プロローグ 霧の中
目の前が真っ白になる、というのはこういうことなんだ。私は心の中でつぶやいた。
さっきのあれはなんだったんだろう? 急にまばゆい世界に飛び込んだように目が眩んだかと思えば、今は全くの闇の中。目を開けているのか、閉じているのかも分からない、ふしぎな感じ。
さっきからどこかで誰かが私を呼んでいるような・・・。
ハイハイ、うるさいなぁ。もう少しだけそっとしといてよぉ〜。これだから母親業は楽じゃぁないっちゅうの。まったく、昼寝もできゃしない・・。
「これは大変失礼いたしました。もうお目覚めになる頃かと思いまして。」
「ギャッ!」
その声に薄目を開けた私は、文字通り飛び上がって驚いた。
「あ、あなた、誰?! なんでここにいるの?」
「なんでここにいるか・・・そのお答えは後ほどにいたしまして、まずは自己紹介させていただきたいと存じます。わたくし、これからあなたさまを担当させていただきます、ジェームズと申します。どうぞよろしくお願いいたします。」
「ジェームズって、名字ですか?それとも名前?」
って、そこかよ!普通もっと他に聞く事あるだろう、私は思わず自分に突っ込んだ。もちろん口には出さなかったけれど。大体突然現れて自己紹介って、怪しすぎるのよね、このおじさん。
「ご不審に思われるのもごもっともでございます。ですがおいおいこの状況にも適応していただきませんと。なにぶんにもタイムリミットがございますので・・・。」
そこまで聞いて、私はあることに気付いてギョッとした。このおじさんのことを怪しいとは思ったけど、口に出してはいなかった筈。そう言えばさっきも、私を呼ぶ声にうるさいと思っただけで謝ってきたし・・・。心が読めるんじゃぁないの、この人?!
「さすがでございます、夏海ナルさま。よく気がつかれました。わたくしが見込んだだけの事はございましたな。」
「どうして私の名前を知ってるんですか? どうして心が読めちゃうんですか? どうして・・・。タイムリミットって何なんですか?」
ボーッとしていた頭がようやくはっきりしはじめて、私は一気にまくしたてた。
「混乱されるのも当然のことかと。まずはわたくしの方から順を追ってご説明させていただきますので、ご質問はそのあとで。わたくしの名前は、ジェームズ・ジェームズ。こう見えてもれっきとした日本人でございます。」
たしかにおじさんは、一見外国人にもみえる容姿だ。身長は私と同じくらい(160cm?)。小太りの体にチェック柄のスリーピース、首元の真っ赤な蝶ネクタイはタイトに結ばれていて、今にも窒息しそうにみえる。鼻の下にはよく手入れされ、奇妙にカールした口髭をたくわえているが、頭の毛は薄い。生え際はずいぶんうしろのほうに引っ込んで、頭髪はまるで味付けのりを貼付けたようだ。時代遅れのポマードでも使ってるのかも? 一言でいうなら名探偵ポ◯ロをお人好しにした感じ。黙っていたら英国紳士にも見えるだろう。
「英国紳士とは・・お褒めに預かりありがとうございます。アッ、またあなたさまの心の声にお答えしてしまいましたな、申し訳ございません。わたくしども天使の特技なんでございます、読心術は。」
「天使?!」
思わぬ展開に、私は大声で叫んだ。
「天使って、どういうことですか? これって夢の中ですか? それとも私、死んじゃったの? 遊体離脱とか?」
「正確にはまだ死んではおられません。完全に死ぬための準備期間ともうしますか、いまナルさまがおられるのは、あの世とこの世のはざまにある世界とでももうしましょうか。」
私は、そう言われて初めて周りを見渡した。どこまでも続く白い霧。足元はその白い霧に埋まり、膝より先は全く見えない。こういうのテレビや映画では何回も見たことあるなぁ。主人公が天国に行った時とかに。
「じゃあ、家にだって帰れますよね。死んでないんだから、その、完全には。」
「残念ながらそれは叶いません。現世では、あなたさまが住んでおられた世界ですが、とっくの昔にナルさまのお葬式もすんでおります。こちらとあちらでは時間の流れにタイムラグがございまして。こちらでほんの少しナルさまが眠っておられる間に、あちらでは3日が過ぎてしまいました。」
「じゃあ私はもう二度と家族には会えないんですか? カイには言っておきたいことが山ほどあるし、フウにだって。あと、お醤油やだしの素の買い置きの場所や、へそくりの隠し場所も教えておかなきゃだめでしょ?」
「フウさまはダンナさま、カイさまはむすこさまでございますね。」
「そうですよ、当たり前じゃぁないですか。そんなことより、なんでもいいから二人に会わせて!いますぐ会わせて!」
「ですから、それはできないのでございます。」
ジェームズと名乗った男性は、諭すような目をして言った。
「時間がもったいのうございますので、ご説明を続けさせていただきます。先ほども申し上げましたように、ナルさまは現世では既に死んだことになっておられます。ですがあの世に行かれるにはまだ資格が足りません。」
「あの世に行くのに資格がいるんですか? おばけ学一級とか二級とか? 私、車の免許も持ってないんですけど。」
「ご心配には及びません。最終的にはどなたさまにも資格は与えられます。ただその方によって資格取得までにかかる時間と労力はまちまちですが。」
「いったい何をしたらいいんですか?」
いっこうに先が見えて来ない話に、いらつきながら私は言った。
「心の整理でございます。」
「心の整理? そんなもん出来るわけないじゃありませんか。死んだ実感ゼロなんですよ、私! パーッてまぶしい光に目が眩んで、気がついたらへんてこなおじさんに話しかけられて、死んじゃいましたよあなたって。もう何がなんだか・・・。馬鹿にするのもいい加減にしてくださいよ!」
