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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
20/93

難題の回答

 霞琳は女官長に教えを乞いながら、妃嬪を後宮に迎える準備を始めていた。

 儀礼の段取りや祝膳その他は先例に従えば良いとのことで、特段難しいことはなさそうだった。というのも、最近では范淑妃が後宮入りしてからというもの帝国史上最速で妃嬪としての位を上げに上げており、皇帝がその都度盛大な儀式や宴席を設けていたことから、女官たちはその種の仕事について万事承知しているというのだ。新米女官で何もかもが初めての霞琳にとって非常に頼もしく有難いことであった。


 そこで当面の問題はただ一つ――妃嬪に賜う宮であった。


 まず、王皇后は母后として皇太后宮に移ることが決まっている。皇后は当面不在のため、皇后宮は空となる予定だ。後宮一荘厳かつ広大な佇まいを誇る宮が主を失うという事実に、何やらもったいない気がしてしまうのは、霞琳が貧乏性のせいだろうか。


 そして、皇后宮の次に豪奢であるのは范淑妃が起居していた宮である。こちらは食中りで貴人が多数亡くなった縁起の悪い場所だと周囲から認識されており、また実際には凄惨な事件のあった場所であるから、勿論使用する予定はない。

 いっそ廃して解体した方がいいかもしれないと、春雷は言っていた。霞琳も同意見である。


 シャムナラ姫がいた宮も使用しないこととした。ただこちらは、それなりに絢爛ではあるものの後宮の最果てに位置しているので、本来高位の妃嬪の住まいとしては不適切なのだ。故に当面使用しないことに加え、先の主が()()したというだけなら珍しいわけではなく不吉とまではいえないので、こちらは取り壊さずとも差し支えないと判断されている。

 その決定に、霞琳はほっとしていた。

 今でもその宮を遠目にしただけで、シャムナラ姫の命が指の隙間から滑り落ちていってしまったあの瞬間が克明に思い起こされて、自然と涙が溢れて来るくらいには心臓が軋む。しかし同時に、そこは彼女と最後の時間を過ごした思い出の場所でもあった。それが失われるとしたら、やはりそれはそれで切なさに呼吸が詰まるような心地に襲われるのだ。

 なんとも都合の良い我儘な感情ではあるが、どちらも霞琳にとって真実であった。いずれ時間が経てば、苦しみよりも思い出の温もりが勝る日も来るだろうと、漠然と考えている。


 ともあれ、これら三か所を除く宮が新たな妃嬪の住まい候補であるわけだが、如何せんその数が多い。なにせ妃嬪は最大で四夫人・九嬪・二十七世婦・八十一御妻の計百二十一人も置けることになっている。妃嬪が常に定員を満たしているということは流石にないので、実際に百もの宮があるわけではないが、それでもその数は馬鹿にならない。加えてそれぞれの宮が一長一短であるため、割り当てが一筋縄ではいかないのは当然だろう。


 問題を複雑にしている主な要因は、三人の極めて微妙な力関係にある。

 後ろ盾となる人物を有力な順に並べると、劉昭容、曹昭媛、鄧昭儀である。

 血筋の良さからいくと、曹昭媛、鄧昭儀、劉昭容となろう。

 妃嬪としての位の高さなら、鄧昭儀、劉昭容、曹昭媛となる。

 ――即ち、完全な三つ巴なのだ。


 尤も、正確には、権力を偏らせまいとした春雷が敢えて三つ巴に持ち込んだのである。

 我が世の春を謳歌する劉司徒、過去の栄華を取り戻さんと急速に巻き返しを図る治泰に対し、矯麗の兄である征北将軍鄧魯範はかなり分が悪い。

 鄧家は北部における有力豪族であるが、あくまで地方の官吏や武官を輩出してきた家柄で、これまで都では無名であった。既に大青華帝国の支配下に入っていた北方異民族が稀に起こす反乱の鎮圧にあたり、魯範が武功を積み重ねたことから征北将軍に取り立てられたのである。つまり、中央政界における彼の立場は新興軍事貴族といえよう。それを劉司徒や治泰とどうにか張り合える水準まで引き立てようとすれば、嬌麗を最有力の妃嬪にするしかない。

 しかし劉司徒と治泰がそれを看過するわけはなく、妃嬪の位階については相当紛糾したらしい。

 春雷は、嬌麗は皇子時代から仕えてくれている唯一の妻だからという一点張りで押し通し、三人のうち最上位の昭儀に就けることに成功はした。が、そんな理由で引き下がるわけがない劉司徒と治泰をその場凌ぎであっても黙らせるために、この序列は妃嬪の功績次第でいつでも逆転しうることを約さねばならなかった。

