5.始まりの朝
ばっ、という音とともに布団は剥がされ、体が急に寒くなる。冷えた体は再び暖かい布を求めた。足元まで剥がされた布団を今度は簡単に離れないようにと深くかぶる。
「ねえ、起きて!起きてってば!」
耳元から声が聞こえる。少し高い女性の声だ。
今まで親にすら起こされたことがないので気のせいだろう。幻聴が聞こえるとは僕ももう長くないのかもしれない。
「ぶぉっ」
瞬間、息ができなくなった。顔が冷たい。意識が飛びそうだ。
たぶん、僕は今溺れている。
顔を上げように上から頭を抑えられていてどうにもならない。
僕は今日死ぬのかもしれない。
「お!起きたかな?」
今度は髪をを引っ張られ、水中から抜け出した。ようやく身体に酸素を取り込めた。
乱れた息を整えながら、あたりを見渡した。
目の前にはたっぷりと水の入ったバケツがあった。どうやらここに顔を沈められていたらしい。
物理的にも頭を冷やされて、ようやく事態を把握してきた。
次に僕を窒息死させようとした張本人を見つめる。
「ん?私の顔、何かついてる?」
桜華さんは自分の顔をペタペタと触った。
「僕、死にそうになったんだけど?」
「いや、蓮くんが悪いよ。私何回も起こしたし。それに、ほら」
桜華さんは目覚まし時計を手で持って僕の目の前に出す。
十一時。なるほど、僕は寝坊したようだ。頭からは血の気が引いて行く。
急いでリビングに走りこむ。
「急げー!制服、はい!カバンはそこ」
僕が遅れそうだというのに桜華さんは楽しそうだった。
リビングの中央には朝食が用意されていた。どうやら、彼女が朝早くから用意しておいてくれたらしい。
「ご飯食べられなそうだから冷蔵庫に入れとくね」
「お願いするよ」
少しの罪悪感とともに、桜華さんに礼を言う。
彼女が気を利かせてくれていたことで、いつもよりも早く用意することができた。桜華さんも忙しいのにも関わらずここまで用意をしてもらって本当に感謝しかない。
初日から遅刻する訳にはいかないという思いで急いで用意をした。
もう一度、時計を見る。まだ、ギリギリ間に合いそうだ。
さっと靴を履きドアノブに手を置く。
「行ってらっしゃい!急がなくちゃダメだけど事故はもっとダメだからね」
出て行こうとする僕を見て桜華さんは優しく微笑んだ。「うん」と軽く頷く。
物心がついた頃からすでに両親は共働きをしていた。いつも僕より早く出て行ってそれが当たり前だった。誰かに見送られて家を出るなんて、たぶん今日が初めてだろう。
だから、「行ってらっしゃい」そんな、普通の人にとってはなんてことない一言もなんだかとても嬉しい。
「行ってきます!」
珍しく、桜華さんのように大きな声を出して家を出た。
なんだか今ならなんでもできそうな、そんな気がした。
入学式開始十分前、僕は学校へついた。
受け付けギリギリだったけど、なんとか間に合うことができた。すぐに自転車を駐輪場へ停め、会場である体育館へ向かう。
「よっ!お前も遅刻か?入学式初日から遅刻ギリギリってお前度胸あるな!」
突然肩を叩かれ、思わず振り返る。そこには僕と同じ学生服を着た一人の男子生徒がいた。
短く切られた髪や、黒っぽい肌から、彼がいかにもなスポーツマンであることが伺える。
「えっと、どちら様ですか?」
相手の学年や、性格も分からないのでとりあえず敬語を使っておく。
「桐崎翔悟。今日から1年b組だ。そういや、お前は?」
「僕は清水蓮。クラスは見てないからまだ知らない」
僕の話を聞くと、彼は何も言わずに体育館の方へ走って行った。
「えっと、苗字って清水で合ってるよな?」
彼は、体育館の前に貼ってあるクラス発表のプリントを見ている。どうやら、僕が何組か探してくれているらしい。
「うん。じゃあ、僕はa組から探すから桐崎くんはf組から探してくれない?」
彼は一番端のf組を探していたのでそう指示した。
初対面で厚かましいことこの上ないと思う。でも、いかんせん時間がない。ここは彼の厚意に甘えておこう。
