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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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希望と絶望

 霞琳は寝台で起き上がり、粥を黙々と食べていた。

 春雷との会話の中で黙り込んで暫しの後、垂れ込める重い空気を打ち破ったのは霞琳の腹の虫だった。皇子の前で度重なる失態を犯し羞恥で死にそうになる霞琳の頭を優しく一撫でした春雷は、食事の用意を命じるべく退室していった。そしてこの粥が届けられた次第である。 

 傷口から細菌が入ったらしく高熱に魘され、何日も寝込んでいたため、霞琳の胃は長らく空っぽだった。薄めの優しい味付けと満足感を得やすいとろみのついた食感は、久しく食事をしていなかった体でも受け付けやすく、腹は徐々に満たされていく。


(生きているって、こういうことなんだなあ。)


 人心地ついたお蔭で、特にしみじみと実感する。あれこれと思い悩む気持ちはまだあれど、そもそも生きるとは何かという答えの一つを見つけた気がした。


「お代わり、召し上がりますか?」

「いいえ、もうお腹いっぱい。ありがとうございます。」


 たどたどしい言葉で問いかけてきたのは、ラシシュ・ドウシャグラ・チャワデュラル――シャムナラ姫が最期に口にした茶を淹れた人物である。春雷の言葉通り、ラシシュも後宮女官として召し抱えられることとなり、大青華帝国風の“茶藍朱”という名を与えられていた。音に字を当てただけなのだろうが、シャムナラ姫の死因となった茶を用意した女性が茶姓を名乗ることになったのは随分な皮肉のようである。

 ラシシュは女官として後宮に残るよう命じられた折、霞琳の侍女として仕えたいと強く希望したそうだ。そうなると、霞琳自身も女官にさせられるようなのだから、女官に女官が仕えるという些かおかしな構図ができあがることになってしまう。

 だが、ラシシュは決して言を翻さず、それが叶わないなら死ぬとまで騒いで春雷を手古摺らせたらしい。ラシシュの生家はジュゲツナルム王国の有力貴族なので、シャムナラ姫に続いて彼女まで亡くなるという事態はジュゲツナルム王国から大青華帝国に対する不信を招きかねず、春雷としては回避したいものであったに違いない。

 そこで、表向きは霞琳の部下という扱いで、女官としての職務さえこなせばそれ以外の時間は何をしても構わない――つまり、侍女のように身の回りの世話までしても春雷は関与しないという条件で妥協したしたそうだ。事実ラシシュは、霞琳が寝込んでいた間も碌に睡眠も取らず、ずっと看病してくれていたらしい。

 自分にはそこまで尽くしてもらうような価値はない、霞琳はそう考えている。しかしラシシュによると、シャムナラ姫の突然死により絶望していた侍女たちにとって、暴室で皆を庇い徴夏を説得した霞琳の毅然とした態度は大きな救いになったのだという。


「まるで女神が降臨されたかのようだと、皆が口を揃えていました!」

「褒めすぎでしょう、それ……。」


 敬愛の念が溢れ出んばかりの眼差しでラシシュからそう聞いた時の霞琳は戸惑いを隠せなかった。徴夏と対峙した時の自分はとても情けなく、無力だったと感じていたからである。しかしそれでも、ラシシュ達の心の支えになったのであれば良かったと、今では面映ゆくも嬉しい心地を覚えている。


「皆、霞琳様にお仕えしたいと申していました。月貴妃様が亡くなられた今、霞琳様だけが私達の希望です。最初は女官にならず国に帰りたいと言う者もいましたが、霞琳様も後宮で女官になるのだと殿下が仰ったので、それなら此処に残っても良いと、全員が納得したのです。」


 シャムナラ姫の死により絶望したのは霞琳だけではなかった。ラシシュ達も同様だったのだ。それでもラシシュ達は霞琳に新たな希望を見出し、この異国の地で新たな人生を歩もうとしている。

 まるで自分ばかりが辛い、苦しいと感じて周りを見る余裕もなく、中途半端に死にたいなどと訴えていた霞琳は、そんな己の所業を振り返り忸怩たる思いに襲われた。

 体はこんなに食欲を訴えて、生きようとしている。シャムナラ姫の笑顔や正蓋の言葉が脳裏に焼き付いている。そして、春雷のなかに小さな希望の光を見た。


(――生きてみても、良いのだろうか。)


