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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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真実を知る者(後編)

 ――あの日。


 霞琳を特別扱いと称して隔離した暴室内の一室に皇帝が突如として現れた後、徴夏は嫌な予感を覚えて春雷の元へと走った。

 徴夏はその才気煥発なところを皇帝に見込まれ将来を嘱望されていたのだが、ここだけの話、徴夏自身は暗君と成り果てた皇帝を軽蔑しており、忠誠心など微塵も持っていなかったのだ。


 皇帝が、憎悪する張家の娘と二人きりになった。碌でもないことが起こるに決まっている――直感的にそう予見した徴夏は、それを止めねばならないと考えたのだ。彼は張家に対して個人的な感情は特段持っていないが、己が支持している春雷が張家を重視しているからにほかならない。

 案の定、報告をするや否や春雷は即座に行動した。暴室に馳せ参じ、范淑妃の名を利用して皇帝をその場から追いやり、徴夏に炎益を呼ばせた。


 指示通り炎益を暴室に向かわせた後、徴夏は部下を連れて范淑妃の宮へ急行した。

 なにせ月貴妃が暗殺された直後なのだ。後宮内で皇帝の身に万一があってはならないため、護衛をする――という名目で、皇帝が再び暴室に向かわぬよう時間稼ぎをするためである。

 范淑妃が寂しがっているなどという春雷の発言が方便であったことも露見しているだろうから、それを有耶無耶にする必要もあった。


 手勢を宮の出入口に配置し、自らは皇帝の近くに侍すべく中へと入った徴夏が目にしたものは、信じられない光景だった。


 床に倒れ伏す皇帝は血まみれで、既に事切れていた。刃物で刺されたようだった。

 傍らには、皇太子が口から血を垂らして横たわっていた。毒を含んだようだった。

 そして范淑妃がその場に立ち尽くしていた。豪奢な衣装は鮮血に染まり、まるでそれ自体が艶やかな模様であるかのような、強烈な存在感を放っていた。

 そして極めつけは、床に転がった血塗れの匕首――。


 状況からいって、范淑妃が二人を殺めたとしか考えられない。

 范淑妃を捕えようとした徴夏だが、彼女は激しく抵抗した末、隙をついて毒を煽り第三皇子を道連れに自決してしまったのだという。

 せめてもと范淑妃の侍女たちを捕えて尋問しようとしたが、彼女達もやはり次々に自ら命を絶ってしまった。皇帝弑逆に関与した可能性があるというだけで、尋問や処罰は相当過酷なものになることは容易く予想される。そんな地獄を見るくらいなら、自死という一瞬の苦痛の方が余程楽だということなのだろう。

 侍女たちに紛れて、厨担当の例の女官も范淑妃の宮で自害していたのが見つかったという。


「……范淑妃(あの女)は自分の権勢を見せつけるため、元々皇太子や春雷に日々のご機嫌伺いをさせたり、何かにつけて呼びつけては下らねえ用事を言いつけたりしていた。春雷が暴室に来たのは范淑妃の使いだと、皇帝があっさり信じたのもそういう前提があったからだ。

 だからまあ、皇太子が范淑妃の宮にいたこと自体は不思議じゃねえ。その死因が毒物だってことは、范淑妃が第三皇子を次期皇帝にするために皇太子暗殺を目論んだんじゃないかと踏んでる。

 そこに皇帝がやってきて、一悶着あったんだろうよ。幾ら暗愚だとしてもそこは父親だ、皇太子(我が子)が殺されて何とも思わねえ訳はない。

 ……あの強かな女狐が皇帝を刺し殺すなんて、形振り構わぬ手段を取らざるを得なかったってことは、相当だ。」


(やっぱり食中りなんかじゃなかったんだ。だけど――。)


 徴夏から話を聞いても、霞琳はすっきりするどころか益々心の中の靄が広がる感覚に襲われた。

 皇帝たちの死因という事実を知れたところで、彼らが死を迎えた真相はおぼろげにしか掴めないままなのだ。


 恐らくその気持ちが最も強いのは、その場に遭遇した徴夏その人だろう。

 立場からいっても真相を暴かなければならなかったはずが、そうできなかったことが余程口惜しかったと見えて、徴夏の語気は常より乱雑に、そして表情からはいつもの余裕が完全に消え去り眉を顰めている。