「おう!任せとけ。あと、翔悟でいいから。苗字とか君付けとかなんか気持ち悪いし。その代わり、俺もお前のこと蓮って呼ぶからな!」
『友達を作ってね』
ふと、昨日の桜華さんの言葉が頭に浮かぶ。僕にはまだなにをもって友達と呼べるのかわからない。何をしたら友達になるのか、どこからが友達なのか。
でも、もしかしたら彼となら友達になれるかもしれない。なぜかそんな風に思った。
「そういや、蓮はなんで遅刻しそうになってんだ?」
突然、翔悟は僕に尋ねた。
「昨日は夜遅くまでゲームしてて、寝れたのが明け方だったんだよ。それで、そのまま寝坊した」
流石に女子と二人で朝方までゲームをしていたとは言えないので、それとなくごまかしておく。
「ははっ!ゲームしてて寝坊とかマジウケる!蓮、お前おもしろいな!」
翔悟は僕を馬鹿にしたように腹を抱えて笑っていた。ただ、全てが事実である以上ぐうの音もでない。
桜華さんのせいというのも少なからずあるけれど、あくまで彼女は原因であり、そんなことを言ったところで僕が遅刻しそうになっている事実に変わりはない。
「ところで、なんで翔悟は遅刻しそうになったの?」
今度は翔悟と同じように僕が質問した。もしも本気で友達を作るつもりなら少しでも会話を広げることは大切だろう。
「ああ…俺は。」
翔悟は話しながら下を向いた。そして少しずつ、彼の声は細く、弱くなっていった。
そこには先程のようなハキハキとした元気の良さは見る影もなかった。
どうやら、僕は話題を間違えてしまったらしい。
僕はこの表情、声のトーンが何を示すか知っている。
昨日の夜、ヌシの前で涙を流した桜華さんもそうだった。きっとこの話は触れてはいけなかったのだ。何故なのかまでは分からないけれど。
「朝、起きたらよ…お袋が倒れてたんだ。それで、病院に送ってたらこんな時間になっちまったんだ」
翔悟は悲しそうな顔で話してくれた。昨日の桜華さんのようなその表情は見ているだけで辛くなる。
「ごめん。そんなこと聞いちゃって」
僕の中にある申し訳ないという気持ちを全て乗せ、翔悟に頭を下げた。
「まあ、それは冗談で、楽しみすぎて寝れなかったんだよな。で、結局俺も寝れたの明け方でさ、朝起きたら時間ギリギリでーー」
翔悟はそこまで言って口を紡いだ。
人は、この感情を怒りと呼ぶのだろう。それはきっと僕の心だけでなく顔にまで現れていたのだろう。
「一発、入れてもいいかな?」
僕は右手にグーを作り、翔悟に見せつけるように掲げる。
「ごめん、ごめん、ごめん、ごめん」
翔悟は先程僕がやったように謝った。彼に関して言えば謝罪というよりもやめてほしいという願望の方が強いように感じたけど。
僕の同情の気持ちを返せ!そんなことを思った。
でも、入学式初日から問題は起こしたくないので、今回は彼の渾身の謝罪に免じて許してやる。
「で、お母さんは大丈夫なの?」
翔悟は冗談だと言ったが、もしもということもある。だからそれは聞いておきたかった。
「おう!ピンピンしてるよ。今日も俺を置いて一人でここに来ちまうくらいだ」
呆れた。何というか、こんな会話に既視感を感じる。うん、そうだ、これはまるで桜華さんと話しているようだった。桜華さんと同じように翔悟と話していてもため息が尽きる気がしない。
「あっ!あった」
そんな話をしながらも僕らは名簿を見て、自分の名前を探した。
荒木、木戸口、佐々木、と指でなぞっていき、ついにそれを見つけた。
名前があったのはb組だ。どうやら、翔悟と同じらしい。話せる相手がいる分いいというべきか。ただ、相手が彼というだけに少々不安になる。
自分の名前を見つけたことを翔悟に報告し、一緒に体育館の中へ入った。
すでに九割以上の生徒が集まっている中、自分の場所を探し、静かに座った。朝から慌ててばかりだったけど、なんとか間に合ってよかった。
入学式はつつがなく進行した。校長先生の挨拶、新入生の代表挨拶など、特に変わったことも起きずに終わり、一安心した。
式が終わると、クラスの教室へと移動した。
この学校は、一クラス四十人の構成になっている。
