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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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次なる課題

 妃嬪に賜う宮も確定し、彼女たちを迎え入れるべく建物の清掃や調度品の調達、儀礼にて着用する衣装の準備にと、文字通り汗水垂らして動き回る目まぐるしい日々を過ごすうち、いつしか季節は真夏を迎えていた。

 そしてそれも終盤に差し掛かり、じっとしていても蒸し暑さにじっとりと汗ばむ頃を過ぎて、時折涼やかな風が窓を通り抜ける。ふわりと遊ぶ髪を片手で押さえながら外を眺めやれば、雀が遠く舞っていく姿が見えた。

 都周辺の農村は見込み通り豊作になりそうだという。黄金色の風景を飛び交う雀が稲穂を突っつき、折角実った穀物を奪われまいと追い払う農夫――そんな故郷の秋の風景が思い起こされて、霞琳は少しばかり寂しい気分になった。

 ここからは後宮の建物ばかり、せいぜい后妃たちの無聊を慰めるために移植されよく手入れされた庭木や草花といった景観しかない。全てが人工的に作り出されたこの環境は、自然をベースに人の手が程好く加えられた原風景が散見された西部とは異なりすぎて、偶に気が休まらない心地に襲われるのだった。


 そんな霞琳の気持ちを、更に休まらなくさせる出来事が起こった。

 発端はラシシュからの報告である。


「霞琳様、厨より上申がございました。優秀な女官を一名配置してほしいと。」

「厨から?」


 霞琳は首を捻った。

 皇帝が崩御したため、彼の後宮は事実上解散している。春雷の妃嬪となる例の三名がやって来るまでに、皇太后となる王皇后を除き、現在の妃嬪およびその侍女は全員が後宮を後にする予定だ。既に出ていった者も少なくない。

 つまり、後宮の人口は減少傾向にある。それなのに後宮に住まう者全員の食事の手配や食料管理を主の業務としている厨が何故人手不足になっているのだろうか。寧ろ人手は余って然るべきではなかろうか。

 疑問を素直に口にすると、ラシシュも尤もだと頷く。


「私も些か疑問なのです。ですが、厨の者の言うことには、食中りの一件から以前よりも食材の管理方法が厳しくなったり、三人も同時に妃嬪が立てられることによる宴席の準備に手間取っていたりと、増えた仕事は減った仕事を差し引いてもなお重いのだとか。

 また、亡くなった女官がよく仕事の出来る者で、彼女がいなくなって混乱が生じているようなのです。」

「亡くなった女官……。」


 霞琳は頭を抱えた。厨の女官で亡くなった者といえば、それはシャムナラ姫に毒を盛った彼女に相違ない。

 彼女の死を聞き知った時は、哀れさ以上に当然の報いを受けたのだという気持ちが強かったが、その皺寄せでこの重要な局面に水を差されては堪ったものではない。


(……范淑妃、流石だな。優秀な女官だからこそ、味方に引き込んだのか。)


 元はと言えば、その有能さと厨の仕事をそつなくこなすがゆえに毒を仕込むのも容易かろうと徴夏が例の女官に目を付けたのが発端で、徴夏を警戒していた范淑妃は女官を自分の側に寝返らせただけに過ぎない。

 だがそんなことは露ほども知らない霞琳は、死してなお後宮に仇なす范淑妃の存在の大きさに溜息を漏らすしかなかった。


「取り敢えず厨に行ってみましょう。直接状況を見るのが早いから。」

「畏まりました。お供いたします。」


 ラシシュを引き連れて厨に到着した霞琳は我が目を疑った。

 棚という棚が開け放たれ、中にしまわれていたのだろう器が所狭しと並べられている。否、散乱という表現が正しいかもしれない。

 その上品にして絢爛な装飾やら艶やかな釉薬のかかり具合は絶妙で、目利きとは程遠い霞琳にさえも一目で高価なものだと判る。のみならず、空想上の霊獣やら目出度い絵柄が緻密に描かれているところから察するに、祝宴の席で使用する物なのだろうことが瞭然だ。

