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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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毒の波紋

「毒でしょうな。」

(……そうでしょうとも。)


 悠々とやってきた医官の見立てに、霞琳は心中で悪態を吐いた。そのくらい、素人の霞琳でも分かる。


「残念ですが、貴妃様はもう……。」

(……分かってる。分かりたくないけれど、分かってる。)


 分かっている。理解はしているのだ。ただ、急すぎて事態に追いつけない心が千々に乱れるのを堪え、霞琳は泣きはらした情けない顔を伏せて下唇を噛み締めた。


 さっきまで楽しそうに笑っていたのに。

 さっきまで明るく戯れていたのに。

 さっきまで温かかったのに。


 冷たく、重くなっていくシャムナラ姫の感触が、霞琳の腕にまだ残っている。


(これが夢だったらいいのに。寝て、目が覚めたら、おはようって言いながら姫様が微笑んでくれたらいいのに。)


 表情を失い座り込んだまま動けない霞琳の鼻孔を、鉄のような独特の臭いがくすぐる。夢物語に逃げそうになる意識を鷲掴みにして引きずり戻し、現実を突きつけてくるようだった。


「……――というわけでして、私めはこれで失礼いたします。」


 まったく耳に入らなかった医官の長い話がようやく終わるようだ。


(……私はこれから、どうしたらいいんだろう。)


 霞琳が途方に暮れたその時、


「いよーし、長話ご苦労!お蔭でこっちの準備は整ったぜ!」


 唐突に宮殿の扉が蹴破られ、響き渡る豪快な声。思わずそちらを向いた霞琳の視界に飛び込んできたのは、凛々しく整った顔立ちをした体格の良い青年だった。上等な衣類を纏っているところから察するに、相応の地位にある人物のようだ。

 そして彼の後方で全開になっている扉の外には、物々しく武装した衛兵たちの姿が見えた。

 医官の長々しい無駄話は、どうやら彼らが包囲を完成させるまでの時間稼ぎだったらしい。

 シャムナラ姫の侍女たちは見慣れぬ衛兵たちの威圧感にすっかり委縮し、小さく悲鳴を上げ震えながら壁際でへたり込んでいる。

 その様子に構わず、青年は近くにいる侍女の腕を無遠慮に掴み立ち上がらせた。


「きゃっ!お、お止めください……!」

「あん?何だって?」


 訛りが強い片言の言葉は、青年に通じていないようだ。それでも怯えきった表情を目にすれば何を言いたいのか理解できそうなものを、彼はまったく意に介した風もなく強引に侍女を引き寄せた。


「お許しください、お許しください……!」


 半狂乱の侍女が紡ぐのは、咄嗟に出てしまったのだろう母国語(ジュゲツナルム語)。これではますます彼に言葉が通じない。助けて、と縋るような視線を向けられた霞琳は、びくりと肩を震わせた。


(もしも姫様が生きていたら――?)


 彼女ならきっと、持って生まれた王族としての気品や威厳を纏い、毅然とした態度で青年を制止するだろう。

 彼が応じるかどうかは分からないが、それでも堂々と渡り合おうとするはずだ。シャムナラ姫は侍女を可愛がり守ろうとする理想の主だったのだから。


 姫様がいない今、彼女たちが頼れるのは私だけ。

 大青華帝国の者と会話が通じるのは私だけ。

 彼と対等に渡り合える可能性があるのは、名門張家の者である私だけ。


 ぐ、と霞琳は強く拳を握る。


(姫様、私に勇気をください……!)


 霞琳は静かに腰を上げ、青年と侍女の間に割って入る。彼の逞しい腕を掴み、言外に侍女を離せと睨み付けた。


(震えるな、この腕よ。どうか、どうか――!)


 息を詰める霞琳に視線を向けた青年は、おや、と双眸を瞬かせた。


「あんた……戎月の者か?」


 侍女たちが西域の民族特有の外見を持つ中で、霞琳のみはそうではなかった。茶がかった琥珀の瞳、光を受ければ仄かに黄金色を帯びるもののほぼ黒と称して差支えのない茶髪、肌は白からず黒からずといったところで、若干色素が薄くはあれど西域民族よりも大青華帝国の人間の特徴が見て取れる。


「私は月貴妃様の指南役として参りました、征西将軍張正蓋の子にございます。ご無礼お許しください。」

「張将軍の……!」


 青年は双眸を丸めて固まった。

 張正蓋といえば、大青華帝国で知らぬものはない。常勝将軍の名を恣にし、その名を出せば泣く子も黙る名将である。


 張家は大青華帝国建国における第一の功臣にして初代皇后を輩出した名門であり、初代皇帝から賜った征西将軍の官位と広大な西部の地を代々継承していた。ジュゲツナルム王国と大青華帝国との国境がちょうど張家の領地に含まれている――というよりも、かつては二国が互いに侵攻を繰り返し戦乱が絶えず、最重要地域と見做されていたがために張家がずっとここに置かれていた結果、そのような状況になっている。