 空になった椀を見詰めながら、誰にともなく無言で問いかける。

 とろとろとした粥の残滓は窓から差し込む陽光を反射し、つやつやと光る。その様子がとても美味しそうで食欲をそそり、腹の虫が鳴いた。


「やはりもう一杯、召し上がってください。」

「う……では、お願いします。」


 笑いを浮かべているのだろう口許を袖で隠し、ラシシュが片手を差し伸べる。居た堪れなさから顔を逸らし気味にしつつ、霞琳は椀を渡した。

 お代わりを盛られた椀が戻ってくると、匙で一掬いして口に運ぶ。温かく控え目な味が口いっぱいに広がる幸福を噛み締めながら、シャムナラ姫も美味しい食べ物が大好きだったことを思い出す。彼女もこの粥を食べたら、大喜びしたに相違ない。

 そんなことを考えているうち、今更ながらにふと疑問が浮かんだ。


「……そういえば、暴室での取り調べはどうなったのですか?」


 先程の春雷の話では、シャムナラ姫は病没したことになっているはずだ。詳細を彼に聞けばよかったのだろうが、衝撃的な事実の数々を受け止めるのに頭の許容量を超えてしまった挙句に腹が鳴るものだから、すっかり機を逸してしまっていた。

 先程まで笑顔を浮かべていたラシシュの顔が曇り、聞かずとも答えが分かってしまう。


「霞琳様のお蔭で、取り調べとはいえ丁重に扱っていただきました。でも毒を持っている者は見つからず……後から、月貴妃様は毒殺ではなくご病気だったと聞きました。誤診により後宮に不要な騒ぎを起こしたとして、あの医官はお役御免となったようです。」


 やはり春雷の話の通りになってはいるが、ラシシュは心から納得しているわけではなさそうだ。主が目の前で茶を口にした途端、吐血して還らぬ人となったのだ。元々持病があったわけでもないのだから、病死と言われても釈然としないのは当然だろう。だがそれ以上口にするのは憚られる、といったところか。

 そしてあの腹立たしい医官が免職になったというのは初耳だったが、正しい見立てをした彼が政治的理由により真実を秘すべくとばっちりを受けたのであれば、流石にそれは可哀想な気がした。

 真実が陽の目を見ることはなく、真実を秘匿するための虚偽が堂々と闊歩する。真実に近しい者は口を閉ざし、或いは排除される。後宮とは全く恐ろしい所である。


「そういえばラシシュは、暴室に怪しい女官が見当たらないと言っていましたね?」


 あの女官というのは、厨でラシシュに茶葉を渡したという人物である。客観的に見ても最も怪しい人物であるが、暴室に連行されてはいなかった。何か事情があるのだろうか、と呟いた霞琳の声に反応して、ラシシュがぽんと手を打つ。


「それですが、食中りが関係しているのかもしれません。」

「食中り?」

「私も後で知ったのですが、あの日後宮では、酷い食中りが発生して何人も死者が出たそうです。

 陛下や皇太子殿下、范淑妃様、その御子の第三皇子殿下、侍女の方々もたくさん……亡くなった方の偏り具合から、范淑妃様のところに出されたお食事が傷んでいたのだろうということでした。陛下も皇太子殿下も、あの夜は范淑妃様の宮にいらっしゃっていたそうなので。

 それから、食事を担当する者たちは罰せられたとか。」

「そうだったのですか……。」


 今は暑い季節だから、霞琳様のお食事も気を付けないといけませんね、とラシシュが続ける。

確かに時季は夏の盛り。からっとはしているが、じっとしていても汗が滲む。熱い粥を食した霞琳はなおのことである。


「お食事がお済みでしたら、お体を清めましょう。」


 手際のよいラシシュは水を入れた盥と布も用意してきていた。

 ずっと寝込んでいたうえに更に汗をかいたのだから、霞琳としても確かに体を拭いたいところではある。しかし、ラシシュに自分の体を見せることは避けたい。


「じ、自分でやれます!ラシシュは仕事に戻って!」

「私の務めは霞琳様のお世話ですから!」


 決して引かぬという意気でラシシュが詰め寄る。ひっと喉奥で声になりきらない悲鳴を漏らしながら、霞琳は着物を脱がされまいと胸元の袷を必死に握り締めた。


「ほ、他の仕事もあるでしょう!私の世話だけが仕事ではありませんよね?」

「いいえ、最優先すべきは霞琳様のお世話です!」

「そうそう、そうですよー。それに藍朱さんには僕のお手伝いもしていただきたいので、いてもらないと困りますってー。」

「いやいやいや、私はいられると困――…って、え?」


 先程までラシシュと二人きりだった筈が、いつの間にか一人増えている。


(え?誰?)


 霞琳が物凄い速さで扉を振り返ると、そこには見知らぬ人物が箱を抱えて立っていた。へらっとした緩い笑みを浮かべている表情はどこかあどけなく、少年から青年への成長途上といった年齢だろうか。


「声は掛けたんですけど、返事がないので入っちゃいましたー。」

(いや待て、そこは返事があるまで待つべきでは?一応私は女性ということになっているはずなのに、ずかずか入ってきちゃう?)

