後宮女官事始め(前編)
霞琳は洗濯をしていた。
此処は後宮の片隅。隣ではラシシュもせっせと洗い物をしている。他にも、雑用をする最下級の宮女達が数名一緒である。
「春雷様が即位されたら、皇后様は皇太后様になって、春雷様の奥方――鄧嬌麗様が皇后様になるのよね?春雷様に他の妻妾はいらっしゃらないし。」
「うーん、そう簡単にはいかないんじゃない?第二皇子だからってこれまで春雷殿下を軽視してた貴族たちが、今では慌てて妃嬪候補にする娘を探し回ってるって話よ。」
「ええー、嬌麗様が可哀想じゃん!」
「でも嬌麗様は性格悪いって噂があるからなあー…それが本当だったら後宮の主として君臨されても嫌だわ、私。」
宮女達はしっかりと手を動かしながら、それ以上に口を動かしている。彼女達の噂話は貴族社会に疎い霞琳にとって勉強になる内容が紛れてはいるが、あくまで噂は噂である。信憑性については検討が必要だろう。
しかし一方で、女しかいないという前提で進む男女関係の噂話のあれやこれは時にあけすけすぎて、心はまだまだ男性のつもりである霞琳には居た堪れないものもあった。
現在進行形で話題に上がっている春雷と嬌麗は婚姻を結んでから数年経つのにまだ子供ができていないらしいのだが、その原因は不仲なのではないか、或いはどちらかが子を成せない体質なのではないか、いやいや妻を一人しか置いていないあたり春雷が女性に興味がない男色家なのではないか、だとすれば相手はいつも一緒にいる徴夏しかいない、しかし徴夏は女性好きで何人もの宮女と関係を持っているらしい……などと、延々続く想像力お化けのごとき雑談がまさにそれである。
(春雷様の夫婦事情とか畏れ多すぎて聞いていられないよ……!あと徴夏様ってば何やってんの、女誑しだったの!?)
心の叫びを押し殺しながら、霞琳は魂の抜けそうな表情で隣のラシシュを顧みる。と、彼女は「何としても耐えられませ!」と言わんばかりのきりっとした視線を返してくるのみであった。ほんの僅かに口許が緩んでいる辺り、彼女もまたこの女性ならではの会話を愉しんでいるのだろうか。
(女の人って、怖い……。)
此処に来てしまったことを内心で後悔しながら表面だけは必死に微笑を象り、霞琳はただただ黙々と洗濯を続けるのだった。
――そもそも何故こんなことになっているのか。事は数刻前に遡る。
「女官長の内示、ですか?……私が?」
「ええ、先程殿下に偶々お会いしてそのように伺いましたの。皇帝の代替わりに伴い女官長も新たに任命されるしきたりがあるそうですし、霞琳様よりも家柄の良い女官なんておりませんから、当然の流れでございましょう?」
唐突な重責に引き攣った顔の霞琳。
不思議そうな顔のラシシュ。
そんな二人を見比べて腹を抱える炎益の笑い声を受け、はっと我に返った霞琳は思わず声を大きくした。
「炎益様、笑い事じゃありません!私は女官としての礼儀も仕事も何もかも分からないのですよ、いきなり長に任じられても……。」
「あはは、そりゃそうでしょうねー。でも、やるしかないじゃないですか。春雷様の役に立つって、自分で決めたんでしょう?」
「そ、それはそうですが……。」
霞琳は口籠る。それはそうだ、そうなのだ。だが、何をどうすれば良いのか分からないから困っているのである。分からないまま闇雲に行動して、かえって春雷の迷惑になったら、それこそ目も当てられない。
「霞琳様、月貴妃様の侍女だった女官たちが後宮の各部署に配属されています。どのような仕事があって、どんな女官たちが働いているのか、彼女たちに聞けば凡そ分かるでしょう。女官長の務めは全体の統括ですし、私をはじめ霞琳様のために力を尽くそうとする者もいます。そう不安になることはないと思いますよ。」
ラシシュの言葉は尤もだ。しかし霞琳は、人から聞いた話だけできちんと理解できる自信がなかった。燈蓋の講義も真面目に聴いていたつもりでさっぱりだったのだから、座学の類は極めて不得手なのだと自覚している。
「そんなに不安なら、自分でやってみたらいいんじゃないですか?聞いても分からないなら、まずやってみろって、ね。」
炎益がぱちりと片眼を瞑る。霞琳は思いもよらなかった提案に、双眸を大きく見開いた。