 そんな徴夏を見つめているのも痛々しい心地になって、春雷に視線を移す。春雷も父と兄の最期を改めて耳にするのは辛いのだろう、影が落ちた双眸を伏せ無言でいるだけだった。


 長い、長い沈黙が部屋を満たす。


 呼吸すら憚られるような静寂を破ったのは、霞琳が椅子から立ち上がる衣擦れの音だった。

 春雷と徴夏が反射的にそちらを向くと、深々と頭を下げる霞琳の姿がそこにあった。


「徴夏様に、御礼申し上げます。」

「……礼?俺に?」


 徴夏は、ぽかんとした表情で問い返す。彼のそんな間の抜けた表情はさぞかし希少であるに違いない。


「はい。月貴妃様の仇を取ってくださいました。」


 そう応じて、霞琳は顔を上げる。

 曖昧な憶測ばかりではあれど、状況からいってシャムナラ姫を手に掛けたのは范淑妃でまず間違いない。そしてその范淑妃は自殺ではあったけれど、そこまで彼女を追い詰めたのは徴夏である。


「止めろ、俺はそんなつもりじゃなかった。俺にとっては失態だってのに、礼なんざ言われる筋合いもない。」

「それでも。それでも、月貴妃様の命を奪ったものが報いを受けていたと分かっただけで私は救われました。

 人の死について、そんな風には感じてはいけないのかもしれません。月貴妃様も私がこんな汚い気持ちを抱えていることなど望んでいらっしゃらないでしょう。

 でも、それでも……私は貴方に感謝せずにはいられないのです。本当に、ありがとうございます。」


 徴夏はばつが悪そうに霞琳をじっと見つめていた。満面に湛えられた笑み。しかし、霞琳は明らかに泣いていた。涙を伴わずに、笑顔で。


「……()()の部屋に随分と長居してしまったようだ。霞琳殿は慣れぬことをして疲れているだろうに、すまない。今夜はゆっくり休むといい。」


 不意に、春雷がおっとりとした調子で口を開く。それは単なる雑談をしていただけであったかのような錯覚をもたらすくらいに普段と変わりない態度で、柔和な表情を霞琳に向けて腰を上げた。

 そして、目線で徴夏に退室を促す。徴夏もまた、気まずげではあれど小さく頷いた。


「お気遣いありがとうございます。お二方こそお忙しいお身体、何卒おいといくださいますように。」


 再度頭を下げる霞琳の肩をぽんと叩き、徴夏は一足先に部屋を出ていく。その振る舞いは、霞琳に対する謝罪と慰め、そして礼のように感じられたのは気のせいだろうか。

 徴夏に続く春雷は一度霞琳の傍らで足を止め、手を差し出すよう促す。怪訝に感じながらも霞琳が両手をそっと向けると、彼は袖の内側から取り出した腕輪をそこに乗せた。


「これは……!」

「ああ、月貴妃の形見だ。もう調査も終わったので、遺品をそなたに渡したいと思って持ってきた。」


 窓から差し込む夕日を浴びた腕輪がそれを反射し、七色の輝きを纏う。神々しくも優しい光が、霞琳の目に沁みるようだった。

 ジュゲツナルム王国でのみ採掘されるナルムチアという希少な鉱物で作られたこの腕輪は、王族の証としてシャムナラ姫が父王から与えられたものだ。かの国の王族は一人一点ずつ、ナルムチアで作られた装飾品を所持するしきたりなのである。

 その慣習を知る霞琳は、王族ではない己が腕輪を受け取ってよいものかどうか判じかねて固まってしまった。

 その姿を目にして、春雷は不安げに顔を覗き込んでくる。


「……すまない。気に障っただろうか。」

「いえ、そんなことは!ただ、私にこれを持つ資格は――。」

「資格ならあるさ。」


 春雷は妙にきっぱりと言い切る。


「そなたは今もなお月貴妃をひたすらに慕い、そして月貴妃が危険を冒してでも後宮に連れてくるほど頼りにした者だ。そなた以外にこの腕輪を持つ資格のある者など、何処にもいるまい。」