 それだけならば驚くに値しないが、訝しむべきはそれが整理されていないらしいことだ。例えば、黄色の椀の隣に置かれた小皿は青色をしている、といった具合に明らかに組み合わせが可笑しい。かといって黄色系の器だけ集めてみると、椀と小鉢はあるのに皿がない。これでは膳の体を成さなかろう。


「これは一体どうしたのでしょう?祝膳に使用する物のようですが、ちぐはぐになっているのでは……。」

「も、申し訳ございません!」

「責めているのではありません。何が起こっているか教えていただけませんか?」


 萎縮しきって頭を下げるばかりの責任者と思しき女官にこれ以上の圧をかけぬよう、霞琳は努めて穏やかな表情で問う。

 いきなり叱責されるわけではないと確信し、ほっとした様子の女官が経緯を訥々と話し始めた。


「宴で使用する器の状態や数を確認しようと思ったのですが、何をどこに保管しているのか分からず、片端から出して組み合わせてみようと思ったのです。それが上手くいかないものでして……。」

「皆様はこういった仕事は万事承知しているはずだと、女官長から伺っておりましたが……。」

「ええ、左様でございます。お出しする料理などは公式記録に残っておりますので、問題ございません。ただ、道具の保管場所や、具体的にいつどの器を使ったかまでは――……。」

「記録していない、ということですか。覚えている方は?」

「申し訳ございません、担当していた女官が急に亡くなりまして。」


 どうやら器の管理については例の女官が一手に引き受けていたものであるらしい。上長にあたるこの女官を始めとする厨の女官たちは、妃嬪を立てる際の祝宴など希にしかない仕事だということもあり、自ら覚えておこうとはしていなかったようだ。死亡した女官が、良く言えば非常に頼もしい仕事ぶりだったということであり、悪く言えば面倒な仕事を押し付けられていたということなのだろう。

 そんなことを考えているうち、霞琳の顔は知らず知らず険しいものになっていたらしい。女官が慌てて愛想笑いを浮かべて取り繕う。


「こんな大事な時期に亡くなってしまうだなんて、まったく困った人ですね!」


 自ら死を望む人間でもない限り、死亡時期など誰にも選べるわけはなかろう。仕事を部下任せにして大切な儀礼に穴を空けかねない困った人なのは寧ろ貴女ではないのか――などと、不毛な論争を引き起こしかねない言葉を飲み込んで、霞琳は必死に頭を回す。

 直近の祝膳はシャムナラ姫が貴妃として後宮入りした時のものだ。その前は范淑妃が淑妃の地位に上がった時のものはず。しかしそれを食した皇帝やシャムナラ姫、范淑妃は故人のため、頼ることは無論不可能である。

 もしかしたら春雷も皇子としてその宴席に同席していただろうか。或いは女官長なら儀礼全般を取り仕切ったろうから、記憶にあるだろうか。

 しかし自分が用意や片付けに直接携わったわけでもない器について細やかに覚えているとは考え難い。

 他に誰か――。

 頭の中に後宮の知己を次々に思い浮かべ、ふと閃く。


「月貴妃様の時も厨はさぞかし忙しかったことと思いますが、他の部署に応援を要請したことなどはありませんか?」

「どこも忙しいので、そのようなことはありません。ただ、宴席の時間帯に限り、雑用係だけはいつもより増やしてもらって洗い物はさせました。」


(――それだ!)


 この女官のように、通常業務から外れた仕事だからこそ覚えない者も多かろうが、普段と異なる仕事だからこそ新鮮で記憶に残っている者もいるはずだ。

 ここであれこれ話していても女官に記憶が蘇って来るわけでもないのだから、駄目で元々、動き回ってみるしかないと思い定めて踵を返す。


「何か覚えている人がいないか、何人か当たってみます。待っててくださいね!」

「ええ、霞琳様が直々に!?」


 驚く女官の声を背に受けながら、霞琳はラシシュを連れてさっさと厨を後にした。――目指すは勿論、洗濯場である。


「あっ、霞琳様~!」


 霞琳の姿を認めた白維が嬉々と声を上げ、諸手を上げて迎え入れる。先程までいた厨の緊張した雰囲気とは正反対の和気藹々とした空気に和んで、自然と顔が緩んだ。


「霞琳様、今日もお洗濯に?この前、どなたかのお召し物をを熱心に洗ってらっしゃいましたよね。」

「あー、あれ……あははは……。」


 今日は洗い物を持参していないことを両手で示しながら、視線を逸らして微妙な反応を返す。先達て必死に洗っていたのが、お茶混じりの唾液に塗れた春雷の衣だとは悟られてはならない。が、


