後宮女官事始め(後編)
霞琳が仕えていたシャムナラ姫の死に言及するのはまずかったと感じたのだろう。ある者は口を噤み、ある者は焦って声をかけてくる。
「あ、あの、ごめんなさい、霞琳様。辛いことを思い出させてしまいましたよね?」
「……いえ、大丈夫です。」
本当は大丈夫ではない。まったくもって大丈夫ではなかった。
シャムナラ姫の死の真相を探ろうとすれば、彼女の死にまつわる話をあちらこちらで聞かざるを得なくなることくらい、承知の上だった。それを覚悟していたはずなのに、いざその場面に臨んだ今、胸が締め付けられて呼吸すら儘ならなくなる苦悶に襲われるなど、笑い話にすらならないではないか。
(――大丈夫、大丈夫。私は大丈夫。犯人を見つけるためなんだから、耐えられる。)
心の中で自分に言い聞かせるよう繰り返すが、シャムナラ姫の死は自分で認識していたよりも遥かに深く傷跡を残していたらしい。知らぬ間に青ざめ額に汗を滲ませる霞琳の顔を覗き込み、ラシシュが極めて自然に口を挟んできた。
「霞琳様の洗い物はもう十分綺麗になったようですよ。干しに行かれませ。」
「え、でも……。」
「あとは私がやっておきますから。ね?」
“あと”とは、残りの洗い物のみならず、宮女達から情報を引き出す行為も含んでいるのだろう。
にこりと笑いながら軽く首を傾ける仕草で促すラシシュの配慮に甘え、霞琳は躊躇いながらも小さく頷き立ち上がった。本来ならば自分が彼女を守るべき立場にあるはずが、守られ導かれてばかりいることに忸怩とした思いを覚えつつも、何事もなかったかのようにこの場に同席し続けられる自信はなかった。
すっかり委縮している白維から物干し場の方向を教えてもらい、濡れた衣の入った盥を抱えてそちらに向かう。本来なら彼女もついてきたかったのだろうが、霞琳を一人にしてやりたいというラシシュの気持ちを汲んでくれたのだろう。人種は違えど霞琳を慕う者同士、心は通じ合うようだ。
「……此処、かな。」
物干し竿が幾本も並ぶ風景を見つけて、霞琳は心許なさげに小さく呟きながら盥を地面に置く。そしてその隣に、膝を抱えるようにして蹲った。
はらはら、ほろほろ。
額を膝頭に乗せたことにより影が落ちた視界の端を、重力に従い舞い落ちる涙が煌めく。すぐに着物に落ちて水玉模様の染みができるのも構わずに、霞琳は暫くすすり泣いた。
(――姫様、姫様。会いたいよ、姫様。)
春雷の前で感情を爆発させて以来の涙だった。
思えばあれ以来、ラシシュや炎益に心配かけまいとして無意識に笑顔を貼り付け続けていたようだ。
人間として自然な感情の露呈を抑え込んでいた反動だろうか、声を押し殺して静かに、けれど時折喉を空気が駆け抜けしゃくりあげる音を零しながら、霞琳は思いきり泣いた。今のうちに思う存分泣いておけば、またシャムナラ姫の死が話題に上がっても、きっと次は耐えられるはずだと、そう信じて。
「……ずっと会いたかっ――」
不意に鼓膜を微かに震わせる声。つい心中の叫びが漏れたかと咄嗟に口許を袖で押さえ、顔を上げる。
泣きはらした赤い目で周囲を見回すも、辺りには誰もいなかった。泣いていた所を誰かに見られたわけではないと理解して安堵の息を漏らしかけた途端、
――ガササッ!
今度ははっきりと草木のさざめく音が静寂に響き、霞琳は腰を上げつつそちらを勢いよく振り返る。と、物干し場を囲うように配置された庭木の葉の隙間、それも極めて地面に近い低い位置から覗く目玉と視線がぶつかった。
「!?!?!?!?!?!?」
「きゃああっ!」
霞琳が声どころか音にすらならぬ悲鳴を上げ尻もちをつくが早いか、甲高い声で喚きながら茂みからすっくと立ちあがった女性が乱れきった着物を纏って――というよりも辛うじて双肩に引っ掛けたあられもない姿で駆け去っていく。
一瞬の出来事に驚く余り涙も引っ込み、開いた口を塞ぐことすら忘れて呆然としていた霞琳の眼前で、緑の壁の向こう側でもう一人、緩慢に腰を上げる人物には見覚えがあった。
「……ちょ、徴夏様……!」
「……あんたかよ。張家のお嬢様が何でこんな場所に?つーか、折角良い所だったってのに。」
「い、良い所って……徴夏様こそ、時と場所をお考えください!」
「偶々今此処でいい女に出くわしたんだから仕方ないだろ?」
気だるげに掠れ気味の声で不平を零しつつも、相変わらず目つきばかりは鋭さを失わず、じとりと霞琳を睨むように向けて来る。まるで獲物を見つけた獰猛な獣のような表情とは裏腹に、だらしなく緩みきりはだけた着物の襟元に片手を添えながら帯を巻く姿からは、先程の女性とそこで何をしていたのか容易く想像できてしまうだけの色気が漂っていた。
確か徴夏は霞琳より6歳年上の21歳だったか。色気どころか声変わりも遅くまだ高めの声色が特徴の子供らしさを拭いきれない霞琳には、もともと見目好い部類に入るだろう大人な徴夏のその姿は心臓に悪すぎた。心は男の霞琳でさえこうなのだ、男性に接する機会の少ない宮女なら忽ち彼の虜になってもおかしくはない。
