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ジュゲツナルムの姫君  作者: 上津野鷽
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シャムナラ・エグシャグラ・ジュゲツナルム

 シャムナラ・エグシャグラ・ジュゲツナルムはジュゲツナルム王国の姫君である。――否、正確には姫君だった、というべきかもしれない。先般、シャムナラは強大な大青華帝国皇帝の妃嬪の一人として後宮に入り、月貴妃という新しい名を賜ったのである。


 月貴妃という呼称は、ジュゲツナルム王国――大青華帝国では戎月国と表記する――出身の貴妃であることに由来する。

 ジュゲツナルム王国は大青華帝国の西隣に位置する小国であり、複数の民族により構成されている。そのなかでも有力な民族が王位について国家を取りまとめているものの、微妙な力関係の上に戴いてもらっているも同然の地位に過ぎず、決して安泰とはいいがたい。

 そこで王家は大青華帝国に朝貢しその庇護下に入ることにより、王権の強化を図ってきた。そのため大青華帝国にとってジュゲツナルム王国は極めて忠実な冊封国であり、皇后に次ぐ貴妃の位をこの優美なる朝貢品(シャムナラ)に与えたのは、従容とした王国の態度を評価してのことなのだろう。


 ――しかし、である。


「今宵も陛下はお渡りにならないようね。」


 窓辺の椅子に腰かけ朧月を見上げていた月貴妃は、穏やかな声でひとりごちた。輿入れの際に連れてきた侍女たちが身を固くするが、彼女は意に介さない。

 妃嬪としての位こそ高いものの、月貴妃に下賜された宮殿は後宮の広大な敷地内の最果てにあった。建物の広さや絢爛さは申し分ないが、皇帝の住まいたる歳星宮からは最も遠い。この事実だけで、皇帝の月貴妃に対する関心の程度が窺い知れるところだろう。


 そもそも皇帝の好みについて噂で聞いたところによれば、美しい黒々とした髪と白い肌を持ち、丸みのある体つきの女性だという。

 月貴妃はといえば、西域にルーツを持つ民族特有の健康的な褐色の肌に、色素が薄く銀色に近い髪と瞳、しなやかに細く伸びた腕と脚、すらりとした背の高さが印象的な美女である。月貴妃の母は、大青華帝国の有力軍事貴族たる張家の出身であった。しかし容姿に関しては父王の血が濃厚に現れたものとみえる。


 皇帝は月貴妃が後宮入りから数日間はしきたりに従い毎夜この宮殿を訪れた。しかし、義務を果たした後はとんと音沙汰がない。

 それどころか皇帝は月貴妃のもとに通った数日間ですら日中は寵姫の宮殿に入り浸るという有様だったのだが、所詮は寵なき妃であるがゆえ、必要最低限しか女官が寄りつくことのないこの宮殿に、そんな状況を親切に教えに来てくれる者などいるはずもなかった。月貴妃にとっては知らぬが仏だったのかもしれない。


「少し喉が渇いたわ。お茶をもらえる?」


 一礼して「かしこまりました」と返答した侍女が二人、足早に宮を出ていく。

 その後ろ姿を見送ってから、月貴妃はゆっくりしたいからという理由で侍女たちを下がらせた。ただし、一人だけは室内に残して。


「お茶が届いたら、あなたも一緒にいただきましょう。ね、霞琳。」

「貴妃様、私ごときとそのような――……」

「一緒にいただきなさい。ね、霞琳。」

「……はあ。」


 にこにこにこにこ、という月貴妃の表情に押され、この霞琳と呼ばれた人物は頭痛を堪えるように額に手を添えつつ気乗りしない相槌を打つ。


「では、こちらへお出でなさい。」

「はい、貴妃様。」


 月貴妃が霞琳に手招きをする。細腕を飾る腕輪が、しゃらん、と音を立てて揺れた。

 霞琳はそれに応じて距離を縮めるも、少し手前で恭しく足を止めた。月貴妃はいささか不満げに唇を尖らせると、手を伸ばすや否やしっかりと掴んだ霞琳の手首を力任せに引き寄せた。不意の事に体勢を崩しかけた霞琳は重心を後ろに傾けてバランスを保とうとしたが、そうはさせじとばかり月貴妃が今度は真正面から全体重攻撃を繰り出したため、霞琳はあえなく床に背を打ちつけて転がった。


「うふふっ、私の勝ちよ!そうよね?」

「ったー……ちょっと姫様、これはない、ないですって!」

「そう、そうよ。それでいいの。私と二人きりの時は普通に話してちょうだい。」


 今でこそ主従関係にあるこの二人は、もともと血縁者にして幼馴染でもあった。霞琳はくだんの張家出身で、大青華帝国の礼儀作法や慣習に疎い月貴妃のため、指導役として後宮に随行することになったのである。ゆえに他の侍女たちよりも格上の立場にあり、月貴妃が最も信を置く側近といえた。

 至極愉快そうに笑い声を上げる月貴妃。屈託のないその笑みを見た霞琳は仕方ないといった様子で肩を竦めながら、己の体に覆いかぶさる主の髪を五指で梳くようにそっと撫でた。月貴妃は心地よさげに瞼を下ろし、霞琳の掌にぐいぐいと頭を寄せる。