「薄っすらと茶色に染まりかけていた袖口は、痕が残らずに済みましたか?」


 普段は無口な憲樹が珍しく自分から口を開き、真剣な顔で問うてくる。意外な状況に驚いたが、彼女と話ができる珍しい機会だと思えば笑みが浮かぶ。


「はい、お蔭様で。あの時は憲樹さんが染みの抜き方を丁寧に指導してくれましたね。本当に有難うございました。」

「それは宜しゅうございました。他ならぬ殿下のお召し物でしたので心配していたのです。」


(……え。)


「えー、あれって春雷様のお召し物だったんですか?全然気付かなかったです!憲樹さんって本当に記憶力良いですよね!」


 白維の賛辞に対しても、特に丁寧に扱わねばならない物なのだから当然だろうとでも言いたげに短い相槌だけを打つ憲樹をまじまじと見つめる。


「……憲樹さん、厨のお手伝いをなさったことはありますか?」

「ございます。」

「もしかして月貴妃様をお迎えした時でしょうか?それとも范淑妃様が淑妃になられた時の宴席とか。」

「はい。月貴妃様の時も、范淑妃様が淑妃におなりになった時も、もっと前――王皇后陛下がお立ちになった時から、毎回。」


 憲樹の言葉が終わらぬ前に、霞琳は洗濯で濡れた彼女の両手をがっと勢いよく握り締める。


「お願いです!私に力を貸してください!」

「……ご下命とあらば。」


 流石に目を丸めて驚いた様子ではあったが、憲樹はやはり憲樹である。落ち着いた返答と共に深々と頭を垂れたのだった。

 そんな彼女の手を引いて意気揚々と厨へ戻って行く霞琳の背を見送った白維たちが、


「……あのお召し物が春雷様のだったってことは、春雷様ったらお茶でも零しちゃったんですかね?あは、春雷様ったらうっかりさん!」


 そんな噂話でひそひそ盛り上がっていたいたことなど、勿論霞琳の知る所ではない。



**********



 厨に連れて来られた憲樹は、記憶を手繰り寄せるように暫く器を眺めたり手に取ったりしていたが、やがて恭しい手つきで仕分けを始めた。

 これは新たに立てられたり位が進んだりした妃嬪が使用するもの、こちらは皇帝用、皇后用、そちらは四夫人用、あちらは九嬪用――憲樹によりあっという間に整然と並べられていく器を眺めていると、グループごとに色味や文様といった共通点があり、成程、元々これが一揃えであったのかと腑に落ちていく。


「憲樹さん、この組には大皿がありません。皇后陛下用の器に至ってはお椀とお箸しか――……どうしてなくなっているのでしょう?」

「片付けをする時、一部の器は蔵にしまうよう指示を受けました。王皇后陛下は久しく宴席にいらっしゃっていませんので、使用頻度が低いという理由で蔵に移されたのではないでしょうか。」

「一揃えなのだから、同じ場所に収納した方が都合が良いと思うのですが……どうして分けてしまったのでしょう?」

「仰る通りです。ですが、恐らく厨の棚にすべては収まりきらなかったのかと拝察いたします。」

「ならば、すべてを蔵にしまってはいけないのでしょうか?」

「あくまで推測になりますが、……蔵は少し離れておりますので、使用する度にすべての器を運び出しては片付けに行くというのは大変な労力になります。ここ数年は祝宴が続いておりましたので、またすぐに使いそうなものはなるべく厨に置いておきたかったのかもしれません。」

