嵐の前の平穏
あれからというもの、霞琳は穏やかな日々を過ごしていた。
納得のいく内容とは言い難かったものの、シャムナラ姫の死について知れたことが大きかったのだろう。
まるで憑き物が落ちたかのようなすっきりとした心持ちで、改めて後宮を眺めやる。恐ろしい場所だという考えは変わらないが、それでも宮女たちに対する感情は随分と柔らかくなったと、自分でも思う。
つい先頃までは、この中にシャムナラ姫を害した者がいると考えるだけで、胸中に仄暗い澱みがひたひたと広がっていくようだった。
それが今では、宮女たちと心からの談笑を楽しむことができる。白維たちに対しても、彼女らを利用するという後ろめたい打算もなくなったため、一緒に素直な笑い声を上げながら雑談に興じている。口以上に手を動かすよう努めたお蔭で、「霞琳様に落とせない汚れはありませんね!」とのお墨付きを貰えるほどに洗濯技術も向上した。
その分荒れてしまった手指を心配したラシシュから、もう彼女たちに近づく必要もないのだから洗濯は止めてはどうかと進言を受けてはいるが、霞琳は首を縦には振らなかった。この手の傷みは、落ち零れの自分にも成せることがあり、自分が成長している証なのだと、寧ろ誇らしく感じたものである。
とはいえ、上達するのが洗濯ばかりでは、未来の女官長として甚だ不足である。
ゆえに、白維たち以外の宮女たちとも積極的に交流を図り、可能な限り仕事を共にするよう心掛けた。そうしているうちに、宮女たちの名前や顔は勿論、後宮の仕事内容や段取りまでも自然と覚えられるようになってきた。知識を頭に詰め込むことは不得手だが、体験して身に沁み込ませていくのは得手であったようだ。
発見の連続ともいえる日々に充足を覚え、活き活きと駆け回っていた。
そんな霞琳の人気は後宮で鰻登りの状態だ。名家出身でありながら出自や官位を問わず気さくに接してくれると評判で、特に下級宮女からの支持が厚いという。
勿論、そんな霞琳のことを訝ったり妬んだりして、遠巻きにする者も少なからずいた。ラシシュによると、そういった面々はほとんどが劉司徒に近い人物だという。
「私、劉司徒に嫌われるような事をしていたでしょうか?」
この日も宮女の手伝いに精を出して自室に戻り、ラシシュと昼餉を取ろうとしたところで傷の経過観察のためにやって来た炎益も交え、三人で遅めの食事を楽しむ最中に霞琳が首を傾げる。
ラシシュは一固まり、炎益はぷはっと可笑しそうに噴き出した。
が、すぐに何事もなかったようににこやかな笑みを浮かべたラシシュは、隣の炎益を咎めるように肘で一突きしながら答えをくれる。
「劉司徒は亡き皇帝の片腕として、王氏の変を制された御方ですから。建国期功臣の末裔でありながら断罪を免れた張家に対しては、思うところがおありなのではないでしょうか。」
王氏の変というのは、例の建国期功臣の末裔が一掃された事件のことである。王氏が帝位簒奪を目論んでいたのを皇帝が阻止したという建前になっているため、巷ではそう呼ばれていた。
「でも、兄上の許嫁は劉司徒のご令嬢なのに……。」
霞琳は兄の褒琳を思い起こす。勝手に妹と入れ替わり、男の身で後宮に入った挙句にそれが露見した今、己が張家の人々にどう思われているか想像するだに恐ろしく、尻込みして連絡を取ることも全くしていなかったが、やはり家族は恋しい。
思わず、霞琳の声は沈んでしまった。そんな主を労わるように口を開くのを躊躇うラシシュを察してか、口いっぱいの食べ物を咀嚼しごくんと飲み込んだ炎益が常の如く飄々とした物言いで後を引き取る。
「劉司徒の無節操な人脈作りは有名ですからねー……失礼かもしれませんけど、張家が特別ってわけじゃないと思いますよ。強いて言えば、張家に警戒心があるからこそ敢えて繋がっておこうとでも考えてたんじゃないですか?」
「そういう考えもあるのですね……。確かに兄上の縁談は陛下のお声がかりだったと聞きました。父上はあまり乗り気のようには見えませんでしたし、実際、兄上がいつジュゲツナルム王国に出陣するか分からない状況で新婦を受け入れるのは難しいという理由で婚儀を先送りにし続けています。我が家には利益のない縁談だったのですね。」
「でしょう?徴夏様も不本意だったはずですよ。」
「徴夏様もって?」
霞琳の問いに、炎益は予想通りだとばかりにけらけらと笑い声を立て、ラシシュが再度固まった。彼女は、今度は何か言い淀むようにすぐには答えをくれず、微妙な表情を浮かべている。