 北・東・南の三方にもそれぞれ征北将軍、征東将軍、征南将軍が置かれ、征西将軍とあわせて「四征将軍」と呼称されていた。しかし、今や西方以外の国境は大陸の海岸線と一致しており、外敵がいない。希に発生する辺境の蜂起を鎮圧する程度の働きしか期待されておらず、実質的に名誉職となったこれら三将軍は、その時々に応じて任免が繰り返されていた。

 ゆえに、「四征将軍」は全員同格と位置付けられているものの、征西将軍のみがずば抜けた戦績を持ち、長期にわたり領地領民を治め、事実上の世襲制になっている。そのため他の将軍に比較して遥かに強大な勢力に成長した張家は、皇帝からも警戒されるほどになっていたのである。


(張家は戎月を手懐けるにあたり、王家と姻戚関係を結んできた。月貴妃の供に張家の娘が加わっていてもおかしくはない。……張家を刺激するのは得策ではない、か。)


 青年は静かに侍女から手を離し、姿勢を正して霞琳に向き直った。


「こちらこそ、ご無礼お許し願いたく。俺は李徴夏。司隷大夫を務めております。」

「李徴夏様……。」


 霞琳が復唱すると、恭しい一礼をした――と見せかけて、表情はどこかこちらを下に見るような、不敵な笑みを浮かべている。慇懃無礼である。

 李徴夏という名には聞き覚えがあった。征東将軍李成高の嫡子で、第二皇子の側近として著名な人物である。李家は数代前の皇帝から枝分かれした家で、優秀であることに加えて忠義に篤く野心のない当主を輩出してきたため、皇族のなかでも特に重用されているという。

 徴夏もまた例に漏れず、弱冠二十歳にして司隷大夫――都の警察長官に任じられた才気煥発な若者であった。血筋の良さを差し引いても、大抜擢といえるだろう。


「司隷大夫様がいらっしゃるということは、月貴妃様の毒殺について調査されるということですね。」


 これまで敵に見えていた人物が、月貴妃の死の真相を暴いてくれる味方であった。――そう思うと、張りつめていた気が緩み、霞琳の口から小さく安堵の息が漏れる。


「そういうことですね。……――というわけで、この宮殿にいた者は全員拘束させてもらいますよ。貴妃様に毒を盛った可能性がありますんで。」

「!?」


 今、この男は何と言った?シャムナラ姫に毒を盛った?私たちが?


(――そんなわけがない!)


 叫んだつもりの声は音にならず、ただ唇がわなないただけだった。

 にま、とした笑みを浮かべる徴夏は相変わらずで、しかし眼だけは笑っていなかった。獲物を追い詰めていたぶる猛禽類のように鋭く細まっている。


(どうしよう。どうしよう、どうしよう……!)


 己なりに毅然とした振る舞いに努めたはずだった。しかし、何ら功を奏さなかった。侍女を救えないどころか、自分自身も窮地に陥っている。

 徴夏が片手を軽く上げたのを契機として、衛兵たちが無遠慮に宮殿に雪崩れ込んでくる。侍女たちの悲痛な叫びがそこかしこに響き渡り、やがて無理矢理連れ出されて消えていった。

 霞琳はといえば、固まったまま動けずにいた。


「ああ、張家の令嬢だけは俺がやる、お前らは手出しすんな。張家と揉めんのはごめんだからな。」


 徴夏の命令を受け、衛兵は霞琳の周りからすっと引いていく。


「とりあえず、あんまり手古摺らせてくれんなよ?怪我されると面倒だからな。」


 そっと、しかし逃れることは叶わない強さで、徴夏は霞琳の腕を握る。

霞琳は、びく、と肩を跳ねさせた。肩だけではない。心臓も、壊れてしまうのではないかと懸念するほど、先程から激しく跳ね続けていた。


「ああ、そうそう。……あんた、最初から震え過ぎ。笑える。」


 くく、と徴夏の喉奥が低く鳴った。あれほど勇気を振り絞り、毅然とした態度を装ったところで、この男が相手では端から渡りあえてなどいなかったのだ。


(……姫様、ごめんなさい。私はあなたに遥か及ばない。)


 悲しいのか、悔しいのか、恐ろしいのか、はたまたもっと別の感情なのか。自分でも判然としない心持ちのまま、霞琳は徴夏に引きずられて宮殿を後にすることしかできなかった。


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