 妃嬪の功績とは何か?――最も明快なものは皇子、それもできれば皇太子を産むことだ。

 そのために妃嬪たちは春雷の寵を求め相争うに違いない。今後の彼の苦労は察して余りある。


 そのような状態だからこそ、なおのこと宮の割り当ては重要事項になってこよう。

 皇帝の住まいたる歳星宮との距離、敷地の広さ、建物の新しさ、装飾の華美さ――それぞれ異なるからこそ、どのような宮を下賜されるかはその妃嬪がどれだけ重んじられているかを推し量る目安になるはずだからだ。


 一人で考えていても埒が明かぬと、霞琳は女官長に相談することにした。長年に亘り後宮に身を置き様々な経験をして来た彼女ならば、きっと新たな知見を与えてくれると思ったからだ。

 しかし予想に反し、話を持ち掛けられた女官長は形の良い眉を顰めて暫し考え込んでしまったのである。


「……妃嬪の宮、ですか。確かに、今回は私にとっても最難関でございますね。」

「そ、そんなにですか……。」

「普通は一時期に複数名の妃嬪が入って来ることなどありませんから。後宮入りした時点で空いている場所を割り当てますので、宮の良し悪しが妃嬪としての序列を必ずしも物語るわけではありません。――それが今回は、ただでさえ位階の上下が実態に即しているとは言えませんし、全ての宮が空いている状態で同時期に後宮入りされるので、宛がわれる宮の評価が御三方の価値に直結してしまうのです。こんなに難しいことはそうそうございませんわ。」

「そうですか……。」


 女官長もまた三つ巴の女性たちの後宮入りは対応が難しいと考えあぐねているようだ。捗々しい回答を得られず、霞琳はしゅんとして項垂れた。

 それでもなんとか力になろうとしてくれるようで、女官長が一つの提案を口にする。


「一先ず、先例に倣うという名目で下賜する宮の候補を絞られてはいかがでしょうか。これまで九嬪がお使いになった事跡があるのは、この二十一の宮です。」


 後宮の絵図を広げた女官長が、四角で表現された宮を順番に指し示す。

 九嬪――昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛の九人なのに二十一も宮が使われたのは何故か問うと、九嬪に賜う宮が明確に定義されているわけではなく、例えば二十七世婦から九嬪に昇格した妃嬪が同じ宮に留まっていたり、妃嬪の数が増えた時に宮を増設して新築のものを宛がったりと流動的だったため、数が合わないのだとの答えだった。

 成程、と霞琳は相槌を打つ。


 そして同時に、女官長が示した二十一の宮の場所も大きさもてんでばらばらなのは、建国初期から存在していたのか後に増設したのかといった違いによるものなのだろうと解釈した。

 時代が下るにつれて宮が増えていったのならば、先にある宮の合間を縫うように配置した結果狭い区画になってしまったり、歳星宮の近辺が既に埋まっていたために外れた場所にしか建設できなかったりしたのだろう。故に新しいものほど狭く不便な場所にあるということかと確認すると、女官長は概ね正解だと頷いた。

 概ね、というのは、建国初期に建てられた立地も良く広大な宮が破損等により建て替えられ、築年数が新しいという例もあるためだという。


 椅子に腰掛け机上に広げた絵図を眺めながらそんな話をしているうち、霞琳の頭の中はぐるぐる渦巻く情報の坩堝と化してきていた。

 要点は書き留めていたつもりでも、帳面の至る所が墨まみれになって、どれがどの宮の説明だったか一目で判ぜられなくなっている。

 これは不味い、非常に不味い。


「……すみません、お願いがあるのですが。その二十一の宮をご案内くださいませんか?」


 女官長は数度目を瞬かせた後、破願して頷いた。


「霞琳様は実際に経験する方が早く覚えられる方ですものね。その方がよろしゅうございましょう。」


 嫌な顔一つせず付き合ってくれるという女官長は、これまで引継ぎをする過程で霞琳の性質を見抜いていたようだ。

 そしてそれに合わせた指導をしてくれる彼女の心遣いの有難さを噛み締めながら、霞琳は意気揚々と宮巡りツアーへ出立したのだった。



**********



(つ、疲れた……!)