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炎益の提案を尤もだと感じた霞琳は、ラシシュを伴って後宮内を見て回ることにした。その成果は大きく、そこで目にしたもの耳にしたものは、霞琳にとって未知なるものばかりだったのである。
まず、知らぬ間に自分が多数の宮女に慕われていたらしいことを知った。シャムナラ姫毒殺の疑いを掛けられて暴室に連れていかれた宮女は少なからずいたため、徴夏に対する霞琳の抗議によって辱めから救われたと、皆一様に感謝していたのだという。
そして、後宮にどんな女官がいて、どんな仕事があるのかを多少なり見聞きすることができた。
次に、後宮に不慣れな霞琳がまごつく度にさり気なく助け舟を入れてくれるラシシュに向けられる侮蔑の視線に気づいた。春雷の配慮により、ラシシュは女官のなかでも比較的高い地位を与えられているが、異民族に対する大青華帝国民の差別意識はそう簡単に拭えないらしい。
様々な場所を巡り女官たちと歓談を交わしたところで自室に戻っても良かったのだが、敢えてそうはせず、最下級の宮女達に頼み込んで一緒に洗濯をさせてもらうことにした。
それは、霞琳が後宮に留まることを決意した理由に繋がる。
(――姫様を毒殺した犯人を見つけ出す。そして必ず仇を討つ。)
霞琳が女官となることを承諾したのは、春雷にシャムナラ姫の面影が重なったことが主な理由であったが、実はこの決意もそれに負けず劣らず大きな要因であった。
この固い意志に同調してくれたラシシュに頼み、一番怪しいと思われる厨にいた宮女を捜してもらっているが、とんと見つけられずにいる。シャムナラ姫の死の真相を暴き犯人を突き止めるためには、どんな些細なことでもいいから手がかりが欲しいのだ。
実は少し前、シャムナラ姫毒殺犯についてさりげなく春雷に尋ねたことがある。しかし彼は自分に任せてほしいと言うばかりで、捜査の進捗状況は一切教えてくれなかった。ついでに皇帝と皇太子、范淑妃らの死についても訊いてみたが、死因は食中りだとの一点張りで、こちらも捗々しい返答は得られなかった。流石の霞琳もそれを鵜吞みにするほど愚かではない。二つの事件は関連があるのではないかと踏んでいる。が、所詮は根拠のない直感に過ぎない。
だからこそ、宮女達から情報が欲しかった。求める情報の内容が内容なので、宮女達も立ち話程度でそう簡単に口を滑らせることはないだろう。そうであれば、共同作業を通じて長時間共に過ごし、心の扉を開いてもらう必要がある。
「身分の低い者が作業する場所は貴人からは遠いもの。身分の高い者の目が行き届きにくい場所ほど、様々な噂話も出やすいことでしょう。……最下級の宮女を狙うのはいかがかと。」
ラシシュのその提案を受け入れ、雑用係の宮女の仕事を手伝うことを申し出たところ、彼女達は名門張家出身の霞琳にこんな仕事はさせられないと当初は渋った。が、暴室の一件で霞琳の大ファンになったという呂白維なる少女がとりなしてくれ、彼女が担当する洗濯を一緒に担当させてもらえることになった。
――そして現在に至る、というわけである。
しかし、今のところ宮女達のお喋りは霞琳が欲する話題に掠りすらしていない。今日はもう駄目かと諦めかけた途端、
「そういえば徴夏様って、最近は厨担当の女官がお気に入りみたいじゃなかった?あの子、最近見ないけど……。」
「ああ、その子なら食中りで亡くなったらしいわよ。ほら、陛下や范淑妃様と同じ日に。」
(――来た!)
霞琳の鼓動が跳ねる。咄嗟に隣を見遣ると、ラシシュもはっきりと頷いた。食中りについて探るなら、今が好機に違いない。
「……あの、その食中りでは多くの方が亡くなったと聞きました。皆さんは大丈夫だったのですか?」
努めて平静を装い、それでいて洗濯係の宮女達を案ずるように問いかけてみる。白々しくなりすぎぬよう心がけたつもりだが、演技力に自信がない霞琳の心臓がけたたましく脈を刻むせいで声が震えていたかもしれない。
「霞琳様、私達のことを心配してくださるなんて……感激です!」
「ありがとうございます、霞琳様!私達は大丈夫でした。というより、食中りになったのは范淑妃様の宮だけなんです。あ、あと月貴妃様もでしたっけ?あれ、月貴妃様はたまたま同じ日に別の病で――……って、あ。」
下々の者まで気遣う霞琳の態度に感極まった様子を見せた白維達だったが、失言に気付くや一瞬でしんと静まり返った。