「ね、ね、もっと撫でてちょうだい。」

「……本当に甘えん坊なんだから、姫さ――…いや、貴妃様は。」

「姫様、でいいのよ。私はいつまでも、あなたにとっては”姫様”でいたいの。」

「……無茶苦茶言ってくれますね、まったく。」


 苦言とは裏腹に優しく撫で続けてくれる掌の感触をじっくり味わい、月貴妃は頬を緩めてご満悦の表情を浮かべる。大人びて見えるが、まだ十五歳の少女なのだ。


(陛下がいらっしゃらなくてよかった。感情を伴わない触れ合いよりも、こうして気の置けない相手と戯れている方が余程暖かくて幸せだわ。)


 大青華帝国とジュゲツナルム王国との連携強化なら、後宮入りしただけで目的は達成されている。父王としては、愛娘が皇帝の寵愛を受け皇子を産むということになれば、なお望ましいのかもしれない。しかし月貴妃としては、そのような女の戦いや権力争いとは無縁な立ち位置で、至って平穏に生きていくことを願っている。

 どうせこの後宮において、異国から嫁いだ己は独りぼっちなのだ。それでも公の場では凛と在るために、常に抱えているとてつもなく大きな不安と孤独を飲み込まなくてはならない。飲み込んで行き場をなくした負の感情を昇華するのに、近しい人に甘えてしまう。その行為を、一体誰が咎められるだろうか。


「……姫様、そろそろ。」


 霞琳の声で我に返った月貴妃は、無防備に緩んでいた表情を引き締めて椅子に腰かけ直した。霞琳も身を起こし、居住まいを正して月貴妃の傍らに立つ。

 その直後に扉が開き、茶を載せた盆を手にした侍女たちが現れた。


「お待たせいたしました。厨で手間取ってしまいまして……。」

「私が同行すべきでした。苦労をかけてしまいましたね。」

「いえ、張家のご令嬢にそのような……畏れ多いことです。早く慣れるよう努めます。」


 侍女の物言いは異国訛りが強い。恐らく厨の者との意思疎通に手間取ったのだろう。大青華帝国の言語に堪能ではない者を使いにやってしまった事実に、霞琳は配慮が足りなかったと顔を曇らせるが、侍女は慌てて頭を振った。

 月貴妃が後宮に慣れた頃合いを見計らい、いずれ霞琳はこの宮を去り張家に戻る。いつまでも霞琳に頼ってばかりはいられない。月貴妃だけでなく侍女たちもまた、大青華帝国の後宮に早く馴染まなくてはならないのである。


「ふふ、焦らなくていいのよ。お茶くらいのんびり待てるわ。もっとゆっくりでもよかったくらい。ね、霞琳。」

「……貴妃様、……。」


 月貴妃はにこりとした笑みを霞琳に向けた。侍女を労わると見せかけた言葉の裏には、もっと霞琳と戯れていたかったという本音が覗いている。それに気づかないわけがない霞琳はじとりとした視線を返すが、月貴妃はどこ吹く風といった様子で依然としてにこにこしている。

 そんな言葉なき会話を交わす二人の横で、二人の侍女は手際よく茶の用意を進めていく。やがて湯気と共に、爽快な匂いがふわりと立ち上った。月貴妃が後宮入りする際に持参した好物の茶に調合された、西域が原産地である香辛料だ。


「お待たせいたしました、貴妃様。」

「どうもありがとう。――さあ霞琳、あなたもおかけなさい。一緒にいただきましょう。」

「……かしこまりました、貴妃様。」


 観念して向かい合わせに腰を下ろした霞琳に満足げな笑みを浮かべた月貴妃は、優雅な手つきで茶器を持ち上げ、まず礼の手順として鼻孔で香りを味わった。

 その所作を見つめ、”合格です”と言わんばかりに霞琳が頷く。これは単なる息抜きの時間ではなく、礼儀作法を学ぶ場なのである。

 続いて茶器を口元に運び、静かに茶を口に含む。今度は咥内に広がる芳醇な味を満喫しつつ嚥下した。


(……ええ、我ながら上手くできているわ。)


 突如、ふわりとした感覚が襲い来る。――その時、


「――姫様!」


 月貴妃は鬼気迫る表情で己を呼ぶ霞琳の姿を視界に捉えた。


(どうしたの、霞琳。そんな顔をして。)

(どうしたの、私。声が上手く出ないわ。何かが込み上げて――)


 こぽ、と控えめな音と共に小さな唇から鮮血が溢れ、優美な衣の袖が空を舞い、腕輪がかしゃんと床にぶつかると同時に、月貴妃の体が崩れ落ちた。


「すぐに医官を呼んでください!……――姫様!姫様!……しっかりして、姫様……!」


 苦しい。息ができない。体が動かない。

 ああ、死ぬのか。存外、人間というものは簡単に突然死ぬものね。

 そもそも、望まないこの鳥籠に入った時、”シャムナラ姫”は死んだのだ。

 ”月貴妃”という女は、ただ呼吸をして動く人形に過ぎない。その体も果てたとして、心残りなどあるだろうか――?


 月貴妃――否、”シャムナラ姫”は朦朧とする意識の片隅で、ぐしゃぐしゃに歪めた顔で己を抱き締める霞琳の温もりを感じていた。


(最後に目にしたのがあなたでよかった。)

(最後に触れたのがあなたでよかった。)

(ねえ、ねえ。私、私は、ずっと昔からあなたを――……。)


 “      ”――唇は動かなかったかもしれない。想いは伝わらなかったかもしれない。それでも、シャムナラ姫は幸せだった。


「姫様、姫様――!」


 子どものように泣きじゃくり絶叫する霞琳の腕の中で、シャムナラ姫は穏やかな表情で意識を失っていったのだった。


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