真実を知る者(前編)
「…………。」
「…………。」
「…………。」
徴夏により自室へと連れ戻された霞琳は、見舞いのために偶々やってきたという春雷に本日の出来事を報告する羽目に陥っていた。ラシシュはまだ戻っていないため、非常に気まずい空間ができあがっている。
(ど、どうしよう……。)
霞琳は冷や汗もので頭を抱えたい気持ちだった。
自分の行いが悪いことだとは思っていない。しかし、自分に任せてほしいという春雷の言を事実上無視してシャムナラ姫の死について調査しようとしたという点については、やはり気が咎めている。
「…………ふう。」
沈黙を破った春雷の溜息に、霞琳は反射的にびくりと双肩を跳ねさせた。
「そなたがこれほど行動的だとは思わなかった。」
「も、申し訳のうございます……。」
責めているわけではない、と春雷は片手を上げて霞琳の謝罪を制す。
「ただ、あの日のことは極力早く過去にしたい。皆にも早く忘れてもらい、沈静化したいというのが本音だ。……霞琳殿には酷な話かもしれぬが。」
「そんな……!」
「あんたは忘れなくても構わない。が、周囲に思い起こさせるような言動をしてほしくねえんだよ。」
徴夏が二人の会話に割って入る。何故か解るか、と問いかけるような視線を向けられ、霞琳は押し黙った。
もうじき春雷が新帝として即位する。“可もなく不可もない皇子”と見做されてきた彼が即位することになったのは、他に皇位継承権を持つ有力者がいないという消極的な理由からだ。裏を返せば、春雷が即位するためには、皇帝、皇太子、第三皇子の死が必至だったということになる。
「……ちゃんと解ったみたいだな。ちょっと前まで、春雷が己の即位のために三人を暗殺した――なんて風聞も流れてたんだよ。それを鎮めるためにこっちは躍起になってるってのに、あんたがそれに反する行動を取るもんだから焦ったぜ。」
「そんな、殿下に限って暗殺だなんて絶対有り得ません!……存じなかったとはいえ、誠に申し訳のうございました。」
霞琳は、今度は素直に心からの謝罪を紡ぎ、深々と頭を下げた。本当に己は落ち零れだと、つくづく思う。
シャムナラ姫の死の真相を探りたかったのは事実だが、春雷の役に立ちたいという気持ちも真実だ。それなのに、彼の足を引っ張りかねないところだったとは、自分が情けなくて仕方がない。
「いや、霞琳殿が悪いわけではない。月貴妃の件について、ちゃんと説明していなかった私たちにも非がある。とはいえ結論に辿り着いたのはつい先頃のことなのだが、……聞いてくれるか、霞琳殿。」
春雷が真摯な眼差しを真っ直ぐに霞琳へと向けて来る。どこか不安げな色を滲ませるそれは、シャムナラ姫の死と再度向き合わねばならない霞琳への思いやりなのだろう。
(……私は、もう逃げたりしない。泣いたりしない。)
一度だけ深呼吸をして、霞琳はしっかりと春雷の視線を受け止め、はっきりと頷きを返した。
まずその前にと、春雷は現在の後宮における特殊事項を二つ教えてくれた。
一つ目は、皇帝や皇子らを除き原則として男子禁制の後宮を徴夏が堂々と闊歩している理由である。
この所以は、皇帝が建国の功臣の子孫を排除した時期にまで遡る。
本来後宮の管理は皇后の責務であり、皇帝ですら安易な口出しは許されない領域であった。
しかし王皇后は、王一族が誅されたのを機に、皇后の役目からすべて手を引いてしまったのだ。後ろ盾をなくした皇后には振るうべき権力などないという考えからなのか、或いは彼女なりの皇帝へのささやかな反抗だったのだろうか。
いずれにせよ、王皇后は後宮の管理を放棄した。
結果、後宮では不穏な出来事が相次ぐようになる。それまでは王一族を油断させるため皇后以外の妻妾を迎えていなかった皇帝が相次いで妃嬪を後宮に入れたことも相俟って、皇帝の寵愛を得るための女の醜い諍いが堪えなくなったのだ。
大方は些細な嫌がらせ程度であったが、それが蔓延れば治安や風紀は乱れ、女性たちの心が荒んでいくのも自然の摂理であったろう。