教室の1番前の中央には教卓があり、生徒の机は出席番号順に六列、一列につき六、七人で並んでいた。
クラスメイトが自分の席を見つけ、座っていくのに習い、僕も同じように座った。
相変わらず翔悟は隣にいた。桐崎と清水で席が近くなるのはわかるが、ここまでくると流石に何かの縁と考える方が良さそうだ。
「じゃあ、まずアンケートを書いてくれ」
だるそうな顔で担任の女教師がプリントを配っていく。
前から三列目に座っている僕にも少し遅れてプリントが届いた。
筆箱からシャーペンを取り出し、アンケートの質問を見ていく。
シャーペンを手にした時、僕は重大なミスに気づいた。
試しにシャーペンを一度ノックした。案の定、何も出てこなかった。
筆箱の中を漁ってもそれは出てくる気配などなかった。
「どうした?」
どうやら、僕が焦っているのを察したらしく、翔悟が小さな声で話しかけてきた。
「シャー芯を忘れたみたいなんだ」
昨日コンビニで買ったシャー芯は、きっとまだ袋の中に入ったままだろう。桜華さんとの勝負に夢中になり、しまうのを忘れていた。
やはり、先にしまっておくべきだった。
「ほらよ」
僕の話を聞くと、翔悟はすぐに筆箱を漁りだした。そしてシャー芯をケースの中から三本ほど取り出し、それを僕に渡した。
「…ありがとう」
僕は少し驚いてポカンとしていた。普通の人ならこんなことくらい誰でもやって当然だと言うのだろう。
でも、そんな当然なことを当然のようにやってのける翔悟を僕は素直に尊敬した。
もしかしたら彼はいい奴なのかもしれない。
「いいってことよ。それより、早く書かねぇと。いきなり怒られるぞ」
翔悟は、照れ臭そうにして笑った。
アンケートの内容は中学校での生活や高校での意気込みなどを記号で答えるだけの簡単なものだったので、あまり時間はかからなかった。
書き終えて少しした後、担任の「後ろから集めろ」という一声でプリントが回収された。
「よし、全部集まったな。じゃあ自己紹介を始める。」
急に振られた自己紹介というワードに教室が少しざわつく。
そんなざわつきを一蹴するように担任の「まずは1席の荒木から」という言葉で半ば強引に自己紹介が始まった。
荒木と呼ばれたらその男子生徒は、担任に呼ばれ、教卓の前で少しの自己紹介をした。
内容は名前、出身校、部活などよくあるような、いわゆる定番ものだった。
トップバッターが無難に始めたこともあって、話す内容こと違うけれど、おおよそ同じような自己紹介が続いた。約一名を除いて。
「俺は桐崎翔悟って言います!中学は東桜中。趣味はちっさい頃からやってる野球かな?好きなことって言うか、女の子はみんな大好きです!よろしく!」
きっと、恥ずかしがりながらこんなことを言えば、キモいとか、寒いとか心のないことを言われるだろう。
でも、堂々とした翔悟のキャラからなのか、クラスではいい笑いが溢れていた。
東桜中はここから近いのでこの中にも知り合いもいるだろう。でも、初対面の人がいる中でそんなことをするなんて、僕には絶対できない。
翔悟はきっとクラスのリーダーになって盛り上げていくのだろうと勝手ながら心の中で思った。
そして、しばらくしてようやく僕の番が回ってきた。結局、彼以外はみんな普通の自己紹介を続けていた。
だから、僕もそうしようと心に決め、教卓の前に立った。
「僕の名前は清水蓮です。親の転勤の都合で色々な場所を転々としていたので特に出身校とかは特にありません。趣味は読書です。これからよろしくお願いします」
僕も前の人たちと同じようにいたって普通の当たり障りのない自己紹介をした。はずだった。
しかし、僕の自己紹介が終わると周りからヒソヒソと話し声が聞こえた。
何をミスしたのか分からず、思い当たる節もなかった。
でも、その正体は席について隣のバカがすぐに教えてくれた。
「お前、そんな引っ越してんの?」
翔悟は興味津々という様子で聞いてきた。
なるほど、確かにここにいる半分以上の人が転校というのを経験したことはないだろう。