「まあ、炎益様!気がつかず失礼いたしました。」

(え?ラシシュの知り合い?)


 心の声が顔に出ていたのだろうか、ラシシュは彼を招いて寝台の傍らに座るよう勧める。そして彼もまたそれを当然のように受け入れ、遠慮もなくどかっと腰を下ろすと箱を床に置いて蓋を開けた。途端、むわっと草のような臭いが溢れ出す。


「あ、あの……失礼ですが、貴方は?」


 霞琳が恐る恐る尋ねると、彼は一瞬きょとんとした後、


「あー、そっか。今まで寝てたから、そりゃあ僕のこと分かりませんよね。」


 得心したように頷く姿は、無礼ではあるものの妙に憎めない人懐っこさを感じさせる。


「僕は姜炎益、春雷様付の宦官です。医術の心得があるので、春雷様の命を受けて霞琳様の手当てをしてました。」

「宦官の方が、医術を?」


 霞琳の目が丸くなる。宦官とは、後宮にて使役される元男性である。官吏としての出世が期待できないような低い身分の者が皇帝や皇后の側近としてのし上がるべく自ら志願するか、罪を得て宮刑――つまり性器を切断される刑を受けて表舞台では活躍できなくなってしまった者が就く役職だ。貴重な知識である医術を身に着けながら宦官になるとは、通常はありえないことである。


「ええ。……まー、ほとんど独学なんで怪しいですけどねー。」


 少年らしさを助長させる高めの声で、重要な事実を軽い調子で告げながら、へらへらっと笑みを深める炎益を目にして、霞琳の背筋にぞっとするものが走った。


(大丈夫なのか、それ……。)


 流石に不躾すぎて口に出せない疑問を胸に、どうしたらよいかと考えあぐねる霞琳にはお構いなしに、炎益は無遠慮にべろっと寝具を捲り着物の裾を握る。


「でも安心してくださいよ。僕は上昇志向だけはやたらと強い父親の指示で宦官になるために自分でちょんぎったんですけど、自分で手当てして今はこの通りぴんぴんしてますから。霞琳様の手当ても同じようにやれば大丈夫ですってー、ね?

 ――ってことで、傷口診させてくださーい。ほらほら、藍朱さんも手伝って―。」

「はい!」

「え、ちょ、傷口って……!」


 思い当たるのは一か所しかない。誰にも見せたくない場所だ。

 百歩譲って炎益になら見せるのもやむを得ない。色々と聞き捨てならないことを言っている彼の体も同じような状態のはずであるし、手当てをしてくれていたということは既に何度か目にされているのだろう。

 しかしラシシュは駄目だ。無理だ。女のふりをするために着飾り相応の振る舞いを心掛けてはいても、身体的な機能は失っていても、霞琳の心は依然として男のままである。それなのに若い女性にそんなところを見せて堪るだろうか、いや、堪らない。

 だがラシシュはというと、炎益に勝るとも劣らぬ無遠慮さで霞琳の足首をがしっと掴む。

え、ちょっと待ってなにこれ。お仕えしたいと願った相手に対する振る舞いなのか、これは。

 制する間もなくラシシュに脚を開かれそうになる霞琳は必死に抵抗する余り、内股になって太腿同士を擦り合わせるという、この上なく女性らしい格好を晒す羽目に陥る。


「霞琳様、こんな時まで女性のふりをなさらなくて宜しいのですよ。」

「そーそー、もう観念してくださいって。ほらー?」


 二人の声を受け、ぴくりと霞琳の肩が跳ねた。僅かの間をおいて頬に熱がかっと募り、じわじわと涙が浮いて来る。


「あ、あの……炎益様は分かるのですが、ま、まさか、ラシシュも知って……というか、見て……?」

「ええ、当然でございましょう。ずっと霞琳様の看病をしておりましたもの。炎益様と一緒に。」

「うんうん、つーか霞琳様の性別を藍朱さんが知ってるって、霞琳様は知らなかったの?どう考えても当たり前じゃん?」

「う、嘘でしょおおおおおお……!?」


 男としての自尊心が踏み躙られ、羞恥と情けなさの余り涙目で絶叫する霞琳の絶望はいかほどか。

 その様子を見て大笑いする炎益と「誰にも申しませんから大丈夫ですよ!」と論点のずれた慰めを力いっぱい口にするラシシュの連携はまるで息ぴったりの相棒のようで、あっという間に身ぐるみはがされた霞琳の体はラシシュによって手早く拭われ、炎益によって青臭い香りが漂う謎の薬をぺっとりと塗りたくられ、再び着物を纏わされたのだった。


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