 げっそりとした表情でへたり込む霞琳を見下ろしながら、女官長は口許を袖で隠し品よくほほほと笑い声を立てる。


「長らく体調を崩されていたのですもの。本日のような強行軍ではお疲れになるのも無理はございませんわ。」


 そうなのだ。広い広い後宮の敷地に点々と存在する二十一もの宮を徒歩で移動し、建物の状態を確認するためにひとつひとつ丁寧にじっくりと見て回れば、想像以上の時間と体力が費やされるのも無理はない。

 これまで後宮内を動き回っていたつもりであった霞琳だが、それは目的地と自室を最短ルートで往復していただけに過ぎない。今回のように点在する目的地を多数回れば、幾ら効率的な経路を選択したとて相当な距離を歩いていることだろう。況してやうんうんと頭を悩ませながらの移動とあっては、体のみでなく頭も疲弊するのは道理だ。


 しかし恐るべきは女官長の体力である。

 決して若くはない、しかも体力仕事ではないはずの立場にありながら、息切れ一つ起こしていない。

 その理由はといえば、「あちらこちらの妃嬪から呼び出されたり遣いにやられたりしているうち、自然とこうなりますよ」ということなので、霞琳は己の未来を悲観せざるを得なくなっている。


「ですが霞琳様、骨を折っただけの成果が得られたのではございませんこと?」

「そうですね、……やはり百聞は一見に如かずというところでしょうか。突破口が見えてきた気がいたします。」


 相談前とは異なり、迷いが消えたようにしっかりとした返答を紡ぐ霞琳に、女官長は満足そうに双眸を細める。

 今や霞琳の頭の中はすっきりとしていて、墨だらけの帳面は最早不要な程に、脳裏には二十一の宮がありありと浮かんでくるようだった。完全に悩みが解決したわけではないが、既に三人の妃嬪に宛がう宮も絞れてきている。


「本日は本当にありがとうございました。女官長のお蔭でどうにかなりそうです。……それと、私が女官長になった後は後宮内を東奔西走する覚悟もできました。」

「まあ、ふふふ。」

「……そういえば女官長は、今後どうなさるのですか?」


 霞琳の冗談にころころと笑い声を立てていた女官長は、不意に改まった表情を浮かべた。何の気なしに訊いてしまった霞琳だが、もしかして避けるべき話題だったろうかと不安になる。


「女官長の座を退いた後、私は後宮を出て王氏やそれに連なる方々の霊を守りお慰めする日々を送ろうと思っております。――これは引継ぎの最後にお話ししようと思っていたことなのですが、丁度良い折なので、今お聞きくださいますか?」


 突然王氏という想定外の単語を耳にした霞琳は一瞬動揺を禁じえなかったが、すぐにはっきりと頷いた。女官長の面持ちは真剣そのもので、とても重要なことのように直感したからだ。

 その態度に頬を緩めた女官長が語る内容は、衝撃的なものだった。


 女官長は元々王皇后の侍女長で、王氏に近しい有力貴族の娘だったらしい。一度はやはり王氏と親密な貴族の家に縁付いたが、夫に先立たれて子もなかったために実家に戻っていたところ、賢女の聞こえ高かったが故に王家の当主からお声が掛かり、皇太子妃として嫁ぐことになった若かりし日の王皇后の侍女として付き従って来たのだそうだ。

 そして王氏の変にあたり、王氏派と見做された実家も、嫁ぎ先だった家も、一族誅殺の憂き目を見た。

 一方で彼女自身は王皇后共々罪には問われなかったばかりか、噂通りの才媛であると皇帝に認められ、先代の女官長が高齢で退任するにあたり後任となったということだが、当時既に皇帝と王皇后の仲が険悪な状況だったというのに、王皇后の侍女長にして王氏に所縁深い女性を女官長に抜擢もとい引き抜いたも同然の皇帝の決定には疑問を覚えたという。


「畏れ多くも私は皇后陛下からご信頼いただいておりましたので、私を引き離すことで皇后陛下のお力を弱められようとされているのかと、皇帝陛下の御心を邪推したこともございました。……ですが段々と解ってまいりました。皇帝陛下は皇后陛下を心から愛されていらっしゃったのでしょう。」

「……え!?」


 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった口を、慌てて両手で押さえる。

 二人の不仲は国中の誰もが知っていることだ。皇帝は范淑妃を寵愛していた事実も然り。だというのに、どうして皇帝が王皇后を愛していたという結論に至るのだろう。

 そんな反応は予想済みだったと言わんばかり、女官長は気に障った様子もなく話を続ける。


「皇帝陛下からはっきりお聞きした訳ではございませんが、後ろ盾を失くした皇后陛下を女官たちが蔑ろにしないように、そして後宮において皇后陛下に万事不都合のないように取り計らえという意味で、私を女官長にお任じになられたのでしょう。そして私もそのように心がけてまいりました。