それを重くみた皇帝は、自ら後宮の管理に乗り出した。具体的には、後宮で発生した事件についても司隷大夫の管轄としたのである。そして特権として、司隷大夫は後宮を自由に出入りすることが許されたのだ。
そのしきたりは司隸大夫の任に就く者が数代変わった今も尚健在で、故に徴夏は有事に備えて日頃から後宮で情報収集をしているのだという。
決して邪な気持ちでうろついているわけではないから理解してほしい、という春雷の言葉を聞いて、霞琳はなんとも言えない心地で首肯するしかなかった。
二つ目は、後宮内における飲食物の管理を厨が担っている点について。
後宮では、食事は勿論、妃嬪たちがちょっとした時に飲む茶やその相伴となる菓子の類でさえも、全て厨で管理されている。各自の宮で貯蔵することは許されず、必要とする度に厨へ取りに行くことが義務付けられていた。
これには霞琳も後宮入りした時に驚いたものである。
そのような厳戒すぎる程の体制が整った理由は、王皇后が後宮の管理から身を引き、司隸大夫がその任を引き継ぐまでの空白期間に、毒殺されたと思しき女性が立て続けに出たことによるのだという。
元々は妃嬪が各自の宮で茶や菓子を保管するのは当たり前だったのだが、これには毒を仕込むのが容易であるという難点があった。
そこで、当時の司隸大夫が毒殺を未然に防ぐべく、後宮内の飲食物は厨で一括管理する方向に改めたらしい。以降、毒による被害者が現れなくなった――シャムナラ姫が暗殺されるまでは。
シャムナラ姫も後宮の原則に従い、自国から持ち込んだ愛飲する茶を厨に預けていた。そしてその茶を厨から取ってこさせ、口にして亡くなった。
妃嬪の安全を確保するための制度に従った結果、茶が凶器へと変容していたとは、なんとも皮肉なことである。
では一体どうして、日頃から徴夏が目を光らせていた後宮内で、厨に預けられていた茶に毒が仕込まれるに至ったのだろうか。
――春雷と徴夏の見立てによれば、范淑妃の所業だという。
范淑妃が後宮に入り皇帝の寵愛を得てからというもの、彼女の権勢は並々ならぬものになっていった。范淑妃は平然と後宮の規則を破り、自身の宮には高級な茶葉や菓子、新鮮な果物等々が常備されていたようだ。
それのみならず、彼女の死後に徴夏が調査したところ、シャムナラ姫の命を奪ったものと同様の毒や、精神に異常を来すような怪しい薬まで隠し持っていたことが判明した。恐らく後者は皇帝に飲ませていたに違いない。近年の彼の言動が帯びていた異常性が、それを示している。
更に、范淑妃は厨担当の宮女を抱き込んでいたようだ。はっきりとした証左はないが、皇帝たちが亡くなった時、その女性もまた范淑妃の宮で事切れていた。
厨担当の女官が妃嬪の宮を訪れることは、通常はない。にもかかわらず彼女が范淑妃の宮にいたという事実からいって、二人が表向きにはできない何らかの繋がりを持っていたとみるのが自然である。
これらの状況から考えて、范淑妃が厨担当の宮女に銘じて毒を仕込ませ、シャムナラ姫を暗殺したというのが真相だろう――これが、二人が導いた結論だった。
成程、筋は通っている。しかし、霞琳は首を捻った。
「范淑妃様が怪しいということは解りました。ですが、范淑妃様は何故シャムナ――……いえ、月貴妃様を殺める必要があったのですか?月貴妃様は陛下に関心も持たれず、范淑妃様から寵愛を奪うような脅威にはなり得ないというのに……。」
俯く霞琳を前にして、春雷と徴夏は互いに顔を見合わせた。そして両者とも軽く肩を竦めてみせる。
「范淑妃が亡くなった以上、彼女の真意は最早闇の中だ。故にこの先は推測になるが――……己より上位の妃を疎んじたか、もしくは自らを支持する貴族の意向を汲んだか。その辺りではないかと思う。」
范淑妃はもともと、高位貴族である趙家の奴婢であった。皇帝が趙家で催された宴に招かれた際、彼女を見初めて後宮に入れたのだという。
何の後ろ盾もない一介の奴婢に過ぎぬ女性が、その美貌と手練手管によって皇帝の寵を得て、それだけを頼りにのし上がってきたのだ。
后妃の序列は、いわば正妻といえる最高位の皇后、次いで四夫人が上から貴妃、淑妃、徳妃、賢妃、次に九嬪の昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛がある。
この下にもまだまだ多くの位があるから、僅か数年のうちに淑妃の位にまで上り詰めた范淑妃の勢いや推して知るべしといったところか。
もしも彼女が貴妃へと昇格することを狙っていたなら、突如としてその地位に割り込んできたシャムナラ姫を忌々しく感じるのは頷ける。
しかも霞琳は、異民族であるジュゲツナルム人に対する差別的な態度を後宮で先程目にしたばかりだ。范淑妃もまたそのような思想の持主であったなら、侮蔑すべき異民族出身であるシャムナラ姫が己の上位に立つのは、さぞかし不愉快であったろう。
加えて春雷の話によると、そもそも異民族の姫が“貴妃”という高位を与えられた事実自体、既に政治的な問題を孕んでいたのだという。
范淑妃に取り入り甘い汁を吸っている貴族たちがいる一方で、それに反発する貴族も当然ながら存在する。彼らは范淑妃への対抗馬としての役割をシャムナラ姫に期待し、“貴妃”の位を賜るよう皇帝に働きかけ、承諾されたのだ。それを范淑妃派の貴族たちが快く思うはずもない。
つまりシャムナラ姫は、自身の全く与り知らぬところで貴族間の派閥争いに巻き込まれた挙句、范淑妃派にとって目障りな存在になってしまっていたというわけだ。
しかもシャムナラ姫は、范淑妃以外で皇帝が久方振りに手を付けた女性である。といっても皇帝本人がそれを望んだわけではなく、後宮入りした妃を迎えるしきたりであるが故に已む無くなのであろうが――兎に角も関係を持った以上、子を成しているかもしれない。
もし“貴妃”が皇子を産めば、“淑妃”所生の第三皇子よりも有力視される可能性も大いにある。それは范淑妃にとって脅威であったろう。
「そんな……貴族たちの勢力争いのために、そして宿っているかどうかも定かではない命のために、月貴妃様は殺されねばならなかったのですか?
それでは最初から、後宮に入った時点で命を落とすことが決まっていたも同然ではないですか……!」
「派閥争いはいつの世にもあること。范淑妃としても、月貴妃の命を奪うつもりまではなく、子を成せぬ程度に身体を壊せばよいという考えだったのかもしれないが……所詮は全て憶測だ。
私たちが言えることは、もうない。……すまない、霞琳殿。」
心底申し訳なさそうに眉を下げながら、春雷が深々と首を垂れた。
次期皇帝となる第二皇子に頭を下げさせるなどとんでもないことなのだが、遣る瀬無い怒りや悲しみに満たされた霞琳に、それを認識するだけの冷静さは残っていなかった。
わなわなと唇を震わせ、発すべき言葉を見つけられずに顔を歪めるばかりである。
(後宮がこれほど恐ろしい所だって、最初から理解していたなら。足を踏み入れた瞬間から命を狙われているって、警戒できていたなら。)
激しい後悔に打ち震える霞琳の肩を、徴夏がぽんと叩く。反動でびくりと体を跳ねさせた霞琳は、我に返った様子で彼を仰ぎ見た。
そこには揶揄の色が全く滲んでいない、珍しく霞琳を心配した表情の徴夏がいた。
「“范淑妃を殺してやりたい”って顔に書いてあるぞ、あんた。」
「……お察しの通りです。もう亡くなっていますから、残念ながら叶いませんが。」
そしてふと、范淑妃の死因について思い起こす。皇帝、皇太子ともども皆一緒に仲良く食中りだなんて、都合の良すぎる話は信じていなかった。
だとすれば、一体誰が――そこまで考えて、霞琳は改めて徴夏に視線を向けた。真っ直ぐ、もう誤魔化すことは許さないと言わんばかりに。
「――貴方なのですか、徴夏様。范淑妃様方を手に掛けたのは。」
「……半分正解、半分不正解ってとこだな。」
「話してやると良い、徴夏。……霞琳殿はもう、私たちの味方なのだから。真実を知る権利がある。そして今こそ、知るべき時なのだろう。」
「……ああ、そうだな。」
徴夏は観念したように溜息を吐き出し、双肩を竦める。
逡巡したように目線を宙に彷徨わせながら後頭部をがしがしと搔きむしると、何から話すべきか悩み悩みといった様子で、訥々と言葉を零し始めたのだった。