 ふわりと双眸を細める彼がそんなことを口にするのは、ジュゲツナルム王族の慣習を知らないからだろう。

 しかし、もし知っていたとしても同じ台詞を言ってくれるのではないかと思うくらいに、春雷の言葉は確信に満ちていた。だから霞琳も、気づけばつい素直に頷いてしまっていたのである。


 そして、今更ながらにふと疑問が浮かんだ。先程、春雷は自分のことを“女性”と言った。それが示す事実は一つしかない。


「……そういえば、徴夏様は私の、その、性別のことは……?」

「無論、女性だと思っている。真実を知る者は、私と炎益、藍朱のみだ。」

「宜しいのですか?先程殿下は私のことを仲間と仰ってくださいました。だから知る権利がある、とも。――ならば、徴夏様も仲間として、私の性別を知る権利がおありでは?」

「確かに権利はある。だが、徴夏がそなたの性別について疑問を抱いていない以上、敢えて今告げる必要はない。

 信頼できる者すべてに対し、すべての秘密を共有していては、守れる秘密も守れなくなるかもしれぬ。……真実を知る者は最小限でよいと、私は考えている。」

「そういうものでございますか……。」


 信頼できる者なら秘密を漏らすことなどあるまいが、故意ではなくとも漏れてしまうことがあるかもしれない――春雷はそう考えているのだろう。

 だからこそうリスクを極力減らすために、彼が最も信頼しているに違いない徴夏にさえも、すべてを伝えはしないのだ。その慎重さもまた彼らしいと、霞琳は感じた。

 そして徴夏でさえ知らない秘密を、自分と春雷が共有している――正確にはラシシュと炎益もなのだが、それはおいておくとして、霞琳は春雷との距離がぐっと縮まったような気がして、心躍る感覚を覚えた。

 えへへ、と顔を緩ませる霞琳を目にして、春雷も双眸を細める。と、


「おい、春雷!()()の部屋で別れを惜しむのも程々にしろっての!」


 外から扉をノックする音に被せて、普段の調子に戻ったらしい徴夏の声が響く。

 二人は思わず顔を見合わせ、


「そうだな、程々にしておこうか。」

「そ、そんなんじゃありません!」


 ふふふ、と含み笑いを零しながら冗談めかせて応じる春雷を急かして室外へ追い出した霞琳は、固く閉ざした扉に背を預けてへなへなとその場にへたり込む。


 疲れた。確かに酷く疲れた。


 久し振りに長時間歩き回ったし、初めての洗濯もした。もっと簡単だと思っていたが、汚れを落とすには結構な力を籠める必要があり、しかしその一方で力任せに擦っては生地を傷めてしまう。

 器用かつ手際よく洗い物を済ませていく下働きの女性に対し、今更ながらに尊敬の念が湧いた。


 そして、シャムナラ姫暗殺についても聞き出すことができた。まだもやもやとしたものは晴れないが、犯人である范淑妃が既に亡くなっているだけでよしとしよう。

 我ながら愚かしくはあるが、犯人を殺したいと思っていたにもかかわらずそれが不可能になった現状に対して、心の何処かでほっとしている自分が存在していることも否めなかった。


 色んなことがありすぎて、頭の中を整理するには時間が必要そうである。

 ふう、と一息吐いた霞琳は、掌を開いて中を覗き込んだ。


(……いつか、王様と王妃様にお返ししよう。それまで私が預かるだけなら。)


 シャムナラ姫の腕輪を受け取る理由をこじつけて、心の中だけで言い訳をする。

 形見の品にそっと口付け、両手で大事に大事に包み込む。これはまるでシャムナラ姫の遺志を引き継ぐ儀式のようだと、霞琳は穏やかに表情を綻ばせながら、そう思った。

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