 女官長の務めを終えたなら、本来はまた皇后陛下に近侍すべきなのでしょうが……お暇を頂くお許しを賜りました。」

「それはどうしてですか?」

「私ももう歳を取りましたし、皇帝の代替わりに伴い王氏や我が一族に対する世間の目も和らいでくるでしょうから、漸く堂々とその魂を弔うことができるようになるのです。皇后陛下からも、自分の分まで是非そうしてほしいと。……それから。」

「それから?」


 女官長は一度口を閉ざして、じっと霞琳を見つめる。

 思わず息を詰めた霞琳の片手は、次の瞬間には女官長の両手にしっかりと包まれていた。


「次の女官長が霞琳様ならば、安心して全てを委ねられると思ったのです。あの名高い張家のご令嬢なら、皇后陛下を無碍にはなさるまいと。そして実際こうしてお会いしてみると、とてもお優しく賢い御方でしたので、私の予想は合っていると確信いたしました。――私が後宮を去る上での心残りは皇后陛下のことだけ。どうか、どうか霞琳様、皇后陛下を宜しくお願いいたします。」


 女官長の手は力が籠められ、声は震えていた。安心して委ねられるという割には、心底からの懇願に近い。それだけ王皇后を想っているのだろう。

 彼女の話は霞琳の知るところと余りに乖離しすぎていて、疑問が多過ぎる。訊きたいことは沢山あるのに、口に出すのが躊躇われて唇を開けない。

 ただ一つだけ確かなのは、霞琳には、未だ一度もお目に掛かったことがない王皇后に対し他意などあろうはずもなく、しかも春雷の生母である方を悪いようにするつもりも毛頭ないということだ。それだけは彼女に約束できる。

 雰囲気に飲まれて上手く言葉が出て来なかった霞琳ではあったが、女官長の思いをしかと受け取ったことを伝えるように、己の手を包む彼女の両手にもう片手を添えて、ゆっくりと頷いたのだった。



**********



 翌日、霞琳は春雷に妃嬪を迎える準備の進捗状況を報告していた。

 その中には勿論、苦心してまとめあげた宮の割り当てに関する案も含まれている。


「……という理由で、劉昭光様にはこちらを、曹栄節様にはこちらの宮をお使いいただこうと考えております。」

「成程。――それで、嬌麗は?」


 春雷の問いに、霞琳は一瞬表情を曇らせる。そして躊躇いがちに、机上に広げた後宮の絵図のうち一つの四角を指し示す。


「御二方との釣り合いを考慮すると、こちらの宮でいかがかと思うのですが。……恐れながら、些か自信がございません。」


 霞琳のなかで、先の二人については宮の選定にあたり明確な理由付けができていた。恐らくそれは、劉司徒や治泰も納得するだろう内容のつもりである。

 しかし嬌麗の宮だけは、春雷の苦労を無にせぬよう三つ巴の関係を意識したというだけの選び方になってしまったのである。彼女にその住まいが相応しいのは何故か――それを明瞭に示すことだけができず、腐心していた。

 

 春雷は暫く絵図に視線を落として黙っていたが、やがてふっと面持ちを綻ばせて笑みを象る。


「私はそなたの案を全面的に支持する。私の助けを求めることなく、よくここまでやってくれたな、霞琳殿。大したものだ。」

「しかし、嬌麗様の宮は本当にそこで問題ないのでしょうか?嬌麗様や鄧将軍がご不満に思われたり、劉司徒や治泰様が反発なさるようなことは――。」

「問題ない。」


 霞琳の懸念を払拭するよう、言を遮るように春雷が断言する。そして、微かに悪戯っぽく双眸を細めた。


「これは、そなたが私に泣きついてきたら助言をしようと思っていたことなのだが……――嬌麗は今、私の子を身籠っている。」


 唐突に共有された秘密に、霞琳は春雷とは対照的に目を瞠った。

 そして、それはやがて満面の笑みに変わっていく。


「それはそれは、心よりお祝い申し上げます。――そうであれば、嬌麗様にはやはりこの宮が相応しいですね!」


 霞琳と春雷は互いに笑顔で見つめ合い、大きく頷いたのだった。



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