『治論』と題された分厚い書物は、燈蓋が著したものである。大青華帝国の征西の歴史、そのなかで張家が果たした役割や功績、とりわけ広げた領地を治めるための方針や為政者としての心得などが事細かに叙述されている。

 これは霞琳が張家の次男として燈蓋から講義を受けるにあたり、テキストとして与えられたものだ。だが、如何せん学び始めた当時はまだ五つ六つの幼子だったので、それを真面目に読み耽るようなことはなかった。否、出来なかったという方が正しかろう。それほどにこの書物は難解な単語や表現で満ち溢れている。

 それを燈蓋が態々霞琳に与えた意図は、例えるなら『論語』であろう。単語の意味も文脈も分からずとも、幼いうちから暗唱して馴染んでおけば、いずれ成長するにつれて段々と内容を解せるようになる。そして得心した時の感動は、きっと心身に刻まれるものだ。そうして当主となる兄を支え、良き為政者になってほしいと、燈蓋は霞琳に期待を寄せていたのに違いない。


 実際の教本として使用されていたのは、薄い方の書物である。『治論概略』という、やはり子どもに読ませるにしては仰々しい題名のこの冊子は、『治論』の要点を抜粋したものだ。

 『治論』に比較すれば遥かに平易な単語ばかりが使用されていて、箇条書きや一問一答形式でまとめられており、子どもでもまあ読めるレベルに仕上げられている。尤も霞琳はそれですら余り理解できなかったので、とうとう燈蓋が匙を投げるに至ってしまったわけであるが。

 因みに、軍事貴族の名門張家の次代当主として嘱望されていた兄の褒琳は、文よりも武を重んじた教育を施されていたにもかかわらず、七つ八つの頃には『治論概略』を概ね解していたという。この兄弟の出来の違いは一体どこから来るのだろう。


 久々にこれら書物と対面した霞琳は、燈蓋から日々指導もとい叱責を受けた懐かしくも苦い記憶と真正面から対峙している。

 そもそも何故この本を後宮に持ってきたのか、自分でも最早定かではない。恐らくは、シャムナラ姫にとって有用かもしれないというくらいの感覚で、深い意味もなく荷物に突っ込んだのだ。貴妃として人の上に立つことになるはずだった彼女には、人の使い方についても微細に記されているこの本が役立つかもしれないと考えたのだろう。

 良く言えばシャムナラ姫の力になりたいという奉仕精神、悪く言えば好きな女の子に格好つけたいという子ども染みた自己顕示欲の産物が、しかも今まで存在すら忘れていたというのに、まさか自分の役に立つ日が来るとは思わなかった。


 霞琳は『治論概略』をぺらぺらと捲ってみた。


“一、如何なる仕事も二名以上に任じる事”


(――そうそう、叔父上はこの理由について、一人だけに任せてその人が急に欠けた場合に政が滞ってしまうとか、不正を発生させにくい環境にするためとか、そんなことを仰っていた。それが私の中に残っていたんだ……!)


 全然身になっていないと思っていた叔父の教えが、自分の中に眠っていた。当時はどれもこれもぴんと来ず意識に上がってこなかった内容が、後宮の問題を肌で感じられるようになった今、実体験と結びついたことで記憶の引き出しが抉じ開けられ、突如として何もかもが腑に落ちていく。

 霞琳は昂揚に促されるまま、忙しなく頁を進めていく。


“一、人を使う者は人に使われる者に教育を施す事”

“一、読み書きは教育の根幹である”


(――あった!)


「ねえ見て、ラシシュ!あなたの言う通り、叔父上の方針により張家では下働きの者にも簡単な教育を施していたみたいです。だから読み書きくらいは皆できて――」


「――何だって?」


 嬉々としながらラシシュを振り返ったつもりの霞琳に返って来た声は、彼女のそれではない。

 突然現れた人物に、霞琳の双眸はこれ以上ないという程にまん丸く見開かれたのだった。



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