それはさておくとしても、気になるのは彼の物言いである。察するに先程の女性は恋人でも何でもなく、行きずりで関係を結ぼうとしたということなのだろう。
(いろんな宮女と関係を持ってるって、本当だったんだ……。)
シャムナラ姫一筋の霞琳には全くもって理解しかねる衝動だ。
況してやここは後宮である。妃嬪から下女に至るまで、すべての女性は皇帝の所有物と称しても過言ではないというのに、それを食い荒らしているとは豪胆にも程がある。
色々と突っ込みたい気持ちはあれど、徴夏とは会話が平行線になる未来しか見えない気がして、霞琳はそっと身を引こうとした。が、許さぬとばかり手首をがしっと掴まれる。
「おいおい、何逃げようとしてんだよ。邪魔した責任も取らないつもりか?」
「せ、責任って……!?」
霞琳の背筋を冷やりとした感覚が走り抜けた。こういう場面で言う所の責任の取り方なるものは一つしかないんじゃなかろうか。それはまずい、まずすぎる。またしても男に強制的に着物を引っぺがされた挙句に股間をまじまじ見られて「え、(元)男だったの?」的な展開に陥る事態は避けたい。断固拒否したい。
至近距離で改めて見つめる徴夏の顔は、宮女達が噂をするのも納得だと思わざるを得ないほど端正で凛々しいものだった。意思が強そうなきりりとした眉、鋭い目力を湛えた双眸、すっと通った鼻筋、常に綽々とした余裕を醸し出す優雅な曲線を描く唇。そのいずれもがバランス良く配置され、加えて武芸にも秀でているという鍛えられた体つきもあり、美丈夫の称号をほしいままにするのも当然だろう。
春雷もまた美青年だが、柔和ですべて受け入れてくれそうな包容力を持った彼の美とは対照的に、自らの魅力を積極的に主張するような苛烈な魅力の持ち主だ。
とはいえ、いまだ男性的な感覚を失わない霞琳ですら認めざるを得ない圧倒的な容姿の端麗さを誇られようと、だからといって流されるわけにはいかない。
手を振り払おうと腕を上下に揺さぶるが、徴夏の逞しい手に込められた力が緩む気配は毛頭感じられない。焦って掌に嫌な汗が滲む。顔から血の気が引く。かたかた、と上下の歯がぶつかって音を立てた。
「――ぷっ!」
「!?」
「いやいやいや、あんたってば本当にからかい甲斐があるっつーか……うん、笑えるな。落ち着けよ、あんたみたいな餓鬼に興奮するほど飢えてねえから。そもそも張家のお嬢様に手出ししたら春雷がお冠になるからな。」
そうはいうものの、徴夏はいまだ霞琳を解放してくれない。それどころか耳元で囁くような声で話しかけてくるものだから、温い呼吸が肌を掠める感覚に擽ったいやらぞっとするやらで、霞琳の脳内は大混乱だ。
「……徴夏様、無節操な行いはお止めください……!」
「節操は滅茶苦茶あるんだぜ?誰でもいいわけじゃなく、相手はそれなりに選んで――」
「――こほん。」
(こほん?)
突如として割り込んできたのは、わざとらしい咳払い。霞琳にとって救世主のようにすら感じられた咳の主を勢いよく振り返り見遣れば、そこには先程一緒に洗濯をしていた年嵩の宮女が盥を抱えて佇んでいた。
洗い物が終わって干しに来たのだろう。物干し竿の前で密着状態の徴夏と霞琳の姿を見て、遠回しに邪魔だと伝えているに違いない。
あらぬ誤解をされたに違いない羞恥で涙が零れそうになる気持ちを堪えつつ、霞琳は徴夏から無理矢理体を離して後ずさる。すると老宮女は、黙ったままてきぱきと洗い物を竿にかけ始めた。最早霞琳たちのことは眼中にないらしい。
(……ええと、この人、誰だっけ?)
そういえば彼女だけは噂話に加わらず、黙々と手だけを動かしていた。職務に対し忠実な人物なのだろうと感じたが、全く喋らないために名前を聞きそびれていたことに気付く。
「――黄憲樹。最高齢にして最下級の宮女。性格は生真面目な堅物、非常に無口。」
「!?」
再度鼓膜を擽る徴夏の低音。しかし今回ばかりはその声よりも、自分の心の内を見透かしたような発言内容に度肝を抜かれて、霞琳は徴夏を勢いよく仰ぎ見る。と、その反応さえも予測済みだと言わんばかり愉しげに双眸を細める彼の表情に出くわした。
「因みに今のは白維ちゃん情報な。相手はそれなりに選ぶっつったろ?」
(――呂白維よ、お前もか。)
心が一気に低温になりかけたのも束の間、
「――あ、因みの因みに、白維ちゃんにはそういう意味での手は出してねえから。そこんとこ宜しく。」
徴夏が思わせぶりに片目を瞑ってみせる。
瞬間、霞琳は理解した。
徴夏は単なる女遊びに精を出しているのではなく、情報収集をしているのだ。主に口が軽い宮女から。つまり、今日霞琳がやろうとしたことを、徴夏はとうの昔から行っていたのだろう。手段には思う所があるが、司隷大夫としての職務に励んでいるという点では称賛に値しなくもない、と霞琳は結論付けるしかなかったのだった