それに経験していたとしても、多くて2回くらいだろう。僕のように両手でようやく数えきれる人などそうは多くない。
だから、彼らが興味を持つのも納得がいく。
「まあね」
「どこにいたんだ?」
昔のことは色々と思い出したくないけど場所くらいは答えておくことにした。
「ここ以外だと、北は東北、南は九州までいたよ」
今まで考えたこともなかったが、ここまで日本を縦断しているのはなかなかすごいと思う。
「えぇ!いいなー!」
翔悟は驚いていたようで大きな声を上げた。
その声に呼ばれて、クラスメイトの視線も一斉にこちらへ向いた。
その視線の多さに耐えきれず肩をすぼめた。
「おい!うるさいぞ桐崎。大好きな女子から視線をもらいたいのも分かるがタイミングを考えろ!」
翔悟は「へへへ」と小さな子どものように照れた笑いをしていた。周りも、その担任と翔悟のやりとりにつられて笑っていた。
その後も自己紹介が続いた。最後には担任自らが自己紹介をして、ようやく今日の授業が終了した。
「では、今日はこれで解散」
そう言って、1席の荒木を指名し、「起立、気をつけ、ありがとうございました。」という定番の挨拶をして、今日は解散となった。
「おーい!今日カラオケ行かね?クラスのみんな誘ってんだけど、親睦会的な感じで、どう?」
荷物をまとめて教室を出る前、翔悟に話しかけられた。
クラスの全員とは、流石の行動力だな、と少し関心する。
でも、今日は桜華さんと布団を買いに行く約束をしている。今日買いに行かないと、またあのシングルベッドにニ人で寝るはめになってしまう。それだけはなんとしても避けたかった。
「ごめん。今日は用事があるんだ」
「そっか、こっちこそ急に誘ってごめんな」
翔悟は少し僕に気を使ったように謝った。きっと、こういう彼の気遣いの数々が人望を集めるのにつながっているのだろう。
朝会った時とは違い、僕の中で彼の好感度が少し上がっていた。相変わらず、バカだとは思うけど。
「じゃあ、明日は空いてる?」
明日は特に桜華さんとどこかへ行く予定はない。なら、別に予定を入れても問題ないはずだ。友達を作れと言った桜華さんが僕を止めるわけはないだろうし。
「うん。空いてるよ」
「じゃあさ、明日昼飯食いに行こうぜ!明日も午前だけだしさ。行きつけの店、紹介してやるよ」
翔悟は自信満々に笑みを浮かべる。
僕がこの町にいたのは小学生の頃なので、あまり飲食店には詳しくない。だから、彼の言う行きつけのお店と言うのが少し気になった。
「いいね!楽しみにしておくよ」
「おう!任せとけ!」
少しだけ、明日が待ち遠しくなった。
「翔ちゃんまだー?早く早く!」
教室の後ろのドアから一人の女の子がひょっこりと顔を出している。
確か、同じクラスの…名前は覚えていない。
翔悟の友達、いや恋人だろうか。
「わかってる。今から行くから!じゃあな、蓮!」
「うん、じゃあまた明日」
彼は言い終えると、荷物を持って廊下に走っていった。と思ったが、何かを思い出したかのように僕の方へ猛ダッシュして戻ってきた。
「蓮、連絡先教えてくれ」
ハアハア、と翔悟はわざとらしく息を整えるふりをした。
「そういえばまだだったね」
友達などいなかった僕にはもちろんSNSで友達の連絡先を交換する習慣などついていなかった。それもあって言われるまで全くと言っていいほど気がつかなかった。
お互いにスマホを取り出し、友達追加の画面を開く。アプリが使えなくなった時のために、念のため電話番号も登録しておいた。
そして、僕の友達の欄に『しよーご』という名前が追加された。
両親、桜華さんに続いて四人目の登録だった。
「じゃあ、今度こそバイバイだな」
「うん。じゃあね」
そして、二人で声を揃えて「また明日」と挨拶をした。
そんな久しぶりの感覚が少し恥ずかしかった。
下駄箱で靴を履き替え駐輪場へと向かう。
自転車にまたがる。行き道とは違い、ゆっくりと落ち着いて帰路へついた。
春の昼下がりの風はとても肌に心地よかった。
投稿遅れてすみません。
諸事情により今日から0時に投稿します。
誤字脱字報告もあればお願いします。