その顔から察するに、恐らく彼女が言わんとしたことは世の人なら誰でも知っている内容なのだろう。炎益が笑い転げているのも頷ける。霞琳は己の無知さと、ラシシュに気を遣わせていることに申し訳なさを感じた。
「はっははは!……いやあ、僕、霞琳様のそういうところ本当好きですよ。何もかも知らず世渡りの術なんか身に着けなくっても生きていけるような、恵まれた環境でのほほんと育ちましたって言わんばかりの、いかにも良家のご令嬢って感じで。」
「炎益様、お口が過ぎますわ!」
「ああ、すみませんねえ。羨ましくって、つい。ま、僕としては褒めてるんですけど。」
(……もっと勉強しなきゃなあ。)
二人の遣り取りを遠くに聞きながら、霞琳は忸怩とした思いで唇を噛み締める。
叔父の講義が頭に入らなかった実績があるため甚だ心許ないが、ラシシュの良き主でいるためにも、春雷の役に立つためにも、貴族たちの関係性や政情のことについては知っていかねばならないだろう。
ラシシュとて、最初から大青華帝国の内情に詳しかったわけではないはずだ。シャムナラ姫の侍女として後宮入りするにあたり、必要事項として叩き込まれたのだろう。そしてその指導のために情報を提供したのは、恐らく叔父だ。
同じ人物から教わりながら、それも直接師事した霞琳に比較して、伝言や書状の類いで学んだだけであるはずのラシシュの出来の良さよ。持つべきものは優れた友にして部下であると、しみじみ思う。
さて、その才女ラシシュが炎益を窘めて黙らせたようで、漸く話を再開させる。
「ええと、徴夏様の亡き奥様は劉司徒のご令嬢でして――。」
「ええ!?じゃあ兄上と徴夏様は義理の兄弟になるの?……待って。亡き奥様ってことは、徴夏様はあの若さで……なんてご不憫な……。」
目を白黒させてばかりの霞琳は、頭の整理が追い付かない。
確かに徴夏の年齢からいって妻の一人や二人いても当たり前なのだが、情報収集のためとはいえ宮女たちを漁っている姿からは、とてもそんな雰囲気が欠片も感じられなかったのだから、驚くのも無理はない。尤も、妻に先立たれてしまった男ならではの大人の余裕と悲哀を醸し、それでいて独り身の身軽さで数多の女性を陥落させていたというのなら、それはそれで納得なのだが。
しかも徴夏と張家が劉司徒を介して縁戚といえなくもない関係にあったとは、いくら霞琳が辺境育ちで都の貴族との関係が希薄であろうとも、ラシシュが一瞬言葉を失うのも止むを得ない。
流石に恥ずかしく、熱を持つ両頬を左右の掌で押さえ込む。いつの間にか女性的な振る舞いが自然とできるようになっているのを、悲しいかな本人は全く自覚していない。
「褒琳様はまだ正式に婚姻を結ばれてはいらっしゃらないので、義理の兄弟とまで言えるかは微妙なところですけれど。
それに劉司徒は人脈作りのためにご自身も妻妾を数多く迎えられていますし、お子様も三十人、いえご養子ご養女も含めると四十人は下らなかったような……。」
「――四十人!?」
多い。多すぎる。
四十もの有力者を婚姻により取り込めば、成程、政を意のままにするのは容易かろう。劉司徒恐るべし、である。
「元々劉司徒は貴族から脱落しかけてた下の下の下の家柄出身ですからねー。ちょっと才能があったから皇帝に見出されて側近に抜擢されたらしいですけど、王氏の変がなければ表舞台での出世は難しかったはずですよ。
その一件で大活躍したから陽の目を見たとはいえ、頼みとするのは皇帝の信頼のみ、なんて状態じゃあ、皇帝の気が変わったり代替わりしたりした時を思うと、心許なかったんじゃないですか?実の娘を皇太子妃に差し出して春嵐様も抱え込もうとしてましたし、自派閥強化のための婚姻に精を出しまくってます。その結果が四十人くらいいる子どもってわけです。
一方で、突如政界の頂点に上り詰めた劉司徒のお零れに預かりたい浅ましい連中も多くいますから、張家や徴夏様たちを除けば、劉司徒の人脈作りは双方に利点があるんでしょうねー。」
「こ、皇太子妃もだったのですか……!」
下らない権力闘争だと言いたげに吐き捨てながらむしゃむしゃと無遠慮に食事を頬張る炎益の説明に、霞琳は思わず唸り声を上げた。皇族とも目ぼしい貴族とも繋がっていれば、本当に劉司徒の天下ではないか。
春雷は政治の現状に思うところがあるようなので、恐らく劉司徒との対立は免れないのだろう。幾ら徴夏のように優秀な人材を味方につけているとはいえ、多勢に無勢。果たして勝ち目はあるのだろうか。
劉司徒との戦いにおいて自分ができることは一体何なのだろうかと、霞琳は天を仰いだのだった。