実際のところ、馬鹿にされたと感じている訳ではなかった。ただことのなりゆきの深刻さに気持ちがついていけなかった。誰かのせいにして責め続けたかった。そうすればこの悪い夢から覚めるとでもいうように。
「お気持ちはわかります。みなさん最初はナルさまのように困惑されますです。ハイ。ただこうしておりましても時間は待ってくれません。現世ではこちらの何倍ものスピードで時間が過ぎていっております。ナルさまさえ宜しかったら、お手続きを進めさせていただきとうございますが。」
「わかりました、どうぞどうぞ。どうせ私が断っても勝手に話を続けるんでしょうからね。」
目覚めてからというもの次々と突拍子もない話を聞かされ、しっかり者の私もさすがに疲れて投げやりになった。
「それでは遠慮なく。まずはナルさまには、これからパートナーとなります天使の任命権がございます。わたくしジェームズがお気に入りませんでしたら、一度だけパートナーチェンジが認められております。いかがいたしましょうか?」
いかがいたしましょうか?と言われても、こちらはこういったことにはまったくの素人。別の天使(?)に変わったところで大差ないように思えた。それより今までの話をもう一度誰かとするのかと思うと、気が滅入った。
「あなたで結構です。」私は答えた。
「ありがとうございます。ステップ1は終了っと。さて次でございますが、これからの作業の流れをご説明させていただきます。ステップ2。ここからはナルさまに3つのコースからご希望のものを選んでいただかなければなりません。
コースA : 現世に一度だけ戻って心残りなことを解決していただきます。持ち時間は、現世の時間で一時間。時間は短いですが、あなたさまの姿はあちらの世界の方に見えますし、声も聞こえます。比較的簡単な問題を残して来られた方にお薦めです。 コースB : 同じく現世に戻って心残りを解決していただきます。持ち時間は、あちらの時間で3日間。姿は見えませんが、声は聞こえます。難度が中程度の問題をかかえておられる方にお薦めです。 コースC : 現世には戻れますが、姿は見えず、声も聞こえません。しかし持ち時間は三ヶ月と、一番長期間になっております。こちらは、込みいった問題をおかかえの方によろしいかと。 ただし、姿は見えず声も聞こえずですので、問題解決にはそれなりのテクニックが必要になってまいります。ここまではおわかりでしょうか? 何かご質問は?」
「頭が痛くなってきました。持病なんです、頭痛。それでですね、質問ですよね。他の人もみんな・・えーっと、みんなって、死んだ人みんなって意味ですけど、こんなややこしいことしなくちゃあならないんですか?」
こめかみの辺りを指でもみながら、私は聞いた。
「もちろん、中にはすぐにあの世に行かれる方もいらっしゃいます。ごくごく僅かではございますが。ナルさまは、すぐにでもあの世にいらっしゃりたいんでございますか?わたくしが頂いておりますナルさまの資料では、とても大きな心残りをかかえておられるようにお見受けいたしますが。」
「あなたに私の何がわかるっていうんですか?」
ほんの少し開きかけていたナルの心は、ジェームズの一言で完全に閉じてしまった。・・・そうよ、こんな人に何がわかるっていうのよ。私の、私達家族の何が。
「お気にさわったのなら謝罪いたします。申し訳ございません、お許しください。ですが、パートナーのわたくしには、出来るだけ本音をお聞かせいただきたいのでございます。そうしていただけませんと、100%お力になることができません。何もしないでおりましても、現世の時間で三ヶ月が過ぎますともう二度とあちらには戻ることはできません。その時になって戻りたい、心残りを解決したいとおっしゃられても、わたくしにはどうすることもできないのでございます。はじめにタイムリミットがあると申し上げたのは、そういう事情でございます。どうか、3つのコースからひとつをお選びいただきますようお願いいたします。」
自分が死んだってことすら理解を超えているのに、Aだの、Bだの選べって言われても無理ってもんだわ、私は思った。だけどこのおじさんの言うように本当にタイムリミットがあるのだとしたら、あれこれ迷い考えているうちに時間切れになるんだとしたら・・・。死んじゃったことだけでも受け入れられないのに、おまけにそんな事態になったら、絶対我慢できない! ここにきて、私の持ち前の負けん気に火がついた。
「Cコースでお願いします。」気がつくと私は高らかに宣言していた。
なんでこうなっちゃうのかな〜。このインチキ天使といると、妙におじさんのペースに巻き込まれちゃうんだよね。大体なんで天使が太ったおっさんなの?背中に羽も生えてないし、天使の輪もないんだよ!“ピポピポ”で有名なお菓子メーカーのキャラだって、可愛い子供じゃん。
「かしこまりました。ナルさまがものわかりの良いお方で助かりました。では、この結果を上のものに報告してまいりますので、このまましばらくお待ちくださいませ。」
私のささやかな心の抵抗も、この厚顔おじさんには全く効き目がなかったようだ。
「あの〜、Cコース難しいと思うんですけど、あなた協力してくれるんですよね。」
「はい、もちろんでございます。それがわたくしの喜びでございます。それでは今しばらくお待ちくださいませ。」
丸っこい顔からこぼれんばかりの笑顔を残して、おじさん天使はカスミのように消えた。これでよかったのかな?安堵と不安の両方が入り交じった気持ちに、押しつぶされそうな私だった。