「成程……。」


 霞琳の指示を受けてラシシュが厨の女官と共に蔵へ向かうと、やがて明らかに同種と思われる大皿や皇后用の食器と共通項のある器を沢山抱えて戻って来た。

 憲樹の記憶力恐るべし、である。

 当の本人は貴重なものなので当然ですといった涼しげな顔をしていたが、霞琳は彼女に畏敬の念を抱き始めていた。これほど優秀な宮女が最も下位の雑用係に甘んじているなど、後宮にとって大きな損失ではなかろうか。


「憲樹さん、雑用係から厨担当になる気はありませんか?」

「霞琳様!?そ、それはちょっと……!」


 自分では名案だと思った提案に遠回しな異議を唱えたのは、厨の責任者である女官だった。

 霞琳は軽く眉を顰めて彼女に問いかける。


「亡くなった女官の欠員補充を願い出て来たのは貴女でしょう?この通り憲樹さんは優秀な宮女です。何か問題がありますか?」

「憲樹は女官ではありませんので、補充としては不足かと……。」


(……やっぱり身分差の問題か。)


 予想はついていた。予想通り過ぎて、霞琳は軽く下唇を噛む。


 後宮の女性をひっくるめて宮女と呼ぶが、その内容は主に三種類に分けられる。

 一つは后妃――皇后と妃嬪である。高貴な身分ということもあって彼女たちに対してはこの呼称を使用することはまずないが、皇帝に仕える女性という意味では紛れもなく宮女である。

 二つ目は女官である。官位を与えられ後宮内で勤める女性なので、普通は貴族階級の出身者で占められる。広義では后妃も女官に含まれるが、一般的には后妃を除いた女性たちを指すことが多い。

 最後は無位無官の女性である。憲樹や白維がこれに該当する。つまりは下働きの者で、いわば皇室所有の女奴隷とでもいえようか。


 責任者の立場としては、女官が亡くなったのだから補充されるのも女官が望ましいのだろう。官職を有する女官と無位無官の奴隷とでは自ずから役割も異なる、という理屈は解らなくもない。


 しかし憲樹の有能さを目の当たりにした霞琳は、そこらの女官よりも憲樹の方が余程仕事が出来ると確信している。しかも無駄口を叩かず生真面目なところも好ましい。

 いずれは彼女を女官に引き立てて能力に見合った地位につけたいと考えたからこそ、その布石としての提言だったわけだが、性急に過ぎたかもしれない。

 後宮の常識をあまり無視して女官たちを敵に回してしまっては、今後やりにくくなってしまうことが目に見えている。ごり押しは得策ではないと察した霞琳は、一歩引いてみることにした。


「では、当面の間は憲樹さんを厨の応援に回すことにします。他部署もこの時期は忙しく、こちらの欠員補充のために女官を異動させるのは難しいでしょうから。」

「そういうことであれば構いません。ご配慮有難うございます。」


 厨の責任者は明らかにほっとした様子で仰々しく頭を下げる。

 張家では身分や人種を問題視することがなかったため、ラシシュや憲樹に対する女官たちの態度は、霞琳にとってどうにも快いものとして映らない。当の本人たちがそれを当然のように受け入れているからこそ、なおのこと自分がどうにかしなくてはという気持ちに駆られるのだが、これまで何も効果的な対策を取れてはいなかった。憲樹の今回の扱いが小さな第一歩になればと願うばかりである。


「そういうことなので、憲樹さん、宜しくお願いしますね。」

「承知いたしました。」

「一先ず、今後同様の事態が起こらないよう器の収納について考えてみてください。何をどこにしまったか記録を付けるとか――。」


 途端、従容としていた憲樹の顔色がさっと変わる。

 女官たちも一瞬のざわめきを見せる。

 自分が何かおかしなことを言ったろうかとラシシュを顧みると、彼女もまた眉を下げた表情で小さく首を左右に振っている。

 戸惑う霞琳が言葉を発するより先に口を開いたのは、他ならぬ憲樹だった。


「……――恐れながら、そのご指示は承りかねます。」

「どうしてですか?もし忙しいのなら、洗濯の仕事を減らすよう調整しますから――。」

「……いえ、そうではなく。」


 ――私は文字を書けません。


 いつものような無表情のまま、それでも微かに躊躇いを滲ませるような間を置いて憲樹が淡々と告げた内容に、霞琳は唖然として声を失ったのだった。


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